07/02/22 19:40:42 ErFFsAF10
寒稽古に向かった千鶴の後を追って、耕一は屋敷の門を出た。
夜のうちにうっすらと積もった雪を踏んで、ねぼけまなこに沁みる、まぶしい朝日の
中を行く。沈丁花の甘く香る小さな社の脇を折れて、細い山道を椚林の方へと入り、
下草から零れる雫に足元を濡らしながら、踏み跡をずっと行くと、椚林の切れたところ、
せせらぎの、小さな滝のそばに、千鶴はちいさく佇んでいた。
藤納戸の小紋に利休鼠の羽織をかけて、白布で束ねたみどりの黒髪、雪駄をそろえて、
端座した茣蓙の上で、漆の塗りも美しい膝の横笛に手を置いて、目を閉じてじっと想を
練っている。
耕一は、何とはなしに声かけがたく、林の出口の木の幹に寄って、天女が座禅をするか
と見える、千鶴の姿を、ただ茫然と眺めていた。瀬に寄せる風に、椚の梢がざわざわと
揺れて、つぃー、と長く、目白が枝を渡る声。
と、千鶴は顔を上げて、木陰の耕一を見遣って、小首を傾げて、少し優しく微笑むと、
目を伏せて、膝の横笛をおもむろに唇にあて、のめりこむようにその歌口に息を込めた。
春を焦がれる笛の音は、やさしき東風に運ばれて、ひゅうひゅうと、ひょうひょうと、
瀬を渡り、梢を渡って、椚の目白の相の手に、調子を締めて、いよいよ高く、澄みきった
如月の空を舞うのである。
ふと気が付けば、かたわらの淡き梅の香に、いづこにか、まだたどたどしい鶯の声。
ここ隆山にも、遅い春がようやく訪れようとしていた。
【前スレ】月があおいね……千鶴さん(柏木千鶴スレ31)
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