14/06/15 11:46:09.35 QLpO6PAG
>>356 続き
URLリンク(ja.wikipedia.org)
一極体制以降の国際情勢
社会主義国が軒並み没落したことで資本主義の勝利が叫ばれ、「新自由主義」とも呼ばれるアメリカ型の無規制な資本主義が世界を席巻するようになった。
それまで親米的であることによって経済的繁栄を享受してきた国々は、冷戦構造下のイデオロギー対立が消滅することによって、かえって経済的危機に陥ることとなった。
例として、日本では「失われた10年」(2010年現在では「失われた20年」)と呼ばれる停滞期に突入し、韓国やインドネシアなどでは「アジア通貨危機」とそれに伴う失業率の激増に陥った。
冷戦時代の西側諸国の多くは、アメリカ型の自由放任型資本主義体制ではなく、ケインズ主義やコーポラティズムとも呼ばれる協調的・混合経済的な資本主義体制であった点に注意すべきである。
2010年代以降の動向
アメリカ合衆国による一極支配が、終わりを迎えつつあることが2010年代に入って以降指摘されはじめている[2]。
一方、シェールガス革命や民主主義に代わる価値観の不在などを理由に、アメリカはこれからも世界をリードする超大国であり続けるという意見もある[3]。
ただ、シェールガス革命はアメリカの救世主とはなりえないという意見もある[4]。
それまで活発だったネオコンの退潮は事実であり、アメリカの外交政策も2010年代に入ってブッシュ時代から大きく変化していることは確かである。
アメリカの2015年会計年度国防予算は、緊縮財政と国内の厭戦気運を反映し、大幅に予算が削減され、部隊も削減されることとなった。
日本では産経新聞など親米保守メディアを中心にオバマ政権をかねてから「内向き」などと批判しているが、今までのアメリカのやりたい放題がようやく終わり、新しい世界体制がやってくる第一歩という逆の見方もある[5]。
361:名無しさん@3周年
14/06/22 21:17:42.44 GpgAe+jv
>>347 関連
URLリンク(www.nikkei.com)
成果主義に落とし穴 ドラッカーが認める評価法は ドラッカーに学ぶココロの処方箋(9)(1/3ページ) 2014/6/22 日本経済新聞
(抜粋)
日本での成果主義は失敗したと言われて久しい。
成果主義とメンタルヘルスの関係を研究した天笠崇医師は、成果主義の導入が従業員のメンタルヘルスに悪影響を及ぼしたことを指摘している。
その原因は、勤務の長時間化、評価への不満、短期的成果への要求増大、協力関係の希薄化、ハラスメントの増長などが挙げられる。
その後、制度を見直している会社も多いが、それでもなお社員のモチベーションやメンタルヘルスの向上につながらないケースが多いのはなぜだろうか。
今回もドラッカーの名言を参照しながら、事例を基に考えてみよう。
■定量化するほど他の要素を見落とす
目標管理はドラッカーが提唱したとされているが、誤解もある。
ドラッカーが提唱したのは「Management by Objectives and Self-Control」、つまり「自分自身による」目標管理。
現在多くの組織で用いられているのは「上司による部下の」目標管理であり、識者のなかにはドラッカーの意図が正しく反映されていないとする意見も多いようだ。
他者による目標管理においては、その成果を定量化しなければならない。
ドラッカーは、こんな言葉を残している。「社会的事象の中で真に重要なことは定量化になじまない」(『ドラッカー 365の金言』)。
ドラッカーは管理するために定量化を行うほど見えないものを見落とす危険性があると警告している。
「測定と定量化に成功するほど、それら定量化したものに注目してしまう。
したがって、よく管理されていると見えれば見えるほど、それだけ管理していない危険がある」(『マネジメント エッセンシャル版』)。
評価項目や基準が変われば、従来の評価から上がったり下がったりする人が出てくる。
一方で、周囲から「この人がいてくれて助かっている」と認められていても、「その能力や成果を測定できない」という理由でいつまでも評価されないケースもある。
362:名無しさん@3周年
14/06/22 21:24:00.01 GpgAe+jv
>>361 関連
URLリンク(www.nikkei.com)
成果主義に落とし穴 ドラッカーが認める評価法は ドラッカーに学ぶココロの処方箋(9)(2/3ページ) 2014/6/22 日本経済新聞
(抜粋)
■数値以外の感覚を共有する場を作る
ドラッカーは、評価することの難しさを次のように表現している。
「測定という行為は、客観的でも、中立的でもなく、主観的な行為であり、何がしかの偏りを持たざるをえない。
(中略)測定の対象は、新たな意味と新たな価値を賦与される」(『マネジメント エッセンシャル版』)。
つまり、評価する側の主観を排することは難しく、評価項目を選定した時点でその意味や重要度が変化してしまうということだ。
組織が成果を上げるうえで必要な事象を、すべて定量化可能な評価項目に織り込むことは不可能なだけではなく、
評価者の主観による偏りも生む。制度としての目標管理はそうした矛盾をはらむことを前提として、上司と部下は正しく評価し、評価される努力を重ねていかなくてはならないだろう。
では、どんな努力が出来るだろう。
目標設定や評価とそれを伝える手段としての定量化を行うと、「定量化できないもの」の重要性を知りながらも、ついそれを忘れがちである。
目が向きやすい部分だけで判断していると、人間としての交流が失われ、メンタルヘルスに悪影響を及ぼすこともある。
「定量化できないもの」があることをいかに上司は意識し、部下の評価に臨めばよいだろうか。
■全体としての貢献という視点で見る
現代は、「全体は部分の総和であり、定量化できて意味を持つ」と考えたモダン時代から、「全体を全体として把握しなければならなくなった。
命あるものとして見なければならない」とするポストモダン時代になったとドラッカーは指摘している(『テクノロジストの条件』)。
これは個人の評価についても同じである。
各項目の評定値の足し算ではなく、その個人全体で見て「組織に対してどんな貢献をしているか」を考えてみる。
すると、個人が上げる数値的な成果だけではない全体像が見えやすい。
そこには、営業としての「売り上げ」やプロジェクトの「進捗度合い」だけではない何かが見えてくるはずだ。
363:名無しさん@3周年
14/06/22 21:43:48.66 GpgAe+jv
>>362 関連
URLリンク(www.nikkei.com)
成果主義に落とし穴 ドラッカーが認める評価法は ドラッカーに学ぶココロの処方箋(9)(3/3ページ) 2014/6/22 日本経済新聞
(抜粋)
■あえて定量化できない部分を挙げる
目標管理において評価項目の数値に基いて評定した後は、定量化できないその人の特徴を挙げて本人に伝えてみよう。
「優しい」「明るい」「真面目」「臨機応変」「ケチ」「せっかち」「小心者」…。ポジティブなものはそのままに、ネガティブなものはポジティブに言い換えて伝えよう。
「ケチ→金銭感覚がしっかりしている」「せっかち→行動が早い」「小心者→慎重に物事を進める」など表現の仕方によって長所に変わる。
自分の中にある見えにくい部分を「上司が見ていてくれた」と感じることは部下のやる気を大きく刺激する。
「管理手段は、測定可能な事象のみならず、測定不能な事象に対しても適用しなければならない」(『マネジメント エッセンシャル版』)というドラッカーの言葉をもう一度かみしめたい。
■上司と部下の“評価”の違いを話し合う
目標管理面談を、上司が部下に評価を伝えるだけではなく、部下の自己評価と突き合わせて、「その差はなぜか?」を話し合う機会にするとよい。
最終的に上司の評価が覆ることが目的ではなく、上司、部下それぞれから見た違いをお互いが理解すれば、今後の目標設定や評価の調整に役立つ。
なにより、部下が「なぜこの評価なのか?」との思いを残さずに済む。
その話し合いの中では、お互いの価値観や仕事に対する取り組み方など評価項目に含まれないことも出てくるだろう。
それが大切だ。
改めて見えないものに注目しなければならない。ドラッカーは次のようにその配慮の必要性を強調している。
「定量化することはもとより、定義することさえ困難である。とはいえ、把握不能ということはない。いたって明白である。
データ化できないというだけにすぎない。データ化できないものを考えなければならない。データ化できないものについての配慮を忘れたデータ化は、組織を間違った方向へ導く」(『マネジメント-課題・責任・実践』)
364: ◆Rfkp.U.alk
14/07/28 18:42:32.68 ILBws55H
>>363
定量化が有っての「定量化できない部分」。
定量化できない部分がある、って話はすぐに定量化しなくてもいい、定量化は意味ないって方向に行っちゃう。
定量化できない部分は確かにある。
けど、評価者も被評価者も定量化できないことに甘えてはいけない。
定性的でもいいからそれが何なのかを突き詰めて考えないと、「なんとなくいいですね」的な評価になる。
それはすごく大変で大事な作業だ、ってドラッカーは言ってるわけだ。
けど、これって無茶苦茶難しいから、定量化できる部分で止めた方が公平感納得感が高い場合が多いように思う。