12/03/02 22:13:40.80 FcsHhtSe
「おつかれー!」
ビールで乾杯、といきたいところだが、この後祐一が車で送ってくれることに
なっているので、ふたりは熱いあがりの入った湯飲みををちょっと持ち上げた。
祭りが終わって店を撤収し、いったん店に帰った後、祐一は綾子をなじみのすし屋に
誘った。のれんをくぐると、清潔な店内にはすし飯のいい香りがぷんとただよい、
おにぎり以外何も食べていないふたりの空腹をあおった。
「・・・おいしい。こんなの初めて。」
玉虫色に光る漬けのマグロや、ツメを塗った見慣れないネタの数々・・・いつも食べ
つけているのとはちょっと違った顔ぶれの寿司を、おそるおそる口に入れた綾子は、
そのおいしさに思わず破顔した。
「俺は小さい頃から寿司って言うとここだったから、やっぱりこれでなくっちゃなんだ。」
「ゆうちゃん、いらっしゃい。」
お吸い物を運んできてくれたのは、白髪をきれいにまとめ、いかにも着慣れた着物が
小粋な老女将だった。
「あ、こんばんは・・・。綾子、この人はね、この辺の生き字引のばあちゃんなんだ。」
「いやだねえ。長老呼ばわりはよしとくれ。だいたいあたしはここの生まれじゃない。
亭主がすし屋やりたいってんでついて来て、もう60年になるねえ。」
歯切れのいい言葉やたたずまいから、生まれも育ちも下町っ子のように見える
女将がよそから来たと聞いて、綾子は驚いた。
「来たばっかりの頃は西も東もわかんなかったもんだけど・・・下町ってのは案外ふところが
深いもんだよ。もっとも、あたしは亭主のいる所ならどこでもよかったんだけどね。」
「またばあちゃんのノロケが始まったな。」
ここもまた、祐一を子供の時から知っている人々の場所なのだけれど、綾子は
この老女将にはちっともアウェー感を覚えなかった。
「・・・すてきなお店ね。」
「綾子が気に入ってくれてよかったよ。」
二人は店を出て、祐一の家に向かって歩いた。別れが近づくにつれ、離れがたい
想いがつのってくる。
「あ、綾子。今日・・・さ、泊まっていけない?」
「え・・・。」
車のドアを開け、綾子が乗り込もうとした時、祐一が意を決したように切り出した。
「帰らないで・・・ほしいんだ。」
振り向いた綾子の目が、祐一の真剣なまなざしとぶつかった。
「・・・うん。」
綾子が静かにうなずいた。