【俺の妹】伏見つかさエロパロ15【十三番目のねこシス】at EROPARO
【俺の妹】伏見つかさエロパロ15【十三番目のねこシス】 - 暇つぶし2ch481:風(前編) 7/44
11/03/06 08:07:34.85 9cdJfIvR

 それどころか、奨学金の申請と引き換えに、仕送りが減額されるんだぜ。
 もう、親、特にお袋からは半ば見捨てられているに等しいよな。

『そんな京介氏を、拙者たちは励ましたいと思っておりまして。近日中、出来れば、次の日曜日あたりにでも、拙者と黒猫
氏とで、お邪魔させていただければと思い、先ほどはメール、そして今はこうして電話にてお伺いしておる次第でござる』

「そ、それは、まぁ、ありがたいけどよ……」

 俺だって、正直、沙織や黒猫には会いたい。しかし、この下宿屋に押しかけられるのは、御免被りたい。あやせの時は、
どうにか『妹』ということでごまかせたが、沙織や黒猫が来た時まで、同じ嘘が通用するはずがないし、他にうまい言い
訳も思いつかないからな。それに、まさかとは思うが、桐乃がこの件に関わって居るのかどうかが気になる。
 だが、聡明な沙織は、そんな俺の懸念を鋭く見抜いてくれたらしい。

『ご心配には、及びませぬぞ。先ほどのメールにしたためた京介氏の住所は、黒猫氏にも、きりりん氏にもお知らせする
ことはござらん。ただ、拙者が本気で京介氏にお会いしたいという決意の現れを示すために、僭越ながら貴殿の居場
所を調べ、それを先ほどのメールに記載させていただいた次第でござる』

「じゃ、じゃあ、こっちの下宿には来ないんだな? それと、桐乃は、今回は関わってこないのか?」

『京介氏の下宿の住所は、黒猫氏にも秘密にさせていただく以上、拙者も京介氏の下宿にお邪魔するわけには参りま
せぬ。それに、今回そちらへお邪魔するのは、黒猫氏と拙者のみでござる。きりりん氏も、おそらくは京介氏に会いたい
とは思いまするが、今はまだ、その時期ではござらん』

「そ、そうか……。そうしてもらえるなら、助かるよ」

 状況を的確に判断したマネージメントには恐れ入る。これで、俺よりも年下なんだからな。末は、立派な実業家になり
そうだ。

『それでは、京介氏。今度の日曜日ということで宜しければ、当日は、午前中にそちらの中央駅に到着するように致しと
うござる。先ほど、黒猫氏とも相談致しましたが、朝八時頃に東京発の新幹線に乗れば、昼前には、そちらの中央駅に
到着するでござろう。しからば、中央駅前にあるアニメショップを見てから三人で昼食をして、その後は、市内を見物し
ながら互いの近況報告を含めたおしゃべりということでいかがでござろうか?』

「いいんじゃねぇか、俺も、みんなと久しぶりに会いたいからな」

 しかし、駅前のアニメショップって、アキバにある店の小規模な支店なんだけどな。
 見てもしょうがないと思うが、まぁいいか。

『おお、それはそれは……。では、黒猫氏ともスケジュールの詳細を詰めて、後日、改めてご連絡申し上げる』

「いや、そんなにしゃちほこ張らなくてもいいよ。当日、新幹線の中からでも到着一時間前くらいに電話かメールでもしてくれ。そうしたら、中央駅の改札まで迎えに行く」

『では、そう致しましょうぞ。それでは、今度の日曜日は、宜しくでござる』

「ああ、こちらこそ、宜しく頼むぜ。だがな……」

『おや、京介氏。何か、気になることが未だおありでござったか?』

「いや、念のために訊いておくが、俺の居場所をどうやって突き止めたんだ? それに、俺のパソコンのメアドとかも、
どうやったら分かったんだ?」

 電話の向こうでは、沙織がからからと笑っていた。


482:風(前編) 8/44
11/03/06 08:08:39.91 9cdJfIvR

『京介氏、それを訊くのは野暮というものでござろう。拙者、色々と人脈もあれば、年齢不相応な権限も持ち合わせて
おる次第にござる。京介氏の居場所を知るためとあらば、それらを行使することもやぶさかではござらんと、ご理解くだ
され』

「そうだったな……。お前だったら、俺の居場所を突き止められるだろうな」

 そうはいっても、個人情報保護法があるんだから、簡単じゃねぇよな。沙織だって、それなりに本気で俺のことを心配
してくれているから、多少の無理は承知の上で、彼女が言う『人脈』とか『権限』とかを行使したんだろう。
 沙織が具体的にどんなことをやったのか、下々の俺には分からねぇけどよ。

『では、拙者の用向きは以上でござる。拙者も黒猫氏も、当日は京介氏にお会いできることを楽しみしておりまするぞ』

「俺もだ。当日は宜しく頼むぜ」

 通話を終えた俺は、自身の携帯端末の液晶画面に暫し見入っていた。
 画面には、沙織の携帯端末の番号と通話時間が、角張った無機的なフォントで表示されている。
 見たか、お袋よ。
 あんたが、俺をこの地に追いやり、俺のことを半ば見捨てようとも、こうして俺のことを気に掛けてくれる奴は居るんだぜ。
 あんたが、俺の居場所をどんなに秘匿しても、そいつらは、あやせや沙織は、おそらくは合法非合法の手段を問わず
に、こうして俺の居場所を突き止めてくるんだ。
 ざまぁ見やがれ。

「落ち込んでいたけどよ……、ちったぁ元気が出てきたのかもな……」

 誰も彼もから見捨てられては、人は生きてはいけない。
 だが、遠くからでも、誰かが想ってくれるのなら、それが生きる上での励みとなるのだろう。
 そんなことを思いながら、俺は、本来すべきであった判例の検索に取りかかった。
 それが一段落しそうな頃合いに、下宿の女主人が、階下から俺を呼ばわった。夕餉の時間なのだ。
 俺は、ダウンロードしたPDFファイルに適当なファイル名を付けて保存すると、飯を食うべく、のそのそと階下の
八畳間へと向かった。


*  *  *
 昨日の予習のおかげで、刑事訴訟法の講義は、まあまあ楽勝だったが、英文読解はちょっと冷や汗ものだった。
 語学系の講義は、どれもいつ当てられるかヒヤヒヤしながらの1時間半が常で、これがすこぶる心臓に宜しくない。
一応、予習はしてあったんだが、ちょっとでも言い淀むと、その辺を突っ込まれて、晒し者になるから気が抜けないのだ。
 今日も、誰だか知らねぇが、講師の質問に答えられずに、大恥をかかされていた学生が居た。
 俺が当てられなくてよかった。その質問には、俺もまともに答えられそうになかったからな。

 そんなことを思い返しながら、俺は壁や天井が煤けた学食の片隅で、いつものようにコロッケをトッピングした不味い
ラーメンを食っている。
 栄養学的には褒められたもんじゃないんだろうが、安くて腹が膨れるから、昼飯はもっぱらこれだった。
 そんないかがわしい代物を学食の隅っこに引っ込んで、もそもそと食う。我ながら、どっから見ても負け犬っぽい。

 俺は、ラーメンを食う手を止めて、ちょっとだけ周囲を窺った。大学生活を始めておよそ一箇月。一年生で、よそ者だと
いう遠慮が無意識に働いているせいなのか、俺は、決まって隅っこの方で飯を食う。
 そのため、場末とでも言うべきこの場所は、俺の指定席みたいなもんになっちまった。

「しかし、俺の周囲の連中も、いつもながら似たような顔ぶれだよな……」

 どいつもこいつも、高校生に毛の生えたようなガキっぽい感じがするから、その多くは新入生なんだろう。料理を受け
取るカウンターに近い便利な場所は上級生に遠慮して、こうして隅っこで大人しくしているのかも知れない。


483:風(前編) 9/44
11/03/06 08:10:11.30 9cdJfIvR

「でさぁ……、午後の解剖学なんだけどぉ……」

 声がした方に目線だけを送ってみると、目がパッチリとして、長い髪を一本のお下げにした、モデルばりに可愛い娘が、
弁当箱の蓋を持ち上げながら、差し向かいで座っている男子学生に話しかけていた。

「解剖学は、筋肉の一筋、末梢神経の一本一本に至るまで細かく分類されてっからなぁ……。たしかに面倒くさいよ
なぁ……」

「これって、全部、前期のテストに出るんだよね?」

「そりゃ、出るだろ。やる気のない奴や、記憶力のない奴をふるい落とすにゃ、こうした細々とした事項を訊くのが一番だ
ろうからさ」

「新入生のうちから、不適格者は排除って、ことぉ? 何げにひどくない?」

「しょうがないさ、いずれは人様の命を預かるんだから、無責任なヤブはまずいってこったろう。お前も、家業を継ぐため
には頑張るしかないだろうが」

「そりゃ、そうなんだけどさぁ……」

 『解剖学』というから理学部の生物学科かと最初は思ったが、『人様の命を預かる』という台詞で、医学部生だと分
かった。二人とも、俺と同じ新入生のようだが、法学部と医学部とじゃ、同じ大学でも偏差値が段違いだ。法学部にぎり
ぎり滑り込みセーフだった俺(たぶん、そうだろう)なんかとは、違う次元の連中だぜ。
 それもモデルばりに可愛い娘の実家は開業医らしい。

「まぁ、お互い必死こいて、この大学に入ったんだ。その勢いで、医師国家試験の合格まで頑張ろうぜ」

「……うん……」

 その女子の相方である男子学生は、度の強そうな黒ブチ眼鏡のせいで、目元はよく分からなかったが、鼻筋が通り、
顎のラインがすっきりとしたカーブを描いていた。どちらかというと、イケメンに属するだろう。

『頭脳明晰でイケメン、おまけに才色兼備の彼女付きとはね……』

「おっ、この高野豆腐、上出来」

 そのイケメン男子学生も自分の弁当箱を開けて、おかずに箸をつけていた。
 何じゃこりゃ、弁当箱の大きさや形は違っても、その女子学生と男子学生とで、中身は全く同じじゃねぇか。
 しかも、美観にまで配慮したセンスのいい盛り付けをしてやがる。

『彼女の手作り弁当かよ……』

 無い無い尽くしの俺にとっちゃ、気分のいい光景じゃねぇな。
 畜生、羨ましくなんかねぇぞ!!!! ………………………いや、本音は羨ましいよな……。

 二人のことを努めて意識しないようにしていたが、それにしても、色とりどりのおかずが盛り付けられた弁当は旨そう
だった。
 不覚にも、その弁当をまじまじと凝視していたらしい。それにお下げ髪の女子学生が気付いたのか、俺と彼女の目線
が交錯した。

「あ、あのぉ~~、な、何か?」

 不幸にも俺と目線が合ってしまった女子学生が、肩をすくめておののき困惑している。
 鏡で自分の顔を確認したわけじゃないが、この時の俺は、一昨日の起きがけに、あやせから「性犯罪者予備軍」と罵
られた時と似たような目つきだったんだろう。

484:風(前編) 10/44
11/03/06 08:11:19.52 9cdJfIvR
 そのお下げの彼女は、差し向かいに居る男子学生に救いを求めるような眼差しを送っている。し、しかし、

「……………」

 イケメン眼鏡も、ドン引きして絶句してやがるのか?
 俺って、どんだけ人相悪いんだろう。いや、こっちに来てから完全に負け犬モードの連続だったから、急速に悪化した
のかも知れない。
 元々がよくはないけどな。

 そのイケメン眼鏡は、俺が食いかけているコロッケ乗せラーメンを一瞥し、眉をひそめている。
 そりゃそうだ、栄養学的には、お世辞にも褒められたもんじゃねぇからな。
 そっちの彼女手作りの、おそらくは栄養のバランスも考えている弁当とは大違いだ。

 食い物からして、リア充と負け犬とじゃ、こうも違うんだな。
 俺は、今にも二人が席を立って別の場所に移動するか、リア充眼鏡が俺に抗議をしてくるか、そのいずれかを覚悟した。

『俺の女をガン見するんじゃねぇ!』

 ぐらいは言われて、下手すれば、一発、二発は殴られてもおかしくはない。

 だが、そのリア充眼鏡の行動は、斜め上を行ってやがった。

「よ、よかったら、ど、どうだ? 俺とこいつだけじゃ食べきれないほど作っちまったから、え、遠慮なく、く、食ってくれて、
い、いいぞ……」

「?!」

 イケメン眼鏡は、おずおずと自分の弁当箱を俺の方に差し出してくるじゃねぇか。相方の女子学生を見れば、彼女も、
困惑しているような雰囲気は否めないが、それでも微笑していやがる。

 これって、リア充の余裕?

 乞食じゃあるめぇし、理由なく施しを受けるのは気が進まなかったが、差し出された弁当は、本当に彩りがよく、旨そう
だったんだ。
 俺は、ラーメンの汁が染みた割り箸を、イケメン眼鏡が差し出した弁当箱に恐る恐る伸ばし、出汁巻き卵の一片を掴
み取って口に運んだ。

「旨い! すんげぇ旨いよ」

 昆布か何かの出汁の味とともに、砂糖とは異なる嫌味のない甘さが印象的だった。
 濃口醤油でどす黒く染まり、化学調味料と砂糖の入れ過ぎで後味が悪い、お袋が作る卵焼きとは大違いだ。

「そ、そうか、よかった……」

 そう呟いて、イケメン眼鏡は、相方に頷いた。

「やったじゃん。やっぱ、亮一って、医者以外だったら、調理師になっていたかもね」

「え?!」

 俺は絶句した。彼女と揃いの弁当は、彼女ではなく、亮一と呼ばれたその彼氏が作っていたのだ。




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11/03/06 08:12:27.08 9cdJfIvR

「俺は、陶山亮一、医学部の一年だ。こっちは、同じ高校の出身で川原瑛美、やはり医学部で俺の同級生だ」

 陶山と名乗る男子学生に紹介されたお下げの女子学生は、「川原です」と言って、俺に対して軽く会釈をしてくれた。

「お、俺は、高坂京介、法学部の一年だ」

 俺も、彼らに倣って、軽く自己紹介だ。
 だが、他人の彼女をガン見した上に、弁当までおすそ分けされたバツの悪さがあって、どうにも緊張しやがる。

 そんな俺に対して、陶山も川原さんも鷹揚そのもので、川原さんに至ってはニコニコと害のない笑顔を浮かべている。
うわ、やべぇ、人の彼女だってのに可愛すぎる。

「亮一は、料理が好きなのよ。で、作ったものを食べてもらって、それを褒めてもらえるのが純粋に嬉しいの」

 男でも料理が好きな奴が居るらしいってのは聞いたことはあったが、実物を目の当たりにしたのは、これが我が人生
で最初だろう。
 にしても、料理を褒めたぐらいで、あやせに『性犯罪者予備軍』と罵られたほど目つきの悪い俺を信用していいもの
か。今いち理解に苦しむよな。

「さ、さっきは、川原さんのことをジロジロ見て……。俺って目つきの悪い不審者だよな。それなのに……」

 いじけて愚痴るように言っちまった。だが、陶山は苦笑し、川原さんは、「うふふ……」と笑っている。

「高坂くん、だったっけ? さっきの高坂くん程度の目つきじゃ、あたしは別に驚かないから……」

 そうして、川原さんは、相方の陶山に、黒ブチ眼鏡を外すように促した。

「うわ!」

 眼鏡を外すと、こうも印象が変わるものなのか。沙織もそうだったが、陶山の場合も驚きだ。

「びっくりしただろ?」

「ああ、格闘ゲームのラスボスみたいな迫力があるな……」

 言われた陶山は、俺の一言にピンと来なかったのか、「ラスボス?」と呟きながら小首を傾げている。
 どうやら、こいつはゲームなんかとは無縁であって、オタクではないらしい。

「亮一のは伊達眼鏡なのよ。本人は、目つきが悪いってコンプレックスを持っていてね。それで掛けてるの。あたしゃ、
別段、目つきは悪いとは思わないんだけどさ」

 三白眼っぽいが、よく見れば柔和な印象もある。迫力はあるが、少なくとも悪党ヅラではない。

「ま、まぁ、事情が特別らしいのは分かったよ……。でもよ……」

 その後は、『どこの馬の骨とも知れない俺みたいな……』と続けるつもりだったが、言えなかった。リア充のカップルを
前に、格好が悪すぎるからな。だが、

「何でかしらね……」

「うん、何でだろうな」

 陶山も川原さんも、勘が鋭いらしい。こちらが言いかけていたことを見抜いているようだ。

「理屈とか、理由とかなんてのは、多分なくて、高坂は、何となく俺たちと似たような感じがしたから、瑛美の奴が声を


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11/03/06 08:13:44.60 9cdJfIvR
かけたし、俺も弁当を差し出した。そんだけの気がするな」

「うん、そうかも……」

 本当に頭のいい奴、嫌味な言い方を許してもらえば、高等な奴ってのは、勘が鋭いだけじゃなくて、偏見や先入観も
変な風には持っていないのかも知れない。

「ところで、俺も瑛美も地元の人間なんだ。高坂、お前は?」

 二人ともジモティだってのはイントネーションで何となく分かっていた。
 それは俺の場合も同様で、この二人には、俺が関東出身だってのがモロバレだろう。

「千葉出身だ。千葉県の千葉市に実家がある」

「へぇ~~千葉なんだぁ~。あたしも、中学二年から高校二年の五月までは、埼玉の親戚の家に居たんだよね」

 川原さんの一言に陶山も頷いている。
 地元出身のこの二人に、関東出身者である俺への偏見みたいなものが感じられなかったのは、そのせいだろうか。
 それとも、こっちの人間が関東の人間をバカにしているというのは、俺が抱いていた根拠のない思い込みだったのか。

「何だかんだ言っても、首都圏が文化の中心なんだ。こっちの人間に、東京への憧憬がないかっていうと、そりゃ嘘だ。実際、俺だって、瑛美の奴が中学の途中で向こうに行った時は羨ましかったよ」

 陶山が呟くように言った。こいつは、表裏のない正直な奴なんだろう。
 そうした点は、馬鹿正直な俺と似通っているのかも知れねぇ。

 俺は、腕時計で時刻を確認した。あとちょっとで、午後一時十分前になるところだった。

「そろそろ昼休みも終わりだな」

 陶山と川原さんは、微笑みながら頷いている。

「高坂は、明日もここで飯を食うんだろ? よかったら、今度は首都圏での話を聞かせてくれよ。それと、法学部での
話とかも頼むぜ」

「そうは言ってもよ、大したことは話せないぜ」

「いや、瑛美はとにかく、俺は関東のことはロクに知らないんだ。何だって構わないさ。それに、医学部の連中だけで話し
ていると、息が詰まってなぁ。なんか純粋培養ってのは、俺の性に合わないんだよ」

 そう言うと、陶山は川原さんを伴って、「じゃあな……」という一言を残して、医学部のある学棟の方へと歩み去って行った。

「純粋培養ね……」

 医学部生らしい表現なのかどうなのか知らないが、妙なことを言うもんだ。
 とにかく、陶山も川原さんも、物好きな変わり者なんだろう。
 そうでなければ、俺なんかに声は掛けなかったに違いない。
 しかし、それでも、保科さんに次いで、地元出身の学生と知り合うことができたんだ。

「俺にも居場所があるのかな……」

 八方塞がり一歩手前だった状況も、少しずつだが、変わりつつあるのかも知れなかった。




487:風(前編) 13/44
11/03/06 08:14:54.33 9cdJfIvR
*  *  *
『あと、一時間ほどで到着するでおじゃる』

 次の日曜日の午前十時頃、相変わらずヘンテコな言葉遣いのメールを沙織から受け取った俺は、新幹線が停車
する中央駅に向かった。
 いつものように、路面電車に乗り、終点で下車。そこからはこの街を南北に貫いている地下鉄に乗り換える。

「こんな骨董品ばかりで出来ている街に地下鉄とはね……」

 恐ろしくミスマッチなんだが、渋滞に巻き込まれたら身動きがとれなくなる路線バスよりも断然便利ではある。
 ただし、首都圏の地下鉄に比べて初乗りの料金が高めなのはいただけないけどな。

「ちと早めに来ちまったかな」

 駅の時刻表を見たところ、沙織と黒猫が乗った新幹線は、あと二十分ほどで到着するようだ。
 手持ち無沙汰な俺は、新幹線の改札口からコンコースをぶらぶらと所在無くうろついていたが、何とはなしに駅の
北口に出てしまっていた。

「そういや、こっちの方は、あんま来ないからな……」

 この中央駅辺りに足を向けたのは、大学受験の時と、合格して今の下宿屋に手荷物持って引っ越してきた時と、この
前の連休であやせを見送った時と、それに奨学金の申請書を親元に郵送するために駅前の中央郵便局に行った時く
らいだ。
 俺は、そんなことを思いながら、街並みをぼんやりと眺めていた。
 何らかの規制でもあるのか、この街には高層建築らしいものが見当たらない。そのせいで、千葉や東京の街並みを
見慣れた目には、えらく大昔の景観を見せられているような気分になる。

「ビル自体も古くさいのが多いけどな……」

 モルタルがねずみ色に変色した雑居ビルの一つに、原色を多用した、この街には場違いといえる派手な看板が
掛かっていた。
 アキバにある著名なアニメショップの支店が、あのビルにあるんだ。
 あの店があることは、大学受験を終えて、ひとまず千葉に戻る時に気が付いたが、未だに行ったことはない。
 この街に島流し同然に隠遁させられたことで、オタク趣味を持つ沙織や黒猫、それに桐乃との関係がぷっつりと
途絶えてしまった。
 もともと、積極的にオタク趣味にのめり込んでいなかったせいもあって、桐乃たちの影響がなくなってしまえば、
この種の店に足を向けようという気も失せてしまったようだ。

「それに、アキバを思い出させるような店は、あいつらのことも思い出させるから、辛いんだよな」

 だが、今日は、そのあいつらがやって来るんだ。俺は、腕時計で時刻を確認した。間もなく、あいつらが乗った新幹線
が到着する。


「京介氏ぃーーーーーーーーー!!」

 ぐるぐる眼鏡にバンダナ、それにチェックのカッターシャツの裾をジーンズに突っ込むという、相変わらずのオタク
ファッションの沙織が右手を高々と上げ、それをブンブンと振り回している。
 その傍らには、黒を基調としたゴスロリファッションで異彩を放つ黒猫が付き添っていた。

「お前ら!」

 本当に来てくれたんだな。首都圏から数百キロも離れたこの街に。
 先日、メールと電話で沙織と連絡した時には、あまり気に留めなかったが、首都圏からここに来るってのは、時間的に

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11/03/06 08:16:10.97 9cdJfIvR
も経済的にも、そうそう簡単じゃねぇからな。
 おっと、いけねぇ。不覚にも涙腺が緩みそうになっちまったぜ。そこをぐっとこらえて、改札口から出てきた沙織、それに
黒猫と、がっちりと握手をした。

「あら、もっとしょぼくれているかと思ったけど、意外にも元気そうなのね。肩透かしだわ……」

 赤いカラコンを嵌めた瞳を瞬きもさせずに、辛辣なことをさらっと言う。こいつも相変わらずだ。そのくせ、不意打ちの
ようにキスをしたり、『付き合ってください』とかをのたまうんだから、女ってずるいよな。

「まぁ、まぁ、黒猫氏も、不器用な照れ隠しはほどほどに……」

「照れだなんて、そんなことあるわけがないでしょう?」

 抗議しかけた黒猫に、沙織は、「チッ、チッ、チッ、チッ……」と、軽く舌打ちしながら、右の人差し指を振って見せた。

「そういう素直でないところが、黒猫氏の個性ではありますが、ここは素直に京介氏との再会を喜ばれた方が宜しかろ
うと思いまするぞ」

「……余計なお世話よ」

 恨めしげな半眼を沙織に向けていやがる。
 だが、沙織は沙織で、後頭部をポリポリと掻きながら、「いやぁ~。この黒猫氏のリアクションも、久方ぶりでござる」
なんて、余裕をかましていた。
 でも、本当に久しぶりだな、こんなやりとり。これに桐乃がいれば完璧なんだが……。

「それよりも、まずは、この街にあるアニメショップに行こうではありませんか。帰りの電車のことを考えますと、時間は限
られておりますからな」

「そうだな……」

 場を仕切るのは、いつだって沙織なんだ。サークルの主催者であるし、その正体は大富豪のお嬢様だからな。帝王学
とでも言うんだろうか。マネージメントのコツとか極意みたいなもんを、既に教え込まれているか、教えられなくても、沙織
自身が家族とのやりとりで自然に身に付けてきたのかも知れない。
 おそらく、保科さんもそうなんだろう。下々の俺には、想像も出来ねぇや。
 おっと、それはさておき、

「しかし、その店なんだが、思った以上にしょぼい感じだぜ」

 前述のように行ったことはなかったが、ちっぽけな雑居ビルの一角にあるってだけで、おおよその規模は分かるからな。

「それでも、ご当地特有のものがあるかも知れないでしょ? 遠路はるばるやって来た私たちを落胆させるようなことを
わざわざ口にするなんて、本当に気配りに欠けているのね」

 そりゃー、お前に言われたくねぇよ、と言ってやりたかったが、まぁ、やめておいた。
 こんな痛い台詞も、こいつの個性なんだからな。

 で、肝心のショップだったが、見事にアキバにある本店の劣化版だった。
 売り場の面積が本店よりも限られているから、どうしても売れ筋というか、メジャーなものばかりで、本場を知っている
俺たちには物足りなかった。

「う~~ん。まぁ、こんなもんでござろうか……」

 沙織も黒猫も、それほど落胆していないようだ。
 黒猫も口ではああ言ったものの、この店自体には、さほどの期待はしていなかったと見える。


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「まぁ、東京とかに比べると、ちっぽけな街だからな……」

「拙者たちは、この店を目当てにこの街へ来た訳ではござらんから、お気になさらずに……」

 そうだよな。何だか面はゆいが、こいつらは、俺に会うためにやって来てくれたんだ。
 俺も、こいつらが楽しめるようなところに案内してやらないといけねぇ。
 だからと言って、これからどうするかはノーアイディアなんだけどな。

「とにかく、食事にしようぜ。ちょっと早いけど、今のうちなら、どの店も空いているだろう」

 何を食うかって? そりゃ、オタク連中にはジャンクフードが似合うのさ。
 俺も沙織も黒猫も、ひとまずは駅前のハンバーガーショップに入ることにした。

「で、午後はどうする?」

 この前のあやせのように、寺社を訪ねるってのも考えたが、沙織や黒猫が喜んでくれるかどうかは微妙だった。
 それに、保科さんと出くわした禅寺は微妙に行きづらい。
 保科さんの級友だってだけで、拝観料も、茶代も茶菓子代も受け取ってもらえなかったのが、何だか引け目になってしまっていた。

 どうしたものかと内心思案していた俺をよそに、沙織も黒猫も、黙々とハンバーガーと付け合わせのポテトを平らげ、
沙織に至っては、最後にコーラをストローでズウズウとすすり上げて、やおら、にんまりとした。

「もし、宜しければ、拙者にお任せあれ。以前から行ってみたかったエリアが、この街にはござる」

「あ、そ、そうなの?」

 ホスト形無しだな。まぁ、下宿と大学を往復するのが関の山の毎日じゃ、この街のことを何も分かっちゃいないも同然
だから仕方がない。

「あまり期待は出来そうにないけれど、沙織のおすすめが何なのか、少しだけ気にはなるわね……」

 黒猫も異存はないらしい。

「では、参りましょうぞ。まずは、駅前の七番のバス乗り場でバスに乗るのでござる」

「バスで行くのか?」

 沙織は、この街のガイドブックのバス路線網のページを開いて頷いている。
 市内のバス路線は、とんでもなく複雑で、渋滞にも嵌りやすいから、俺は滅多に乗ったことがなかった。

「まぁ、見知らぬ街を探訪するには、バスが一番でござるよ。地元の人がよく利用されるから、その街の個性というか
匂いというか、そんなものをじかに感じ取ることが出来るのでおじゃる」

「たしかに、そうかも知れないけどよ……」

 一つ路線を間違えただけで、バスってのはとんでもないところに行っちまうからなぁ。
 しかし、沙織は、自信たっぷりだから、こいつを信じて行ってみるか。
 こういう自信ありげなところも、サークルとかの主宰者に必須の資質なんだろうな。

「それでは、いざ、参ろうではござらんか」

 沙織に促されて俺たちはバス乗り場に向かうことにした。
 細長い島状のプラットフォームには、鉄パイプの先端に『市営バス 7番乗り場』とだけペンキで手書きされた丸い


490:名無しさん@ピンキー
11/03/06 08:26:08.55 wjrrLZFK
支援

491:風(前編) 16/44
11/03/06 08:27:26.24 9cdJfIvR
鉄板が取り付けられ、その下には四角い鉄板にこれもペンキで手書きされた時刻表が申し訳程度にくっ付いている
ポールがぽつねんと突っ立っていた。このレトロなしょぼさが、いかにもこの街らしい。首都圏には、こんな一昔以上前
のバス停なんか、もうありゃしないからな。

「ありがたいことに、バスが待っていてくれてるぜ」

「でも、時刻表では間もなく発車時刻でこざるぞ。各々方、お急ぎを」

 沙織に言われ、あたふたと乗り込んだ途端、バスは身震いするようにブルブルとエンジンを始動し、ドアを閉じて動き
出した。

「間一髪ね。沙織と一緒だと、無駄にスリリングなことがあって、本当に飽きないわ……」

 黒猫の指摘は、毎度のことながらシニカルだが、俺も同意見だな。だが、それがいい。
 
 ガタゴトという騒音が目立つ、この街に似つかわしい古臭さを漂わせたバスに揺られること二十分。俺たちは、この
街の東側にある繁華街に行き着いた。
 この街が変わっている点はいくつもあるが、その一つは、中央駅の周辺には大手の百貨店とか中央郵便局とかが
あるにはあるが、繁華街と呼べるほどの賑わいはないことだ。
 本当の繁華街は、中央駅から離れた、盆地の中央付近に散在していた。
 これは、鉄道が古くからの街並みを避けて、盆地の南の縁をなぞるように敷設されたためだろう。
 新幹線が通るようになっても、この街が本当に賑わっているところは、昔も今も変わらないらしい。
 だが……、

「ここなの?」

 バスから降りた俺と黒猫は、沙織に訝るような視線を向けた。
 だって、繁華街とはいっても、大通りから狭くて薄暗い路地がいくつも延びているだけで、東京や千葉のそれとは
かなり趣きが違う。

「たしか、この路地で間違いないはずなんでおじゃるが……」

 沙織は、目当ての店のホームページか何かを印刷した紙切れで、その店の場所を確かめているようだった。

「いったい、俺たちをどこへ連れていくんだよ」

 ここに至っては、もう、俺の出る幕はねぇな。あとは、沙織だけが頼りだ。

 その沙織は、その紙切れに記されている住所と、電柱とかに書かれている番地とを見比べながら、目的地を探っている。

「交番で訊いた方がよかねぇか?」

 あ、そうは言っても、交番がどこにあるか分かってないよな。俺って、どんだけ間抜けなんだか。

「まだ、分からないの?」

 黒猫も、埒があきそうもない沙織にイラついてきたのか、赤い瞳から繰り出す視線が、心なしか刺々しい。
 だが、沙織は、時折、「う~~ん」と呻吟はするものの、磊落そのもので、紙切れに記されている住所とガイドブックの
地図とを照合し始めた。

「おお!!」

「わ、分かったんだな?!」



492:風(前編) 17/44
11/03/06 08:28:49.87 9cdJfIvR
 沙織は、にんまりと頷いた。

「京介氏に、黒猫氏、気を揉ませたようで、あいすみませぬ。しかし、この路地に、目指す店がござるよ」

「ここか?」

 沙織には悪いが、思わず詰るように言っちまったぜ。
 だって、その路地は、狭くて、薄暗くって、入口付近にある洋品店は品揃えがどれも婆臭そうで、見るからに垢抜け
ない感じがしたからだ。
 どう見ても、地元のおばちゃん向け。それも、昨今の不況で寂れまくっている場末の商店街以外の何ものでもない。

「入り口の雰囲気が、何となくいただけないわね……」

 黒猫も容赦がない。たしかに、入り口からしてこの寂れようじゃ、奥の方はさらにどうしようもない状態だろう。
 おそらくは、シャッターが閉まった、廃業店舗が立ち並んでいるのが精々ではないかと思われた。

「まぁ、まぁ、ロクに見もしないで、結論を急いではなりませぬぞ。拙者が入手した事前情報によれば、この奥には、あっと
驚くような宝の山があるはずなのでござるよ」

 にぱっ! という感じで口元を緩めた沙織を見ていると、『そんなもんかいな……』という気がしてくるからな。実際、
今までも、沙織の見立てが外れたことはない。ここは、こいつを信じて、行ってみっか。
 俺と黒猫は、いつものように喜色満面といった風情の沙織に続いて、その路地に足を踏み入れた。

「うわ……。ここは、この街でも、極めつけにレトロだな」

 入口付近にあった垢抜けない洋品店の隣には呉服店があったが、振袖とかの派手なものばかりではなく、いつぞや
保科さんが着ていたような紬の反物が並んでいた。

「京介氏。ここのお店はなかなかいい反物が揃っているようでおじゃるぞ。そこの結城紬なんか、昨今珍しい草木染め
で、おそらくかなり昔に織られた、ビンテージ品でありましょうぞ」

「これがそうなの?」

 黒猫と俺はショーケース越しに沙織が指差す反物を一瞥し、それからプライスタグを見て仰天した。

「何だよ、こりゃ、軽く自動車が買える値段じゃねぇか!」

 一見、寂れたような店に、こんなもんがゴロゴロしてるんだぜ。本当に、この街は油断がならねぇな。

「その隣の隣は、おもちゃ屋だけど、品揃えが怪しい感じだわ」

 黒猫の指差す方向には、ブリキの玩具、セルロイドの人形、それにこの地方独特の独楽や凧等の郷土玩具が、所狭
しとカオスのように渾然とした状態で並べられている玩具店が、アーケードの薄暗い白熱電球に照らされて佇んでいた。

「冥界の眷属が経営しているのかしらね……。時の流れから取り残された、この世にあって、この世にない、そんな雰囲気ね……」

 そいつは俺も同感だな。白熱灯に照らされた人形の顔が、薄闇から浮かび上がって見えるんだからさ。

「こういうお店には、初期のガンプラとかも置いてあることが多いんでござるよ」

 品揃えは、昨今のレプリカなんかじゃなくて、デッドストック、つまりは大昔の新品未使用品ばかりのようだ。
 ただ、残念なことに、入り口には「本日休業」の札が掛けられていて、店の奥は真っ暗だった。
 いや、この方がよかったかな?


493:風(前編) 18/44
11/03/06 08:33:32.38 9cdJfIvR
 なまじ踏み込んでしまっていたら、色々とお宝が出てきて、大散財ってことになったかも知れねぇからな。

 その後は、怪しげな漢方薬店、老舗っぽい和菓子屋、牛肉に衣をつけて揚げた『ビフカツ』を食べさせる店が続く。
 ついでだけど、この地方でカツっていうとトンカツよりも、このビフカツのことを指すらしい。

 ビフカツ屋を過ぎると、コッペパンやアンパンを自製して売っているこじんまりとした昔ながらのパン屋があり、
その隣に、沙織お目当ての店が並んでいた。

「おお、ここでござるよ!」

 下の階が一段低くなって半地下状になっていて、そこはモデルガンやエアガンのショップになっていた。その上の階、
一階と呼ぶべきか二階と呼ぶべきか中途半端な高さにある店は、軍の放出品を扱ういわゆるミリタリーショップのようだ。

「お前のお目当ては下の階か? それとも上か?」

 そういえば、こいつはサバイバルゲームにも関わっていたんだよな。
 昨年、横浜の自宅をアポなしで訪問したら、電動エアガンを手に迷彩服で登場しやがった。

「もちろん、両方でおじゃるよ。しかし、京介氏や黒猫氏にも楽しんでいただけるように、まずはファッションから攻めて
みましょうぞ」

「言っておくけど、私にあなたのようなミリオタ趣味はないわよ」

 咎めるような黒猫の視線を笑顔で受け流し、沙織は彼女の右手を取った。

「いやいや、黒猫氏にも絶対に気に入っていただけると思いまするぞ。この店は、軍の放出品と申しましても、ヨーロッパ
の、それも五十年代、六十年代のビンテージ物を主に扱っているという話でござる。昔の軍用品は、今のように機能一
点張りではござらんから、デザインも言うなれば時代がかった重厚なものにござる。素材も、良質のウールを惜しげもな
く使っていて、今では同じようなものを手に入れようとすると、大変な金額が掛かりそうなものがあるのでござるよ」

 ビンテージ物っていうと、保科さんの紬や、路地の入口付近で見た結城紬の反物を連想してしまった。

「そんな昔のものが残っているんだとしたら、とてつもなく高価なんじゃないか?」

「いやいや、そこが官給品の面白いところにござる。軍は、使用済又は未使用のままデッドストックとなった被服とかを
民間の業者に払い下げるのでござるが、その際に、購入した価額以上では払い下げ申さん。廃棄処分に準じる扱いだ
からでござるよ。加えて、昔と今とでは貨幣価値に大きな差がござる。今は昔に比べてインフレ状態でありますれば、軍
が購入した価額であっても、今となっては低廉ということにもなるのでござる」

「なるほどねぇ……」

 末は女流実業家間違いなしの沙織が言うと説得力あるよな。

「でも、中古品、つまりは廃棄処分になるような古着が多そうな感じだけど、大丈夫かしら……。私は、ボロをまとうような
グランジなファッションは願い下げよ」

 うわぁ、相変わらず遠慮がねぇな……。しかし、こいつの指摘も頷ける部分はある。
 俺も、『どうなんだ?』と問うつもりで、沙織のぐるぐる眼鏡のレンズ部分に目線を向けた。

「まぁ、『廃棄処分に準じる』というのは、いささか言い方に問題がござった。古着となったものにはそれなりにダメージ
があるものもござろうが、着られないほどのオンボロは扱ってはおらぬようですぞ。それに、この店は、新品未使用の
デッドストックを出来るだけ多く扱うようにしているとのことでござる」

「そう、新品があるというのなら、まぁ、救いがあるわね。でも……」


494:風(前編) 19/44
11/03/06 08:34:54.47 9cdJfIvR

 沙織に手を引かれたままの黒猫は、ためらうように背を丸め、腰が引けていた。
 どうやら、オタはオタでも、ジャンルの違う世界に踏み込むのが内心は怖いんだろう。強気な発言ばかりが目立つが、
その実、人見知りしがちな黒猫の、悪く言えば弱さ、よく言えば繊細さ故なんだろう。

「なぁ、お前の趣味には合わないかも知れないけど、せっかく沙織が連れてきてくれたんだ。入るだけは入ってみようぜ」

「…………………」

 黒猫は、赤い瞳を俺に向け、暫し無言だったが、やおら、こっくりと頷いた。

「黒猫氏も、百聞は一見にしかずでござる。なに、入ってみて趣味に合わないようであれば、早々に退散しましょうぞ」

 俺たちは沙織を先頭に、沙織に手を引かれた黒猫、そして俺が、上階のミリタリーショップへと入って行った。

「古着特有の匂いかしら……」

 黒猫が、本当に猫のように鼻をひくつかせながら呟いた。
 たしかに、体育倉庫のような埃臭さと、箪笥を開けた時に感じるウール特有の匂いと、防虫剤らしい薬品臭さが店内
には漂っていた。

「でも、そんなに嫌な匂いじゃねぇな。俺はあんまり気にならない」

 意外にも店内は整理整頓が行き届いていて、アイテムが国別にまとめられていた。
 コートやジャケット等の被服類はハンガーにきちんと掛けられ、時計や飛行機か何かの計器とかのメカは、ガラス
ケースにきちんと収められている。

「う~~ん、何と申すべきか……、若者向けのファッションの店みたいで、これはこれで宜しいのでござろうが……」

 迷彩服も着こなす沙織にしてみれば、もっと雑然としていた方が、放出品を扱う店っぽいとでも思っていたんだろう。
だが、それが、いい意味で肩透かしを喰らったらしい。

「俺みたいな素人は、こうしたきちんとした店の方が、好みのアイテムを見つけやすくて助かるけどな」

「それもそうでおじゃるな……。ひとまずは、各々方で、めぼしい物がないか個別に探索してみてはいかがでござろう」

「え? お、おい!」

 言うが早いか、沙織は俺たちをその場に残して、店の奥の方へと進んでいく。
 ミリタリーものには正直疎い俺は、正直、どこから見ていいものか見当もつかない。それは黒猫も同様らしかった。

「よかったら、一緒に品物を見て回らない?」

「そうだな、俺も、軍の放出品を持っていないわけじゃねぇが、沙織ほどのオタじゃねぇからな……」

 俺が持っている軍の放出品と言えば、あやせと一緒に出かけた時に着ていた戦車兵用のジャケットだけだからな。

「沙織は、サバゲーもこなすミリオタですもの。彼女は特別よ……。いろんな意味で……」

「そいつは、たしかにそうだよな……」

 沙織が本当は何者なのか、例えば、沙織の実家がどこにあって、沙織の一族がどんなビジネスをしているのか、俺も
黒猫も皆目分かっていない。
 もしかしたら、こうして俺たちを率いて遊んでいるのも、実業家たるための訓練の一環なのかも知れない。


495:風(前編) 20/44
11/03/06 08:36:34.95 9cdJfIvR
 そう考えると、俺も黒猫も、そして桐乃も、体よく沙織の訓練に付き合わされているようなものなんだろう。
 だが、それでいい。束の間であれ、こうして一緒に過ごすことが出来て、それが楽しいんだ。
 何の不足もない。少なくとも、この俺には。

「旧ソ連とか、中共のは野暮ったくて、いただけないわね……」

 国別の区分けには、ロシアや中国以外にも、クロアチアとか、チェコとか、ブルガリアとか旧東側のものあったが、ここ
は無難に西側のグッズから攻めることにした。
 俺と黒猫が佇んでいるところの間近には、『フランス軍』と『ドイツ連邦軍』の区分けがあって、コートやら、ジャケット
やらの被服が、一列になってハンガーラックで吊るされていた。
 その多くは、usedらしい、くたびれた感じが否めないものだったが、闇雲同然に手さぐりで吊るされている被服類をま
さぐっていたら、明らかに新品と思しき毛織物の感触を俺の指先は感じ取った。

「何だか知らねぇけど、こいつは古着じゃなくてデッドストックみたいだぜ」

「そう……、でも、手さぐりじゃ何が何だか分からないでしょうに……」

「たしかにそうだが、何か、こいつはとんでもない掘り出し物のような感じがするんだよな」

 俺は、半ば冗談で、そんなことを口にした。だが、実際に、探り当てた商品をハンガーから外して手に取ってみて、それ
が本当に掘り出し物であることに俺はもちろん、黒猫も仰天した。

「な、何じゃこりゃ……」

「マ、マント、なんじゃないかしら……」

 重量感のあるウールの生地で出来てはいたが、その形状はまさしくマントだった。色は、漆黒に近い濃紺で、本当に
闇の眷属あたりが着用しそうな雰囲気だ。
 商品のタグには、『フランス軍ウール・ケープ デッドストック』とだけ書いてあった。肝心の年代が不明だったが、
おそらくは、五十年代、下手をすれば四十年代というところだろう。とんでもないビンテージ品だ。

「き、着てみるか?」

「う、うん……」

 元々は男性用だから、黒猫にはサイズ的にどうかと思ったが、黒猫の足首よりもちょっと上という辺りに裾がくる程度
で、これなら無様に引きずったりしないだろう。
 というか、これぐらい裾が長い方が、往年のマントらしい感じがする。

「おい、おい、似合うぜ!」

「……お世辞なんて、陳腐なことを言わないでもらいたいわ……」

「いや、本当に似合っているんだぜ」

 黒を基調としたゴスロリファッションをすっぽりと覆うマント。本当に決まりすぎて怖いくらいだった。
 このマントが、これほど似合う奴ってのは、世の中にそうは居そうもない。
 しかし、これも軍の制服だったんだな。こんなのが制服だったなんて、フランス、というか時代が時代だったんだろうか。
 いずれにしても半端ねぇぜ。

「おお! 黒猫氏、お似合いではござらんか」

 何やら、コート類を漁っていたらしい沙織も、マントを着た黒猫に気が付いた。

「だろ? ゴシック調のファッションが似合うから、こいつにマントは本当にマッチするよな」


496:風(前編) 21/44
11/03/06 08:38:39.87 9cdJfIvR

「そ、そんなに似合うの?」

「ああ、掛け値なしに似合うぜ。何なら、そこの姿見で確認してみろよ」

「う、うん……」

 店内の大きな鏡には、黒っぽいマントを纏った黒猫の姿が映し出された。
 黒猫は、自分の姿に初めは戸惑いを覚えたのか、口を真一文字に引き結び、背筋を伸ばすようにして身を強張らせ
ていた。だが、やがて、おずおずとではあるが、首を左右に回したり、上体をひねったりして、ポーズをとり始めた。

「やっぱり似合うじゃねぇか。それと、着心地はどうだ?」

「悪くないわね。重くてどうしようもないかと思ったけど、着てみると、意外に重さは気にならないわ」

 クールであるはずの黒猫が、頬を微かに染めている。
 日常的にゴスロリファッションでキメているくせに、マントくらいで気恥ずかしいのだろうか。こいつにも結構かわいい
ところがあるじゃねぇか。
 やがて黒猫は、得心したかのように、鏡に映る自分に向かって、こっくりと頷いた。購入することにしたらしい。

「虫食いとかのダメージがないかどうかも、今のうちに確認しておいた方がいいだろうな」

 多少のダメージは、裁縫が得意な黒猫のことだから問題にはならないだろう。
 だが、購入前に知っていた方が、購入後に分かるよりも、後々の精神衛生上いいからな。

「それは、問題なさそうね。虫食いもないし、縫製に問題があるような箇所もなさそうね」

「そういや、いくらなんだろうな?」

 この期に及ぶまで、俺も黒猫も未だにプライスタグを確認していなかった。

「消費税込みで九千八百円……。本当にとんでもない掘り出し物ね……」

「桁が一つ間違っているんじゃねぇか? 最近の英国のブランドものコートなんか、中国で作らせているらしいのに、
その十倍はしやがるぞ」

 俺たちは、念のために、もう一度、アラビア数字で『9,800円』と書かれているタグを確認した。
 何度見ても、九と八の右には零が二つしかない。

「沙織が言ったように、本当に放出品って、とんでもないお宝があるものなのね……」

「だな……」

 意匠だって洗練されている。下手なデザイナーズブランドとかよりもよっぽどセンスがいい。

「それはそうと、あなたは何も買わないの?」

 先月は引越しとか、教材や書籍の購入とかで物入りだったが、今月は、先月とかに比べれば、予算には少しは余裕
がある。
 仕送りが減額されるおそれはあるが、不確定要素に怯えているのも何だかバカらしい。

「うん、俺もジャケットか何かを買うことにするよ」

「どんなジャケットが欲しいの? ジャンパーみたいな奴とか?」

「いや、そうしたもんは既にあるから、出来ればブレザーみたいなジャケットが欲しいんだ」


497:風(前編) 22/44
11/03/06 08:41:41.37 9cdJfIvR

「そんなものが都合よくあるかしら……」

 たしかに……。軍のジャケットっていうと、フライトジャケットとか、俺のジャケットみたいなブルゾン形式か、あとは何
だか作業服っぽい野戦服ってのが相場だからな。
 だが、各国の海軍の制服は、濃紺のウール地に金ボタンのブレザーというのが大半だから、もしかしたら、俺の好み
通りのブツが見つかる可能性が全くない訳じゃない。

「フランス軍の隣はドイツ軍の被服なんだな」

 『ドイツ連邦軍』と記された札が掛かっているハンガーラックには、黒猫が買うことになったマントが見つかったフラン
ス軍の被服が掛かっているハンガーラックと同様に、コートやジャケット類がぎっしりと収められていた。
 その多くは、緑色系の陸軍の野戦服だったが、一部分、全体の二、三割ほどが、濃紺の服で占められている。

「何だか、色だけは紺色のブレザーっぽいのがあるようね」

「そんな感じだな。もし、本当にブレザーなら、願ったり叶ったりだ」

 俺は、その濃紺の服が集まっている辺りから、おもむろに一着を取り出してみた。
 前身頃に金色のボタンが二列に設けられたそれは、濃紺のダブルのブレザーそのものだった。

「これが軍服?」

「普通にブレザーだよな」

 これなら、ドレスシャツとネクタイ以外に、白系のタートルネックの薄手のセーターに合わせるとかの着こなしが出来
そうだ。
 肩も普通のスーツなんかと同じで、階級章とかを付けるエポレット等はない。
 金ボタンに錨のマークがレリーフになっている点を除けば、海軍のものらしい雰囲気は皆無だ。それだけに、普段でも
抵抗なく着用できるだろう。

「サイズはどう?」

 手元にあるのは日本の寸法換算でM寸相当だった。改めてハンガーラックを探ると、L寸相当の品も見つかった。
 どちらかというと細身である俺の体格だとLかMかで悩むところだが、まずはLを着用してみた。外国の、それも軍
用だから、筋骨隆々の大男が本来は着用するようなものなんだろう。多少はブカブカなことを覚悟した。

「お、何だこりゃ。ずいぶんとスリムに作られていやがる」

 肩幅、胸囲りは、誂えたようにぴったりだった。袖丈もちょうどいい。

「すごく似合うわね」

 相変わらず抑揚に乏しい口調で黒猫がぽつりと言った。
 だが、変に感情を込めてない言い方こそが、黒猫の偽りない気持ちを現しているんだろう。

「ダブルのブレザーってのは、一度着てみたかったんだ。だけど、洋品店では、細身の俺にはダブルは似合わないって
言われてな、それで今まで着てこなかったのさ」

「そんなことはないでしょ。その店員の見立てが間違っていたのよ。多分、昔の映画とかで、恰幅のいいギャングのボス
とかが、好んでダブルの服を着ていたから、ダブルは細身の人には似合わないっていう先入観が生まれたんでしょうね。
要は、思考力のないバカな連中の戯言に過ぎないわ」

「俺を擁護してくれているんだろうが、その言い方は……ちょっとなぁ……」



498:風(前編) 23/44
11/03/06 08:43:45.31 9cdJfIvR
 その後は、『お前、そうした毒のある言い方、そろそろ考え直した方がいいぞ』とでも続けたかったが、やめておいた。

「でも、現に、細身のあなたに海軍のダブルのブレザーが似合っている。体格がよくなければダブルは似合わないって
のは、結局は迷信みたいなものなのよ。要するに、バカな奴ほど、変な先入観とか、偏見とかでものを判断するのね。
個々の事象でものを考えない。だから愚かなんだわ。人間は……」

「…………………」

 そう、どこまで行っても、黒猫は黒猫なんだ。俺なんかが忠告出来るような存在なんかじゃない。

「ところで、その海軍の制服だけど、結局は買うの? 買わないの?」

「買うことにするよ。値段も驚きの三千八百円だしな」

 ちゃんとしたウール地で、ほつれがどこにもない完璧なデッドストックだった。それでこの値段なんだからな。
 放出品恐るべし。
 何にせよ、俺みたいな貧乏学生にはありがたい。これからは、この店で、衣類を調達することになりそうだな。

 俺は、L寸のブレザーを着たままで、M寸の物をハンガーラックに戻した。
 Lでジャストフィットだったから、Mじゃきつくてどうしようもないのは明らかだ。

「おお、京介氏、お似合いではござらんか!」

 その声で振り返ると、灰色のロングコートを着てご満悦の沙織が、にぱっ、と微笑していた。
 裾が膝下まで届くそのコートは、前身頃がダブルで、袖先が折り返しになっているのが印象的だった。どっかで見た
ことがあるようなコートだな、と思ったら、戦争映画とかに出てくるナチスの将校が着ていた物にそっくりだった。

「お前、すごいコートを着ているな。ナチスの将校かと思ったぜ」

「おお、さすがは京介氏。しかし、ナチスのコートではござらん。これはスウェーデンの将校用のコートにござる。デザイン
は、往年のナチスのコートに酷似しておりますが、ヨーロッパの軍用コートというものは、大体がこんなデザインなんで
ござるよ」

 それにしても、かっこいいな。
 そういえば、男性用なのにこれも結構細身に出来ているようで、沙織が着ても、ダブついた感じがしていなかった。

「沙織は、上背があるからな。こうした海外ものは似合うんだろう」

「いやいや、ヨーロッパの軍服は、思いのほか細身に出来ているのでござるよ。その辺が、米軍のものとは大きく違う
ところでござる」

「そうなのね……」

 そう呟いて、黒猫は、ブレザー姿の俺を見ている。
 どうりで、痩せている俺にもドイツ軍のブレザーが似合ったわけだ。

「京介氏のブレザーもなかなかの掘り出し物でござるが、黒猫氏は、また、とんでもない値打ち物を見つけましたな。
先ほども申しましたが、とてもお似合いでござるよ」

 そういえば、黒猫もマントを羽織ったままだった。

「そう……。闇の眷属にふさわしいマントでしょ?」

 褒められてまんざらでもないのか、黒猫は、右手をゆっくりと斜め上に伸ばし、マントの裾を優雅にはためかせた。
 生地が分厚いから、普通なら冬場にしか着れそうもないが、黒猫なら夏コミでも根性で着こなしそうだ。


499:風(前編) 24/44
11/03/06 08:45:49.06 9cdJfIvR

 買う物も決まったので、レジで清算した。沙織のコートも、しなやかなウール地で出来ていて、仕立てもよいのだが、
usedということもあってか、六千円もしなかったようだ。


「さて、次は、階下でモデルガンを見てみましょうぞ」

 黒猫はもちろん、俺も、モデルガンとか、エアガンの類にはあまり興味はなかったが、他ならぬこの店に連れてきて
くれた沙織が行きたがっているのだ。それを拒絶するわけにはいかないよな。

 階段を下りて、商店街の通りよりも一段低くなった店舗に入ると、そこは、黒光りするモデルガンやエアガンであふれ
ていた。

「すげぇな……」

 おもちゃ屋とか、模型店の一角でモデルガンとかが売られていることしか知らない俺にとって、モデルガン専門店に
足を踏み入れたのは、これが最初だったかも知れない。

「こうした魔道具もよいものね……」

 黒猫も銃器類に多少は興味が出てきたらしい。ベクトルは多少違っていても、オタクという点では、沙織とも共通点
があるんだろう。

「それにしても、この店は、最新式の電動エアガンはもちろん、今や希少となった金属モデルガンが多数ありますぞ」

 沙織が指さした方には、金色に輝くハンドガンが展示されているコーナーがあった。

「売り物なのかな?」

 今はBB弾を打ち出すエアガンが主流で、そうではない昔ながらの金属製のモデルガンは、あまり製造されていな
いということを、以前に沙織あたりから聞いたような気がする。
 だとすれば、金属製のモデルガンは単に展示してあるだけで、非売品かも知れない。

「値札が付いているわね」

 黒猫の指摘に、ガラスケースの中に目をやると、各々のモデルガンの銃身あたりに、切手サイズぐらいの手書きの
値札が白い糸でくくりつけられていた。

「一応は、売り物のようでござるな……」

 しかし、値段が値段だ。
 プラスチック製のエアガンというか、フロンガスで実銃っぽく動くブローバック・ガスガンが一万円強というところを、
金属製のモデルガンは、どれも二万円以上するんだ。
 金属製の方がコストが高いのだろうし、今や希少となったこともプライスに影響しているんだろう。

「俺にゃあ、おいそれと買えるもんじゃねぇなあ……」

 沙織は別だろうがな。
 しかし、今の俺に比べれば多少はマシな程度の資本力しかないであろう黒猫が、ガラスケースの中を食い入るように
見詰めている。

「何事でおじゃるかな? 黒猫氏」

 沙織の指摘に、黒猫は無言で、右手の人差し指をガラスケースの中に向かって突き出した。
 そこには、精密な彫刻が施された金色の拳銃が、黒い十字型をした勲章のようなものとセットになって展示されていた。

500:名無しさん@ピンキー
11/03/06 08:47:47.02 DOmrIGuS
どうして中猫ちゃんはこんなに可愛いの?
お股で頭を挟まれてくんかくんかしてあげたいよおおおお

501:風(前編) 25/44
11/03/06 08:48:11.92 9cdJfIvR

「おお、黒猫氏、お目が高い。これは、ナチスの大立者で、国家元帥だったヘルマン・ゲーリング愛用のルガーを忠実に
再現したモデルですぞ」

「そうなの……」

 そのあっさりとした返答で、黒猫の興味の対象が、モデルガン本体ではなく、それに付随しているものであると分かった。

「なぁ、拳銃の隣にある勲章みたいなもんは何なんだ?」

「あれは、騎士鉄十字章でござる。ナチスドイツにおいて、軍人が獲得し得る最高の戦功章で、受章者は当時、ドイツ社
会で英雄とみなされ申した」

「そういう代物なんだ……」

 中央に鉤十字がレリーフになっているのは好みが分かれるだろうが、周囲を銀色の金属で縁取りされた黒い十字は、
いかにも黒猫が好みそうな意匠だった。

「モデルガンじゃなくて、あの勲章が欲しいんだな?」

 俺の問い掛けに黒猫は、こっくりと頷いた。
 だが値札には、三万六千円と記されている。

「ちょっとなぁ……、甲斐性なしの俺には、不可能に近い金額だぜ……」

 昨年のコミケで御鏡が作ったシルバーアクセサリーを買ったように、目の前にある騎士鉄十字章をモデルガンごと
黒猫に買ってやりたかった。だが、それは金額的には到底不可能だった。

「……別にいいわよ……。それほど欲しいと思った訳じゃないから」

 そう言いながらも、目は勲章に釘付けになったままだ。こいつは、こういうところで嘘がバレるんだよな。
 さて、どうしたものか。

 沙織も、下顎に手を当てて、何やら考えているような雰囲気だった。
 その沙織が、決心したかの如く口元を一文字に引き結び、何かを確かめるかのように、軽く頷いたように見えた。

「黒猫氏、そのモデルガンと騎士鉄十字章は、拙者が購入致しますぞ」

「そう……、沙織が買うのなら仕方がないわね」

 資本力がある者が、欲しい物を優先的に手に入れる。
 古今東西から変わらぬ、商取引の原則の一つだ。
 だが、沙織には、金にあかせて何かを買い占めるというような下品な振る舞いは、およそ似合わない。
 沙織のことだ。購入したモデルガンと騎士鉄十字章のうち、後者を黒猫に譲るつもりなんだろう。
 そうすることで黒猫は目当ての勲章を入手できる。だが、黒猫の自尊心はどうなんるんだ。

「でも……、施しだったらいらないわ……」

 案の定、誇り高き闇の眷属は、沙織の狙いをお見通しだった。
 ささやかだが、腹の底から搾り出されたような黒猫の抗議の声に、沙織は、口元を『ω』な風にすぼめ、後頭部をポリ
ポリと引っ掻いた。

「いや、いや、黒猫氏、それは早合点というものにござるよ。拙者、別に黒猫氏にその騎士鉄十字章を差し上げたくて、


502:名無しさん@ピンキー
11/03/06 08:49:06.99 DOmrIGuS
あ、バッティングしてた
ごめんなさい
投下乙です

503:風(前編) 26/44
11/03/06 08:50:18.99 9cdJfIvR
モデルガンを買うわけではござらん。純粋に、彫刻が施されたルガーが欲しいから買うまででござる。然るに、拙者に
とって、その騎士鉄十字章は無用の物ゆえ、黒猫氏に譲渡するというわけでおじゃるよ」

「いや、だから……、沙織の好意は分かるが、勲章を只で貰う黒猫のプライドはどうなるんだよ」

 詰るつもりはなかったんだが、ついついきつい言い方になっちまったかも知れない。
 ぐるぐる眼鏡の奥にある沙織の瞳が、微かに色を帯びたような気がした。

「京介氏、拙者はいつ、『只』などと申しましたかな? 拙者は騎士鉄十字章を黒猫氏に譲渡するとだけ申した。黒猫
氏さえ宜しければ、相当の対価をお支払いいただいた上で、拙者は騎士鉄十字章を黒猫氏に譲渡する。これならいか
がでござろう」

「お、おう、たしかに……」

 さすがは未来のエグゼクティブだな。一瞬だが、いつもへらへら笑っている時とは、まるで違う迫力に圧倒された。
 それに、相当の対価を条件に騎士鉄十字章を黒猫に譲渡する。商取引の原則にも適っているじゃねぇか。

「……それでいいわ……」

 それなりの対価を支払うのであれば、黒猫の自尊心も傷付かない。
 今さらながら、沙織って奴のマネージメントの上手さを思い知らされたな。

 そんなことをぼんやりと考えているうちに、沙織は店員にそのモデルガンと騎士鉄十字章のセットを購入する旨を告
げ、レジで代金を支払っていた。

「おお、京介氏、いかがなされましたかな? 拙者と黒猫氏は、ここでの買い物は済みましてござるよ。京介氏にこの店
での買い物とかがないようでしたら、そろそろお茶の時間に致しとうござるが、宜しいですかな?」

 先ほどの迫力は微塵も感じさせない、屈託のない笑顔だった。
 その笑顔を前に、俺は、「あ、ああ……」といった気抜けした返事をしちまったな。

「では、この商店街を抜けましょうぞ。ここを抜けると、この街でも一番大きな神社の前に続く大通りに出るはずでおじゃ
る。その大通りを神社の方に向かって行くと、この街でも指折りの歴史を持つ老舗のホテルがありますれば、そこのホテ
ルの喫茶室でお茶でもいただきましょうぞ」

 そう言うと、右手にスウェーデン軍のコートが入った紙袋を、左手に先ほど購入したモデルガンと騎士鉄十字章が
入った紙袋をそれぞれ提げて、颯爽と歩き出した。
 なんだかんだ言っても、場を仕切るのは、いつも沙織なんだ。
 俺は、苦笑すると、沙織のすぐ背後に居て、マントの入った紙袋を大事そうに抱えた黒猫を追いかけるようにして、
歩き出した。

 薄暗いアーケードは、その後もしばらくは続き、琴や三味線等の和楽器を扱う店、茶と茶道具を扱う店とか、いかにも
この街らしい老舗が軒を連ねていた。

「こんなバーもあるのね……」

 和風な店の並びに、忽然と重厚なレンガ造りのショットバーらしきものが現れた。
 レンガの角が丸まっているところとか、漆喰の黒ずみ具合とかで、その建物も相当に古いであろうことが分かった。
 おそらくは、昭和初期か、下手すれば大正の頃に出来たのかも知れない。

「真昼間だから、今の時間は閉店してるんだな」

 未成年の俺たちは、当分はお呼びでないところなんだが、いずれ、分別がついた大人になれたら来てみたい店だ。
 そのとき、俺は独りさびしく飲んでいるんだろうか。それとも、気心の知れた仲間と一緒なんだろうか、又は、伴侶と


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なるような女性を伴っているんだろうか。

「あそこの和菓子屋が、この商店街の最後の店のようでござる」

 餡の入った生麩を笹でくるんだ菓子が売られていた。この類の菓子は、さすがに田村屋でも作っていなかったな。
 どうやら、この地方独特のものらしい。
 その店の前を通り過ぎると、アーケードは終わりだった。

「アーケードを抜けると、こんなにも明るかったんだな……」

 片側二車線の大通りには、初夏の陽光が降り注いでいた。
 薄暗い白熱灯でぼんやりと照らされていた、あの商店街は、この大通りに出てみると、異空間だったんじゃないか
という気がしてくる。
 それに、アーケードの中は、地元の人間が圧倒的に多いような感じだったが、この大通りは、よそ行きというほどでも
ないんだろうが、ちょっと派手めな服を着て、二、三人で連れだってあちこちをきょろきょろと見渡しながら歩く、旅行者っ
ぽいのが目立っていた。

「おお、あれが目指すホテルのようでござるぞ。あちらの喫茶室か何かで、お茶でも飲みながら、各々方がご購入なされ
た品々を吟味致しましょうぞ」

 沙織が右手を突き出した方向には、都心のホテルとかに比べると、こじんまりしていて古びてはいるものの、佇まいに
老舗らしい風格があるホテルが建っていた。

「あのホテルなんだな?」

 名前だけは、俺も聞いたことがあった。
 何でも、地元の者は、ここで披露宴をするのが一種のステータスであることを下宿の女主人が言っていた。
 それが本当かどうかは分からないが、とにかく格式あるホテルであることはたしかなようだ。

「何となく敷居が高そう……。コーヒー一杯だけで二千円も取ったりしないでしょうね?」

 黒猫が、赤い瞳で沙織の顔を訝しげにねめつけている。
 コーヒー一杯だけで二千円というのは、さすがにないとは思いたいが、本当のところはどうだか分からないからな。
 それに、典型的なオタクファッションの沙織に、異彩を放つゴスロリファッションの黒猫、あ、ついでに垢抜けない学生
の雰囲気丸出しの俺が行っても大丈夫なのか? 入ろうとした途端に、体よく門前払いとかは、かなり凹むからな。

「どうなんだ? 茶代も気がかりだが、そもそも、俺たちなんかでも入れそうなところなのか?」

 まさかとは思うが、本当はセレブに属する沙織の根回しとかがあって、こんな場違いな格好でも、喫茶室に入れたり
して……。
 だが、当の沙織は……、

「え~と、このホテルの喫茶室は……」

 ガイドブックを開いて何やらブツブツと呟いている。
 どうやら、沙織も、そのホテルでは『一見さん』に過ぎないらしい。
 こりゃ、身なりとか、古着が入った紙袋を抱えている怪しさとかでペケかも知れねぇな。

 だが、ここまで来て引き返すのも癪な話だ。
 俺たちのことはお構いなしに、ずんずん先を行く沙織の後に、ひとまずは従うしかない。
 その沙織は、今や、他所ではほとんど見られなくなった、手動式の回転ドアを右手で押している。俺と黒猫も、沙織の
すぐ背後にへばりつくようにして、ホテルのロビーに足を踏み入れた。
 広さ自体は、都心のホテルと大差はない感じだったが、高い天井と、その天井付近に、フレスコ画なんだろうか、空と
雲と、雪を抱いた山々と、豊穣の緑野が、うっすらとした色使いで描かれているのが、まずは目についた。


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「おお! 天井のフレスコ画も含めて、これは紛れもなく、戦前以前の物件でしょうな。絵もすばらしいですが、灰色の大
理石を磨き上げ、要所に彫刻を施した、いい仕事をしておりますぞ。今となっては、こうした良質の石材は少のうござるし、
何よりも、このようなすばらしい彫刻やフレスコ画を施せる職人は居りませぬ。したがって、これと同じようなホテルは、
もう建てられないでしょうな」

「緋色の絨毯に、暗灰色の石材。魔界の者が棲み付きそうな雰囲気とでも、言うべきかしら」

 石材の色は、どちらかというとニュートラルグレーなんだけどな。シックな雰囲気も、黒猫にかかれば、万事がこんな
調子だ。
 たしかに暗い感じはするが、今風の、何が何でも明るい雰囲気ってのは、無理に元気を装っているというか、空々し
いっていうか、とにかく薄っぺらな感じは否めないからな。俺みたいな地味な奴は、こうした適度に暗い方が何となく
落ち着くし、そこはかとなく感じられるノスタルジーが好きだ。
 そういや、さっき買い物をした商店街も、薄暗くてノスタルジーを感じさせるってところは同じだな。通っている大学の
建物も古臭いが、その方が俺にとっては居心地がいい。

「で、喫茶室でおじゃるが……」

 ロビーのすばらしさに気を取られて、ここへ来た本来の目的を一時失念していた。
 ホテルの喫茶室は、宿泊客以外も利用しやすいように、というか、宿泊客でないよそ者は出来るだけ奥へは入れな
いようにするため、大概は一階にあるもんだ。
 果たせるかな。ロビーの右側には『喫茶室』と書かれた札が下がっている入り口が、観音開きになっている重厚な扉
を開けて控えていた。

「とにかく、入ってみましょうぞ」

 黒猫が指摘したように、敷居が高そうで、俺たちは場違いな存在そのものという感じなんだが、沙織のみならず黒猫
までが、

「とにかく、堂々としていれば、係りの者も何も文句は言えないでしょうね」

 と言って、心持ち胸を張って、扉をくぐっていく。俺も、彼女らに続いた。男子たる者が怯んでどうする。

「こっちは、ロビーと違って、明るい雰囲気なんだな」

 壁の色はベージュで、テーブルとかの調度品も黒を基調とした落ち着いた雰囲気の物だったが、東側と南側が
ガラス張りとでも表現出来そうなほどの広い窓で覆われており、そこから外の光が白いレースのカーテンを通して、
やんわりと導かれていた。

「シックな雰囲気なのに明るい……。悪くないわね」

 俺も同感だな。何でもかんでも白系統の色で統一して、無理やりに明るさを演出したようなのは、どうにもいただけない。

 そんなことを言い合いながら、俺たちは、喫茶室の入り口付近に三人で固まって、ウェイターを待った。
 俺たちの存在に気付いた黒いスーツに蝶ネクタイがよく似合う長身の初老の男性が近づいてきた。
 フロアマネージャーとか給仕長といったところだろうか。
 門前払いか否か、ちょっとした正念場といった雰囲気に、俺は下げていた両手の拳を、ぐっと握り締めた。

「三名様でいらっしゃいますか?」

 もしかしたら慇懃無礼という感じがしないではなかったが、あくまでも穏やかな物腰だった。

「そうです。わたくしども三名、こちらでお茶をいただきたいのですが、宜しいでしょうか?」


506:風(前編) 29/44
11/03/06 08:57:14.80 9cdJfIvR
 いつもの変てこな言葉遣いではなく、育ちのよさを窺わせる穏やかな言い方だった。
 いや、この言い方こそが、本来の沙織なんだよな。

 フロアマネージャーらしい初老の男性は、沙織の一言に一瞬意外そうに瞠目したような感じだった。
 オタク丸出しの垢抜けない大女から、令嬢のような応答があるとは思っていなかったんだろう。
 だが、一瞬意外に思っても、その初老の男性は、沙織の本質を見抜いたのかも知れない。

「それでしたら、窓際にお席をご用意できます。どうぞ、こちらへ……」

 接客を長くやっているんだろうから、人を見掛だけでは判断しないんだな。
 初老のウェイターは、俺たちのそれぞれのために、椅子を引いて、その椅子に座るように促すと、

「では、ご注文がお決まりでしたら、お呼びください」

 とだけ告げて、フロアの端の方へと引っ込んで行った。一連の所作が流れるようで無駄がない。プロだな……。

「さて、各々方、何をいただくか決めようではござらんか」

 メニューを開いてみた。

「意外にリーズナブルな感じかしら……」

 『コーヒー一杯で二千円』とか言っていた黒猫が、ほっとしたように呟いた。

「ここは、コーヒーだけじゃなくて、紅茶も充実しているだな」

 メニューには、『ダージリン 850円』、『アッサム 800円』とか、産地別にいくつかの紅茶の種類が列挙されていた。

「まぁ、少々お高いですが、紅茶はポットで供されるようですぞ。そうであれば、むしろ、割安でござろう」

 たしかにな。ポットだったら、少なくとも二杯は飲めるだろうから、決して高くはない。
 俺は、スリランカ産のウバをミルクティーで頼むことにした。黒猫と沙織は、ダージリンをやはりミルクティーで頼むようだ。

「ケーキもあるのね……」

 俺はそんなに甘い物に執着はないからパスだったが、黒猫と沙織はチョコレートを使ったザッハトルテを注文した。

「では、黒猫氏。お茶とケーキが来るまでの間に、例の騎士鉄十字章の譲渡についての商談を致しましょうぞ」

「そうね……」

「なら、俺はちょっと席を外すよ。当事者たちだけの方が、具体的な金額を交渉しやすいだろうしさ」

 俺は、右掌を二人に向けて軽く振りながら立ち上がった。
 そういえば、携帯はマナーモードにして、メールも全然チェックしていなかったからな。
 買い物の途中で、携帯が振動したような気がしたが、面倒臭かったから無視していた。

 喫茶室を出て、ロビーの片隅に佇んだ俺は、携帯電話機を開き、メールや電話の着信を確認した。
 着信があったとしても、どうせスパムか何かだろう程度にしか思わなかった。何せ、実家や桐乃とは、通話やメールは
ご法度だったし、頼れる友人である赤城とは麻奈実を巡って微妙な関係になっちまったんだ。メールを寄越しそうな
沙織や黒猫は、今は一緒に行動している。だから、まっとうな相手からの連絡はまず考えられない。だが……、

「げっ!!」



507:風(前編) 30/44
11/03/06 08:59:36.41 9cdJfIvR
 俺は、メールの着信リストに、新垣あやせからのものを認めて絶句した。
 しまった、久しぶりに黒猫や沙織に会えたんで、こいつのことをすっかり忘れていた。

「け、件名が、『大至急電話をください!』だとぉ?!」

 件名からしてヤバそうな雰囲気がプンプンする。
 俺は、震える指で、そのメールを選択して、読み始めた。

『お兄さん! どういうことですか?!
今しがた、五更先輩から、彼女がお兄さんの住む街に行っているっていう挑発的なメールが届きました。
どういうことですか? 今すぐ電話で説明してください。
ことと次第によっては、ブチ殺しますよ!!』

「(うわあっ!)」

 なんてこった! 
 その場で頭を抱えて絶叫したかったが、ここは閑静なロビーだ。俺は、歯噛みしながら、辛うじてその衝動を抑え込んだ。

 俺はあらためて、あやせからのメールの時刻を目にし、それが今から一時間ほど前であることを確認した。
 そろそろ、しびれを切らして、ブチ切れる寸前だろう。
 黒猫があやせのメアドをなぜ知っているのか、黒猫が何でまたあやせに挑発的なメールを送ったのか、いろいろと
不可解な要素はあるが、兎にも角にも、あやせへの電話が先決だった。
 桐乃の親友であるあやせへの電話は、両親、特にお袋からは厳禁されていたが、こいつは既に俺の居場所を知って
いる。いまさら電話をするな云々は無意味だ。

「も、もしもし……」

 我ながら、腰が引けて、おっかなびっくりなのが情けない。

『お兄さん……』

 電話の相手は、それだけ言うと、ちょっと押し黙った。この間合いが何とも不気味だ。

「い、いやぁ、わりぃ。さっきメール貰ってたんだなぁ。そ、それで、電話したんだが、まぁ、ちょっと連絡が遅くなってすま
ねぇ……」

 場の雰囲気を和ますつもりで、ちょっとおどけたような口調で話しかけた。
 だが、そいつが逆効果だったのかも知れねぇな。
 こっちの釈明が終わらないうちに、俺の耳には、いきなり、『バカァ~、死ね!!』の悪罵がぶつけられた。さらに……、

『何を今まで、もたもたしていたんですか! 大方、五更先輩とのデートで、鼻の下をでれっと伸ばしていたんでしょ?! 
けがらわしい、破廉恥です。もう~っ、死ねっ!! 大体が、何でそっちに五更先輩が行ってるんですかぁ! お兄さんの
居場所は桐乃にも、桐乃に関係する人たち全てにも秘密だったはずじゃないですかぁ! どういうことですか?!
ちゃんと分かるように説明してください。まさか、お兄さんが五更先輩に居場所を白状したんですか?! どうなんです? 
さっさと答えてください! さもないと、今からでもそっちに行って、ブチ殺しますよ!!』

 耳をつんざくような大音響で、かつマシンガンのような勢いでまくし立てられた。
 こりゃ、黒猫があやせに送ったとかいう挑発的なメールの内容とか、何で黒猫があやせのメアドを知っているのかと
かを、あやせ本人から訊くのは後回しだな。
 だが、この剣幕で、あやせと黒猫の高校での関係がどんなものなのか、大体は想像できた。

「ちょ、ちょっと、もう、ちょっと、ゆっくりしゃべってくれぇ! そんなに早口で、まくし立てられたんじゃ、こっちは対応の
しようがねぇよ」


508:風(前編) 31/44
11/03/06 09:02:19.33 9cdJfIvR

『お兄さんがさっさと電話をしてこないからです。それともう一つ、保科さんの野点の件はどうなっているんですか? 
それについても、お兄さんからは何の連絡もないようですけど。もし、わたしを除け者にして、お兄さんだけが保科さんの
野点に出て、その後で保科さんと何かしようものなら、本当に、ほ・ん・と・う・に、もう、ほ~~ん・と・にぃ! 包丁で
めった刺しにして、ブチ殺しますからね!!』

 今さらながら、あやせって、こえ~~~。
 こいつの『ブチ殺します』ってのは、どこまで冗談だか分からねぇからな。

「ほ、保科さんの件なら、い、今のところ、何ら音沙汰なしだ」

『また、嘘吐いているんですね? その舌、閻魔様に代わって、引っこ抜きますよ!』

「ま、待て、待て、と、とにかく落ち着け!」

 本当にこいつは、異常なまでに保科さんのことを敵視してやがる。

『だって、野点は来週の土曜日だっていうのに、何も連絡がないはずがありません!』

「いや、本当だってば……」

『でも、お兄さんは、大学で保科さんに毎日会っているんでしょ? それなのに、何の返事も貰っていないのは不自然
です!』

「お前なぁ……。大学ってのは高校と違って、クラスメートとの関係なんて疎遠なもんなんだぞ。それに保科さんは学園
のマドンナで高嶺の花。俺みたいな只の学生がおいそれと話しかけていい相手じゃないんだよ」

『でも、毎日同じ教室に居るんじゃないんですか? それなのに、返事がない? 明らかにおかしいじゃありませんか!』

「大学の教室って知ってるか? 学部生はかなりの数が居るから、大きな階段教室で講義を受けるんだぞ。映画とか
テレビドラマとかで、お前も見たことはあるだろ?」

『そりゃ、ありますけど……』

「その教室で、保科さんは、はるか前の方に座っていて、俺は後ろの窓際だ。保科さんとは同じ教室に居ることは居るが、
互いにかすりもしねぇよ。どうだ? これなら、毎日同じ教室に居ても、話す機会なんか、ないってことが分かるよな?」

 本当は、階段教室を使うのは、講義の極々一部なんだが、まぁいいか……。
 保科さんと話せないってのは、階段教室なんかのせいじゃない。
 実のところは、さえない俺じゃ、学園屈指の美女であり、本物のご令嬢である彼女に、俺自身が気後れして近寄れ
ないんだよな。

『……、何だか嘘臭いですけどぉ……』

 半分は嘘だよな。階段教室だからなんてのは口からでまかせに近いもんだし。
 でも、保科さんから音沙汰なしってのは本当だからな。

「信じられないなら、保科さんに直接訊けよ。もっとも、俺は彼女の電話番号も居場所も知らない。彼女に連絡を取りた
かったら、俺の居場所を探ったように、お前の父親の顧問弁護士とかに相談してみるんだな」

 半ばやけくそになって、突き放すような言い方になってしまったが、あやせにしてみれば、俺が強硬な態度を取るとは
思わなかったのかも知れない。

『くぅ……、この変態……』



509:風(前編) 32/44
11/03/06 09:04:12.01 9cdJfIvR
 どんな反論があるかと思いきや、彼女にとっての常套句の一つを呟くように漏らしただけだった。
 しかし、俺に言い負かされただけだってのに、変態扱いか。何なんだろうね。

「保科さんの件については、今のところ何とも言えない。もしかしたら、俺たちはお呼びじゃないのかもな。保科さんが
親御さんか何かに、俺たちを招待したいって言ってはみたものの、反対されたってのも考えられるし……」

『……じゃあ、保科さんの件は、ひとまずいいです……。でも……』

 おっと、これからが本題だな。気を引き締めていかねぇと、文字通り命取りになる。

『五更先輩の件はどういうことですか? 今日、一時間ほど前に、五更先輩から、“今、私は、京介さんと一緒よ。京介
さんをあなたが独占できるなんてのは大間違い。それを心しておくことね”なんてメールが届いたんですよ! どういう
ことですか?!』

「何だとぉ!!」

 うわぁ、黒猫の奴、なんてメールを送ってやがるんだ。こりゃ、あやせがブチ切れるのも道理じゃねぇか。

『五更先輩、いえ、あの泥棒猫と今はデートなんですか? どうなんです? 事実をちゃんと答えてください!』

 思い込みが激しいからな、こいつは。黒猫のメールに俺が黒猫と一緒に居るって書かれていただけで、俺と黒猫が
デートしているって勘違いしてやがる。いや、あの文面じゃ、あやせでなくてもそう思うか。

「い、いや、誤解があるようなんで、それを解きたいんだ。たしかに黒猫とは一緒で、さっきは一緒に買い物をしたところ
だ。だが、これはデートじゃねぇよ」

『はぁ?! 一緒に買い物したっていうのに、デートじゃないんですか? どこまで嘘吐きなんですか、お兄さんは!!』

 あやせがすさまじい剣幕で怒鳴りまくっている。こりゃ、黒猫と一緒であることを否定した方がよかったかな、とも思っ
たが、嘘ってのは思わぬところでばれるからな。ばれた時のリスクは、あやせの場合、洒落にならないくらい恐ろしい。

「黒猫には俺以外の連れが居るんだよ」

『連れ? まさか、桐乃じゃないですよね!』

「違うって! お前も一昨年の夏に、桐乃を夏コミ会場で呼び止めた時に見ている奴だよ。バンダナを頭に巻いて、牛乳
瓶の底みたいなレンズが付いた眼鏡を掛けて、チェックのシャツにジーンズ姿のデカイ奴が居ただろ? そいつが黒猫
と一緒なのさ」

『でも、あの人って女じゃないですか! ちょっと、お兄さん、女の子二人とデートですか?! 不潔です、ふしだらです、
破廉恥です、もう、死ね!!』

 うわ、ダメだこいつ。デートってのは一対一でないと成立しないって前提を忘れてやがる。

「あのなぁ……。仮にお前が言うように、黒猫と、デカイ奴、こいつは沙織っていうんだが、この二人とダブルでデートし
ているってんじゃ、黒猫と恋愛めいた話なんか出来ねぇよ」

『お兄さんには無理でも、あの泥棒猫は大胆不敵ですから、もう一人、沙織とかいう人が居ても、平気で睦言を口走る
んじゃないですか?!』

「そんなことあるかい!」

 黒猫って、根は繊細だからな。沙織だって誰かが一緒の時は、俺にデレるようなことはない。確証はないけど、そんな
気がするんだ。それに、そういうのが、人間の感情や感覚として普通だよな。



510:風(前編) 33/44
11/03/06 09:07:55.91 9cdJfIvR
『どうでしょうか? 不本意ながら、わたし、高校ではあの泥棒猫の後輩なんですけど、学校でのあの人の言動は、何か
につけて挑発的で痛々しいんです。そんな人が、そんな控え目な態度でお兄さんに接するとは思えません』

「挑発的って、お前と黒猫との間になんかあったのか?」

『ありましたよ! おおありです!』

「具体的には、どんなことがあったんだよ」

 俺は努めて冷静な口調を心掛けたが、それがかえって、あやせを苛立たせたらしい。

『ええい! 今は、そんなことを悠長に話している場合じゃないんです。何ですか、学校で聞いたんですけど、お兄さん
は、あの泥棒猫と、キ、キスしたことがあるって話じゃないですか?!』

 うへぇ、学校でって、どこの誰から聞いたんだろうか。俺と黒猫が付き合っていると邪推しているのはゲーム研究会の
面々、特に真壁君あたりだからなぁ。もしかしたら、彼から聞いたのかも知れない。オタク嫌いなあやせがゲー研の連中
に接触するはずはないと思っていたんだが、甘かったか。あやせの執念深さは、人並みじゃねぇからな。俺と黒猫の関
係を洗い出すために、必要とあらば、嫌悪感を感じるオタク連中とも接点を持つんだろう。
 しかし、黒猫の奴、そんなことを軽々しくゲー研の面々に吹聴するとも思えないよなぁ。
 おっと、そんなことを考えてる場合じゃねぇだろ。ここは、しらを切り通すか、はたまた正直に言うかだな。どっちの方が
傷が浅いだろう……。

「あ~~~、その話か……。あれはだな、頬に軽くキスされただけであって、この前のお前みたいに舌入れるようなエロ
い奴じゃねぇって」

 ちょっとした逡巡を経て、俺は結局事実を口にした。キスした事実を認めるのはヤバイが、嘘はもっとヤバイ。

『やっぱり泥棒猫とキスしていたんですね。もう、本当に、こういう主体性のないフラフラしたところは危なっかしくて見て
いられません。だいっ嫌いです。こんなだらしないお兄さんは、ブチ殺しますよ、もう!!』

 くそ、地雷だったか……。本当に、こいつキチ▲イの一歩手前だな。扱いにくくってしょうがねぇや。あの淑やかそうな
ルックスからは想像も出来ねぇな。ここは、取り敢えず、あやせに形だけでも詫びておくか。

「ま、まぁ、黒猫とのキスも、お、俺がぼうっとしている時にやられたんだ……。す、すまねぇ、た、たしかに、しゅ、主体性、
な、ないよな……。あは、あはははは……」

『笑ってごまかさないでください! 私も、お兄さんと泥棒猫がキスしたと聞かされた時は、まだ嘘だと思いたかったから、
お兄さんに文句は言わずに我慢していたんです。それが何ですか!! こともあろうに、その泥棒猫と一緒だなんて、
本当にだらしがないじゃありませんか』

「そ、そう、悪し様に言うこたぁねぇだろ……」

『もぅ! 事の重大さを全然分かってないじゃないですかぁ!!』

「うへ!」

 あやせの怒鳴り声で鼓膜が破れるんじゃねぇかと思ったぜ。ほんと、こいつって、ごまかしが効かないんだよな。

『お兄さんがだらしないのは、もとより承知していましたが、ここまでダメだとは思いませんでした。それに、あの泥棒猫、
高校に入学してからあらためて桐乃を通して紹介されましたが、生理的に無理です。あんな人と付き合うのは』

「生理的に無理って……。散々だな……」

 まぁ、黒猫はオタクだし、あやせはオタクが嫌いだし、そりなんかが合うわけがないんだよな、そもそも……。
 それでもメアドの交換はしたってことか……。その交換したメアドのおかげで、黒猫はあやせに挑発的なメールを送り、

511:風(前編) 34/44
11/03/06 09:10:34.78 9cdJfIvR
そのおかげで俺は今、あやせに吊るし上げられている。何なんだよ、この理不尽極まりない展開は……。

『無理なものは、無理なんです! 気持ち悪いんです、本当にあの泥棒猫は。それに、お兄さんには今まで以上に厳し
い監視が必要なことが分かりました。今回の件は、“デートじゃない”っていうお兄さんの主張をひとまずは受け入れま
すが、今後はこのようなことがないようにしてください』

「………………」

 三歳年下の女子高生に説教されて、言い返せない大学生ってどうよ? 情けなくって涙が出てきそうだ。

『保科さんの野点がどうなったのかが現時点では不明ですが、それには構わず来週末はそちらへ行きます。とにかく、
お兄さんは、わたしが付き添っていなくちゃ、まるでダメなんですから』

「………………」

 なんか、ここまで言われると、幼稚園児か禁治産者、おっと、今は成年被後見人だっけか? とにかく、まっとうな
人間としての扱いじゃねぇよな。死にたくなってくるぜ。

『ちょっと、お兄さん聞いています? そうやって、人の話を、ぼうっと聞き流しているから、あんな泥棒猫とか、保科とか
いう同級生にちょっかい出されるんです。もうちょっと、気を引き締めて毎日を送ってください。いいですか!!』

 その怒鳴るような一言を最後に、通話はあやせの方から一方的に打ち切られた。

「はぁ~~~っ」

 俺は大きなため息を吐くと、携帯電話機を折り畳んでシャツの胸ポケットに突っ込んだ。
 あやせもあやせだが、黒猫も黒猫だ。何で、あんな挑発的なメールを送り付けたんだろう。

「おお、京介氏。ちょうどお茶とケーキが届いたところですぞ」

 喫茶室に戻ると、沙織が、牛乳瓶の底のようなレンズが嵌った眼鏡越しに、害のなさそうな笑顔を俺に向けてきた。
 騎士鉄十字章を巡る商談も万事がうまくいったらしい。

「でも、ずいぶん長かったのね……。たまたまちょうどよかったけど、これ以上、遅くなったら、お茶が冷めてしまうところね」

 何気ない口調だったが、俺を見て、邪険そうに口元を歪めたような気がした。
 こいつ、俺があやせにこっぴどく叱られたことを分かってやがるな。

「二人の商談の邪魔にならないように、これでもタイミングを見計らっていたんだぜ。俺は、けっこう気遣いな人間なんでな」

 黒猫が意地悪そうに双眸を半眼にして、にやついているような気がした。

「まぁ、まぁ、黒猫氏。京介氏にも事情がおありなんでござろう。それに、せっかくお茶が届けられたのですから、まずは
これを嗜みましょうぞ」

 沙織に急き立てられるように、俺は丸テーブルの一角、そこに設けられていた黒い鉄フレームに赤いチェック柄の
クッションが座面に付いている椅子に腰掛けた。
 椅子の鉄フレームとテーブルの脚部にはアラベスク・パターンっていうんだろうか、蔓草が絡まるような模様の意匠
が施され、シックな雰囲気を醸し出している。

「やっぱりポットで出されるんだな」

 俺は、乳白色の磁器、おそらくはボーンチャイナだろうポットの蓋を開けてみた。


512:風(前編) 35/44
11/03/06 09:12:25.46 9cdJfIvR
 ポットの中では茶葉が開き、ほわーんとした暖かい紅茶の香りが漂ってきた。

「最近は、けしからんことに、結構有名なホテルの喫茶室でも、ポットの中はティーバッグということがありますが、ここ
はちゃんとリーフティーを使っておりますぞ」

 俺の右隣に座っている沙織が、口元をほころばせている。
 リーフティーを飲み慣れているであろう沙織にしてみれば、ティーバッグではなく、ちゃんとリーフティーで淹れてあっ
たことが嬉しいのかも知れない。

「せっかくだから、そろそろいただきましょう……。これ以上、待っていたら、お茶が冷めてしまうし、濃く出すぎてしまい
そうだわ」

 黒猫のもっともな指摘で、俺も沙織も各自にあてがわれたポットからカップに紅茶を注いだ。これもボーンチャイナ製
らしいカップには、淹れたての紅茶が鮮やかだった。
 本来ならここでミルクを入れるところなんだが、紅茶の色があまりにも美しいので、ミルクは入れず、砂糖も入れずに、
そのままで飲んでみた。

「お? かすかに薄荷みたいな風味がする……」

 これならミルクなし、砂糖なしの方が美味しいかも知れない。

「京介氏がお頼みしたウバは、ミントに近い清々しい香りが特徴でござる。この清涼感を好まれる方は、もっぱらウバ
ばかり飲まれるようですな」

「そうなんだ……」

 先日嗜んだ抹茶といい、今飲んでいる紅茶といい、嗜好品ってのは奥が深いな。この街での暮らしに余裕が出て
きたら、好みの茶葉を買ってきて、下宿で楽しんでみたいもんだ。

「こっちのダージリンも、巷で飲むようなものとは香りも味も大違いね……」

「ダージリンには色々とグレードがありますからな。拙者も紅茶のことはそれほど詳しくないのでおじゃるが、おそらくは、
高地で特別に栽培された高品質な茶葉を使っておりますぞ」

 黒猫と沙織の前には、黒に近い暗褐色をしたケーキが、それぞれ置かれていた。
 さっき二人が注文していたザッハトルテとかいうやつなんだろう。その鋭角に尖った部分を、黒猫はフォークで切り分
けるようにして、ブラックなチョコレートで覆われた一片をすくい取った。

「中まで真っ黒なのね……。でも、このケーキは表も黒だから、中が黒でも罪ではないわ……」

「これは、これは、ずいぶんと意味深な一言でおじゃる……」

 何となく剣呑なものを察したんだろう。沙織が混ぜっ返そうとしたが、黒猫は、赤い瞳の双眸を瞬きもさせずに、皿の
上のケーキをじっと見つめている。

「反対に、表が白くて、中も白い……。そういうのは空々しくって、何だか腹が立つわね……」

「お、おい、黒猫、お前は何を言ってるんだよ」

「最悪なのは、表が白で、中が真っ黒っていう場合ね……。無垢を装っていて、本当は腹黒い……。そんな人間が多過
ぎるのよ」

「黒猫氏……」

 黒猫は、俺や沙織の困惑をよそに、すくい上げたケーキの一片を口に運び、じっくりと味わうつもりなのか、何回か


513:風(前編) 36/44
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もぐもぐという感じで口を閉じたまま顎を動かした。

「少し苦いわね……。でも、それが現実なんでしょうね」

 黒猫の言わんとするところは、鈍い俺でも察しはつく。何せ、つい先ほど、黒猫から挑発的なメールを送られたと主張
する人物に、電話で散々に詰られたんだからな。

「……お前、あやせのことを言っているのか……」

「あやせ殿とは、たしか、きりりん氏の親友とか申すお方ですかな?」

 黒猫は、俺の顔と沙織の顔に視線をさまよわせ、それから軽く頷いた。

「お、おい、あやせと何があったか知らねぇが、あいつはそんな腹黒い奴じゃねぞ」

 だが、黒猫は、俺の言い分を一蹴するかの如く、小さな鼻孔からフンッ! とばかりに息を噴き出した。

「この前の月曜日に、新垣あやせとかいう、あの女が何をしたのか……、それを知れば、あなただって納得がいくはずよ……」

 それだけを押し殺した声で呟くように言うと、黒猫は、一瞬だけ赤い瞳で俺を睨みつけ、ゆっくりとうつむいて押し黙った。
 和やかであるべきはずの茶話会の雰囲気が、黒猫の呪詛のおかげで、一気に重苦しくなっっちまったじぇねぇか。

「黒猫……。あやせと一体何があったんだ……」

「黒猫氏。せっかく、京介氏に再会できたという折に、そうした物言いは、あんまり宜しくございませんぞ」

 黒猫は、俺や沙織には構わず、自らが放散した重苦しい雰囲気を確かめているかのように、じっと瞑目している。

「黒猫……。おい、何とか言ってくれよ……」

 黒猫は瞑目して沈黙したままだ。俺は、かりかりとこめかみの辺りを掻き、ため息交じりで沙織の顔を窺った。

「……黒猫氏が、頑ななのは今に始まったことではござらんが、この場に居もしない人物のことを、ああまで悪し様に
言われるのは、ちょっと尋常ではござらん」

「そうだよな、こんなのは、普段の黒猫らしくない……」

「黒猫氏にとって、ああまでして言いたいことが、この前の月曜日には、やはりあったんでござろう。そして、それが何で
あるかは、京介氏もある程度はご存知なのではありますまいか?」

「まぁ、何となく察しがつくって程度だけどな……」

 あやせの奴、俺の下宿を訪れて俺と一夜を過ごしたとか、キスをしたとかを、黒猫に洗いざらいぶちまけたんじゃない
だろうか。
 黒猫との口論の挙句、半ばやけくそになって言っちまったんだろう。
 だとしたら、俺と会って、俺と過ごしたってことは、絶対に桐乃や桐乃と関係がある人間には秘密にするという約束は、
早くも反故かよ……。

「あの女が何をしたのか、話してもいいかしら?」

 目をつぶっていたはずの黒猫が、いつの間にか、赤い瞳で俺と沙織を交互に睨め付けていた。

「拙者は、ちと席を外しましょうかな……」



514:風(前編) 37/44
11/03/06 09:17:21.14 9cdJfIvR
 空気を読んだ沙織が立ち上がろうとした。

「あなたにも聞いて欲しいのよ。この前の月曜に何があったか……」

「そういうことなら、拙者もお伺い致しますぞ。しかしながら……」

「あら……、何か不都合でもあるの? それとも、何か不服があるのかしらね……」

「話の中身によっては、拙者も第三者の立場で冷静に対応することが難しいかも知れぬということでござる。拙者とて、
京介氏に関わることとなれば、多少の利害関係は有しますゆえ……」

 俺は驚いて沙織の真意を確かめるつもりで、彼女の顔をあらためて窺った。
 その沙織は、眉をひそませ、忌々しそうに下唇を引きつらせている。いったい、これはどういうことなんだ。

「……なるほど、そういうことね……」

 そう呟いた黒猫は、うつむいて、「くっ、くっ、くっ……」という嗚咽にも似た含み笑いをしてやがる。

「な、何だよ、何がおかしいんだよ?!」

 事態を把握しかねている俺に、黒猫が侮蔑のこもった冷やかな目を向けていた。

「鈍いわね。あなた、ここまで鈍いのは犯罪的だわ」

「鈍くて悪かったな。俺は、面倒臭いことは苦手なんだよ」

「でも、そんな鈍いあなたでも即座に理解できるほど、これから私が言うことは簡明なのよ」

「勿体つけずにさっさと言ってくれ。鈍い俺でも、お前が言いそうなことは分かってるけどな」

「そうかしら……。あの女が私に何を告げたのかは大体は分かっているつもりでも、それを告げられた私や、それをこれ
から聞かされる沙織の気持ちというものを、どうやらあなたは過小評価しているみたいね……」

 黒猫が、整った面相を一瞬だけだが般若のように歪め、赤い瞳で俺を睨め付けた。黒猫の身体から、憤怒、憎悪、
妬み、嫉みといった負のオーラのようなものが、ぶわっと一気に放射されたような感じがして、その雰囲気に俺は
思わずたじろいだ。

「……黒猫氏。京介氏は、どこまでも鈍い方ゆえ、単刀直入に申された方が宜しかろう……」

「そうね……、前置きが長すぎたかしら。手短に言うわ……。この前の月曜日の放課後、私は、あの女に校舎屋上へ呼
び出された。そのときに、あの一見清楚で実は底なしに腹黒い女は、先週末にこの街のあなたの下宿先を訪れ、あなた
の部屋で寝て、あなたとディープキスを交わしたって……」

 沙織の表情が、むっとばかりに険しくなった。眉をひそめ、口をへの字にして、敢えてだろうか、俺には目もくれず、
喫茶室の壁の一点辺りを凝視しているように見えた。

「……それも、あの女、胸を張って誇らしげな態度で言い放ったのよ。ねぇ、元先輩、これは事実なのかしら……。
それとも、あの女の狂言めいた与太話なのかしら……。それを、はっきりさせて欲しいわね」

 黒猫の畳み掛けるような問い掛けで、俺はある覚悟を決めた。

「……下宿先にあやせが来たのは事実だ……。それ以外のことは事実に反する……」

 あやせとの電話で、馬鹿正直に振る舞うことの愚かしさを痛感したからな。
 黒猫と沙織には悪いが、ちょっとばかり嘘を吐かせてもらうことにした。


515:風(前編) 38/44
11/03/06 09:19:33.90 9cdJfIvR
 もう、一方的に不手際を詰られ、腐されるのはうんざりなんだよ。

「あら、へたれなあなたらしくない……。てっきり、あの女の押しの一手で、ずるずると関係を結んだかと思ったのに、違う
のかしら」

「俺にだって節操てぇもんがあるからな。あやせが俺の下宿に来たことは確かだが、ここでの俺の暮らしを、ほんの二、
三時間ほど見届けて、そのまま帰ったよ。だから、俺の部屋で寝たとか、キスをしたとか、そんなのはない」

「……変に自信たっぷりなのが怪しいけど……」

 あやせが俺の部屋で寝たのは事実だが、俺は居たたまれなくなって、別の部屋で雑魚寝したからな。まるっきり嘘
じゃないさ。
 それを拠り所にして、嘘を吐き通してやるぜ。
 だが、それでも突っ込まれる部分は色々とあるけどな。

「……京介氏……。これはどういうことでおじゃるかな? 京介氏の居場所は、誰に対しても秘密であったはず。それが
なにゆえ、あやせ殿が京介氏の下宿を知り得たのでありますかな?」

 さっそく来たか……。
 ぐるぐる眼鏡越しなので、はっきりとは分からないが、沙織が非難がましい目で俺を見ているのは明らかだ。
 俺が自分の居場所を、あやせにだけ教えたと思っているんだろう。

「あやせは、父親の顧問弁護士に頼んで、俺の居場所を探り当てたんだよ。何でも、俺は、性犯罪者予備軍だから、
野放しには出来ないんだとさ。どうだ? こんな扱いを受けているのに、寝泊まりとかキスとかあり得ねぇだろうが」

「なるほど……。弁護士を通じて、京介氏の戸籍を調べることは確かに可能でおじゃるな……」

 どんな方法を使ったのか知らないが、沙織も俺の居場所を突き止めているからな。
 そのことは、黒猫にも内緒なんだろう。
 だから、あやせが俺の下宿先を突き止めたってことは、これ以上追及出来まい。

「……ふぅむ……」

 沙織が、口をへの字に曲げたまま、考え込むように、下顎に人差し指を添えている。
 何か腑に落ちないものを感じながらも、黒猫が居る手前、思い切ったことが言えない苛立ちのようなものが俺にも
感じ取れた。
 沙織には悪いが、取り敢えずはごまかせたらしい。

 俺は、冷静さを装うつもりで、カップのお茶をゆっくりと飲み干し、お代わりをポットから注いだ。
 冷たく白々しい空気の中に、生温かい湯気がほんのりと漂っている。

「でも、何かおかしいわ。あの女が、あなたのことを性犯罪者予備軍と認識しているのなら、何でわざわざ、あなたに会
いに来たのかしらね」

「知らん。あやせって女は、ちょっとおかしなところがあるようだからな。そんな奴の考えることは分からねぇよ。知りたきゃ
本人から聞け。お前は、あやせと同じ高校に通っているんじゃねぇのか?」

「それはそうだけど……」

 黒猫とあやせは互いに嫌悪しているんだな。本当は小心な黒猫にしてみれば、この件で、あらためてあやせを直接
問い詰めるようなことはしたくないはずだ。

「とにかく、俺の部屋であやせが寝たとか、俺があやせとキスしたとかは、事実無根なんだよ」

「……………………」


516:風(前編) 39/44
11/03/06 09:22:03.91 9cdJfIvR

 黒猫は、半眼で俺を睨め付けている。『お前は嘘を言っている』とでも思っているんだろう。
 その通り、俺って、もう嘘まみれだな。何でもそうだが、一線を越えると歯止めってもんが効かなくなるらしい。
 それに嘘を吐くとき、後ろめたさから動揺するってのも正しくないようだ。嘘を吐き通す覚悟みたいなもんがあれば、
どうってことはないんだな。

「お前とあやせの間にどんな諍いがあったのか知らないが、お前とあやせは、屋上で口論になったんだろ?」

「……そうね……、どこで耳にしたのか知らないけど、私があなたに……」

 そこまで言いかけて、沙織が居合わせていることに、はっとしたんだろう。
 俺とキスしたことは沙織にも内緒のはずだ。言える訳がない。

「どうされましたかな? 黒猫氏……」

 今度は沙織が黒猫に疑惑の眼差しを送っている。本当のところは、沙織も気付いてはいるんだろう。後はそれを黒猫
が認めるかどうかだ。
 だが、その沙織だって俺の居場所を桐乃や黒猫に黙って勝手に調べ上げていた。
 それが黒猫に対する一種の負い目になっているはずなんだ。

 俺も含めて、この場に居合わせている全員が嘘吐きなんだ。こうなりゃ、毒を喰らわば皿までもじゃないか。

「それはそうと、黒猫……。お前、先ほど、あやせに挑発的なメールを送ったらしいな」

「いきなり何を言い出すのよ……」

「お前だって、俺とあやせがキスをしたとか、いきなり言い出したじゃねぇか。人のことはとやかく言えねぇだろうが」

 黒猫が、むっと、顔を歪めて、俺を睨んでいた。

「京介氏、そのぐらいにしてくださらぬか。この場は、本来、和やかにお茶を楽しむべきでありましょうぞ。京介氏らしから
ぬ傲岸な振る舞いで、黒猫氏が可哀想でござるし、場の雰囲気が台無しでござる」

 沙織は、腕を組み、眉を吊り上げた険しい表情をしていた。
 何だよ、何もかも俺が悪いと言いたげじゃねぇか。
 そもそも、場の雰囲気を悪くするような話題を持ち出したのは、誰なんだよ。

「それは黒猫にまずは言うべきだろ? それだけじゃねぇ。俺は、黒猫があやせに挑発的なメール、あやせの話だと、今、
俺と一緒で、俺をあやせが独占できるなんてのは大間違いだ、とかいうのを送りつけられたっていうんだ。
それが事実なのかどうなのかを知りてぇな」

「……そんなことを知ってどうするの?」

 黒猫め、しれっと抜かしやがった。むかつくぜ……。

「お前も気付いているんだろうが、お前のはた迷惑なメールのおかげで、俺はお前らが騎士鉄十字章とかの譲渡交渉
をしている間、そのメールを送られた人物から電話で散々に文句を言われたんだぜ。こんな理不尽な話があるかよ」

「あら、その人物に、今ここで私と一緒だってことがばれた程度のことで、なんで文句を言われるのかしらね……。そっち
の方が余程おかしいでしょ?」

 この野郎……。可愛くねぇ。本当に可愛くねぇよ。黒猫って、これほどまでに嫌な奴だったのか……。

「お前とあやせは口論になって、あやせはお前のことを心底嫌悪しているようじゃねぇか。そのお前と俺とが会っている
んじゃ、そりゃ面白くねぇだろう」


517:風(前編) 40/44
11/03/06 09:24:26.22 9cdJfIvR
「論点をぼかそうと必死ね……。哀れだわ」

「お前に哀れんでもらう筋合いはねぇよ!」

「京介氏! そろそろ控えられよ。それに、黒猫氏もでござる。険悪な雰囲気は、落ち着いたこの喫茶室にはふさわしく
ありませんぞ」

 諫めようとしている沙織の声の方が場違いに大きかったけどな。
 黒猫の不遜な態度にはむかつくが、そろそろ潮時か。
 これ以上、こいつを追及したら、本当に喧嘩別れになっちまう。そうなったら、二度と和解なんてできないだろうからな。

「そうだな……。沙織の言うように、俺も少々大人げなかったようだ。お前は、あやせに挑発的なメールは送っていない。
これでいいんだな?」

「……そうね……」

 多分、嘘なんだろうが、俺だって嘘吐きだからな。

「で、おれとあやせの間には、キスとか何とかの、いかがわしい行為はなかった。そういうことでいいな?」

「…………………」

 黒猫は、うつむき加減で俺を恨めしげに睨み、沙織は、先ほどのように腕を組んで、虚空だか喫茶室の壁だかを
無意味に凝視している。
 二人とも、明らかに納得していない。
 特に、こんなにも不機嫌丸出しの沙織を見るのは、これが初めてかも知れない。

 その沙織は、急に黒猫に何事かを耳打ちし、俺に向き直った。

「京介氏……」

「いきなりあらたまって、何だよ」

「誠に申し訳ないのでござるが、再び、席を暫し外していただきとうござる……」

 いつになく真剣そうな沙織の顔と、恨めしげに半眼の黒猫の顔を交互に見やった。
 是非もない。俺が居ない間に、俺の扱いをどうするか決めるんだろう。いわゆる欠席裁判ってやつか。

「いいよ、俺も、ちょっと外の空気を吸いたいと思っていたんだ」

 俺は、ゆっくりと立ち上がり、先ほど俺たちを席に案内してくれたフロアマネージャー然とした初老のウェイターに、
「ちょっと、洗面所へ……」とだけ告げて喫茶室を出た。
 ロビーを横切って、フロントで洗面所のありかを尋ね、ロビーから奥まったところにある洗面所へ入り込んだ。

「畜生……」

 呪いの言葉を呟きながら、蛇口からほとばしる冷水を両掌で受けて、それで顔をザバザバと洗った。
 白々しい嘘を吐いて自己保身を図ったこと、その上、黒猫の態度を責め立てたこと、バカ正直が取り柄であるはずの
俺が薄汚れてしまったような気分だった。

 特に、黒猫に対する振る舞いは、そのちょっと前に電話であやせにこっぴどく詰られたことに対する、鬱憤晴らしの
ようなもんだったのかも知れない。

「俺って、ダメな人間だな……」


518:風(前編) 41/44
11/03/06 09:26:29.70 9cdJfIvR

 今頃、沙織と黒猫は、俺を沙織のサークルから追放するか否かということまで話し合っているに違いない。
 俺としては、喧嘩別れをしたくなかったから、黒猫への追及を途中で打ち切ったつもりだったが、当の黒猫やそれを
見ていた沙織には、俺の言動とか態度が相当にひどいものと映ったようだ。

「サークルを追い出されたとしても、しょうがないよな」

 もとより、首都圏から遠く離れたこの街に追いやられ、黒猫や沙織への連絡も禁じられていたんじゃ、実質的には、
もう脱会しているようなもんだ。

「しかし、あやせが『性犯罪者予備軍』って罵ったが、本当にそんな感じだな……」

 黒猫と口論したばかりというのもあるんだろうが、自分でもぞっとするぐらい人相、特に目つきが高校時代に比べて
悪くなっていた。
 故郷を追い出され、頼れる者が皆無の状態で、もがき苦しんできた結果がこれだ。
 『苦難が人を育てる』とか、もっともらしいことをいう奴が評論家とか、政治家とか、財界人とかに居るが、糧になる苦
難と、そうでない苦難とがあるはずだ。そして、俺が今直面している苦難は、俺自身を劣化させる類のものでしかない。

 俺は、我ながら人相が宜しくないその面をハンカチで拭った。
 嘘を吐く覚悟があれば気持ちは動揺しないとか強がったが、嘘を吐くというのは、やはりいつもと違う緊張感を強い
られるのか、額や鼻筋や頬が、普段とは違う臭いの汗だか脂だかでギトギトしている。

「嘘吐き野郎の罪の汚れというか、穢れだな……」

 だが、今さら、『嘘でした』なんてのは絶対になしだ。一度嘘を吐いたら、その嘘をとことん吐き通すしかない。
 洗顔しても心は晴れなかったが、俺はそろそろ頃合とみて、喫茶室に戻ることにした。

 席では、沙織と黒猫が眉間に皺を寄せた険しい表情のままで座っていた。
 二人とも、俺が元居た席に座っても、眉一つ動かさない。

「で、二人きりでの話し合いとやらは、まとまったのか?」

 険悪な雰囲気ではあったが、黙っていては埒が明かないからな。
 その一言で、険しい表情のままではあったが、ようやく沙織が俺の方を向いた。

「京介氏……。黒猫氏とも意見が一致したのでござるが、本日、拙者たちは、ひとまず帰ることに致しますぞ」

「そうなんだ……」

 俺は、しくじった、やりすぎたんだ、と後悔したが、出来るだけ平静さを装った。一応は、体面があるからな。
 沙織とも黒猫とも、このまま喧嘩別れのような状態で、永遠にさようならなのかも知れない。

「しかしながら……、京介氏も、新しい生活に馴染むか馴染まないかの時に、拙者たちが押し掛けたというので、
少々お気持ちが昂ぶられていたのではないかと推察致しまする」

「いや、そういうわけでもないんだけどよ……」

「とにかく、本日は、少々不本意な形でのオフ会となりましたが、これだけをもって、万事を決め付けることは出来ませぬ
ゆえ……」

 沙織の含みのある言い方は、どう解釈すべきなんだろう。
 こうした持って回った言い方……、今までは気にならなかったが、今日は、先ほどの諍いの余韻のせいか、妙にイラッ
とさせられる。

「『これだけをもって』ということは、別途、何かがあるってことなのか?」


519:風(前編) 42/44
11/03/06 09:28:41.16 9cdJfIvR

「鈍いわね……。もう一度、仕切り直しのつもりで会いましょう、ってことよ」

「黒猫氏、その言い方は感心しませんぞ」

 相変わらずだ。
 黒猫って、こうやって無駄に敵を作るんだよな。あやせとだって、結局はこんなやりとりで、関係がこじれたんだろう。
 今日は、俺も危うく黒猫を敵にするところだったからな。

「言い方はどうあれ、もう一度、お前らが来ることは分かったよ」

「しからば、まぁ、そういうことで……。来週の日曜日に、再び、この街にお邪魔致しますぞ。宜しいですかな?」

「ちょ、ちょっと、待て! それじゃいくら何でも早すぎる」

 まずいぜ。来週末の土曜日は、あやせがやって来る。保科さんの家で催される野点に俺共々行くためにだ。
 野点の招待状は未だに保科さんから受け取っていないが、あやせは、野点があろうがなかろうが、そんなものにはお
構いなしに、この街にやって来て、俺の下宿に上がり込むだろう。そうなったら、日帰りということはまずあり得ない。
 この前みたいに、下宿に泊まり込み、翌日の日曜日も俺を監視するという名目で、俺につきまとうに違いない。
 この街で、黒猫と鉢合わせでもしようものなら、マジで流血の惨事だな。

「都合でも悪いの?」

 こいつは、腹が立つほど人の痛いところを遠慮なく突いてくるな。悪意があってやってるわけじゃなくて、これが黒猫
の地なんだろう。
 こいつに友達が少ないのは、こんな風に思ったことを率直に口にしてしまうこと、それが原因の一つのような気がする。

「いや……。別に、一瞬、何か予定が入っているかと思ったが、勘違いだったようだ」

 意味もなく率直なのもどうかと思うが、嘘はもっとまずいよな。
 これで、今度の週末にやって来るあやせをどうするか、という難問を抱えることになっちまった。

「京介氏のご都合が宜しいようですので、それでは、来週末の日曜日に再びお会いするということに致しましょうぞ。
なお、当日の詳細なスケジュールにつきましては、黒猫氏とも協議の上、追って、京介氏にご連絡申し上げるでござる」

 なんだい、時間に関して俺の都合はお構いなしかよ。これには少々むかついたが、我慢した。
 下手に不満を口にして、今週末にあやせもやって来ることを気取られるようなことがあってはならないからだ。

「ああ、そうしてくれ。スケジュールは空けておくよ」

 ことさら鷹揚に頷いてみせた。不自然な演技だったかも知れないが、何とかごまかせたと信じたい。
 俺は、自身を落ち着かせるつもりで、ポットの中に未だ少しは残っているはずの紅茶をカップに注いだ。
 だが、それは、すっかり冷め切っていて、茶葉が長時間お湯に浸っていたために色が異常に濃い。
 俺はカップの中身を一口すすって、思わず顔をしかめた。

「そんなもの、よく飲めるわね……」

 不愉快な指摘だが、全くその通りだな。
 冷たい上に、渋くって、苦くって、とてもじゃないが飲めたもんじゃない。

「紅茶は、飲み頃がありますれば、それを逸すると、かようなことになり申す」

 時機を逸する羽目になったのは、沙織が俺に席を外すように命じたからじゃないか。
 そう思うと理不尽極まりないが、この場で、諍いを蒸し返すのも面倒くさい。




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