16/11/09 11:52:47.50 CAP_USER.net
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(中略)
この階層化は日本では、2,000万人以上が相対的貧困であり労働者の4割が非正規雇用であるといった事実で示される。
また、高齢者の700万人が高齢者で、生活保護受給者は 210万人を超える。
けれども日本では、アメリカのように貧困者の怒りがなかなか可視化されない。貧困に関する数字を重ね合わせていくと、
「下流階層」は5,000万人程度は存在すると僕は推測している。
これは年収の中央値の手取りよりいくぶん下あたり(世帯中央値400万強ではなく、個人中央値から社会保険を引いた
分手取り250万円程度より若干下の手取り年収200万あたりより下)を目安としている。
あちこちに散らばる多くの統計をまとめることは僕は素人なので若干のズレはあるかもしれないが、大筋こんなものだと思う。
相対的貧困層(手取り125万円程度より下)が全体の6人に1人で2,000万人
これに手取り200万程度の人たちが3,000万人いるだろう(これには子どもも高齢者も含まれるから大雑把ではあるものの、
マルっと数字を括らなければ全体の議論ができず、それは専門家は無責任になるのでできず、素人の僕みたいなのがやるしかない。
これほど「格差」の数字を並べられても、日本では、なんとなく「貧困」が実感しにくい。
それは、1.貧困者にも実感しにくく、2.階層間の断絶から中流層より上にも実感しにくいからだ。
1.については、貧困者にとっては、横を見ればみな低収入だからそれほど気にならないという点もあるようだ。
おカネはないのはないのだけど、家族も友達もみんな「ない」から、服も食事も買い物ももすべて
安価で済ませる(あるいは消費しない)ということがそれほど目立たない。
たとえば、移動はすべて自転車、食べ物はコンビニおにぎり、服はGUという若者は僕の支援の対象の若者にはまったく珍しくない。
唯一おカネをかけるのは携帯代だけだ。
みんなおカネがないから「まあそんなもの」で済ませ、携帯代だけは苦労してかき集める。貯金は当然ゼロだ。
■LINEの世界には「上」はいない
社会学者の古市憲寿氏が『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)を出版したのは2011年だった(絶望の国の幸福な若者たち)。
あれからたった5年しかたっていないのだが、階層化が始まった頃(リーマンショックの2008年あたり)に
取材執筆した同書にはまだ「貧困」というあり方が直接描かれてはいない。
だから同書に出てくる若者は貧困というよりは、「非正規雇用だけどそれほど困ってはいない人々」として比較的ポジティブに提示される。
が、リーマンショックから8年、古市本から5年たち、社会は「数字上では」すっかり階層化してしまった。
けれども日本には、アンポに怒る若者はいるが、カクサに怒る若者はいないようにみえる。またアメリカのように、
サンダースもトランプも出現せず、新自由主義の保守与党がリベラル的要素を含んだ政策もとりこんでいく。
また、野党勢力は正社員で構成される既存労組が中心であり、下流層5,000万人を吸い込む政治勢力がなかなか見えてこない。
下流層は横を見て安心し、自分より下を見て(相対的貧困ラインを見て)さらに安心し、決して「上」は見ない、
というか、自転車+コンビニ+おにぎり+LINEの世界には「上」は見えない。
そこを、以前当欄でもとりあげたエグザイルやワンピース等の「文化資本」がフォローする
(ヤンキーは「海賊王」がすき~階層社会の『ワンピース』、エグザイルは貧困の怒りを代弁しない)。
貧困者は、自らの貧困問題を先送りにするか、自分たちよりさらに下の貧困層を「打つ」ことでごまかす。
このように、マス数字実感の放棄と、文化による快楽と、下層内対立により、階層社会は絶妙に維持されているようだ。
■「他者への想像力の貧困」
また言い換えると、誰も社会全体を「想像」しようとしないのが階層社会の姿のようだ。
下層になれば、だんだんめんどくさくなるあるいは下層ゆえにその能力を持っていない。中層と上層は(日本は4割と2割程度)階層化に
ついての想像力を持つ必要がないので、従来問題(たとえば「ひきこもり」)に留まる。
要するに貧困(経済・文化・社会関係)という現象は、「他者への想像力の貧困」なのだと思う。その想像力の貧困が、
日本という島国ではタコツボ幸福となり、アメリカという多民族大陸では怒りとポピュリズムになる。★