07/02/16 14:30:43 rrE5s4aZ
ショタ以前の男性性は、能動的なセックスを強要する。然しそもそも、人は本来、そんなにセックスをしたく
ないのではないだろうか。人は動物が持っているような本能が壊れているので、常に発情状態にあるというこ
とは、その逆も成り立つ。人はセックスをしなくとも生きていける。深沢七郎は言っている。「性欲なんて、あれ
も一種のごまかしでね。おもしろいことがないから、それを一生懸命やってるんじゃない?」(深沢、一九九三)
。したくないけれども、しなくてはならない。そのズレを埋めるために、さまざまなメディアがヘテロセクシャルな
性欲を煽り立ててきた。男性の能動的な性欲が本来的でないからこそ、執拗に扇動が行われてきたのである
。その虚構を剥いだあとで、セクシュアリティを模索しているのがショタなのだろう。
では、ショタという性的物語の消費のされ方をみてみよう。或る人は、ショタは作られた男性性ではなく、真の
男性性=真の少年性の模索であると言う。ショタにあるのは、少年のセクシュアリティである。ショタはそれを救
い上げてくれるのである。十分に社会化されていない少年の未分化なセクシュアリティは、ときに同性へと向か
う。やがて大人になるにつれ、そのようなセクシュアリティは、社会的に否定される。ショタはその否定を覆してく
れる。すなわち同性に感じた友情や恋愛感情、同性への性的欲望は間違っていなかったのだと。少年時代はシ
ョタによって認められる。このようにショタは一種のセラピーとして消費されることもある。
ところでショタはヘテロと異なる。ではホモかといえば、そうでもない。ショタの作者は「ホモ」と言われると「自分
はホモではない」と半ば怒ったように答える。これはどういうことなのか。
欲望する主体であった男性が、反転して、欲望される主体となったのがショタだが、然しこれは性的に閉じた逆
転である。完璧な逆転ならば、欲望する主体であった男性が、女性によって対象化され欲望される主体となるは
ずだ。然しそうはならない。このような非対称性は、現実にも見うけられる。
実際、例えば男性は、同性からの痴漢行為には恐怖を感じるが、女性からのそれにはあまり恐怖を感じないだ
ろう。男性は女性からの性的関係を何でも受け入れる。これは否定の否定は肯定であるということに過ぎない。女
性と他者として対峙するのではなく、何でも受け入れるという形で、男性は本質的に女性との関係を排除している
。男は女ではなく男が恐いのである。だからショタで描かれるのは、男性は男性でも、あくまで「アニメ絵」で描かれ
「かわいい少年」でなければならない。ショタの作者が「自分はホモでない」と言うのは、そういうことだ。