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突然の死
1997年12月20日、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンション下で遺体となって発見された。
当初から、経緯について様々な諸説が飛び交うことになった。
以下は、その諸説を書く物で、事実かどうかは定かではない。
かつて『ミンボーの女』(1992年)公開後に襲撃事件があった経緯から、当初から暴力団の関与を疑う声はあった。
ただ、事務所にワープロ印字の遺書らしきものが残されていて、そこに
「身をもって潔白を証明します。何もなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです」
との文言があったことから、写真週刊誌『フラッシュ』によりSMクラブ通いや不倫疑惑が取り沙汰されたことに対する
抗議の投身自殺か、とも推測されるようになった。
だが、手書きでなくワープロというのが不自然だとされた。
また、死の直前、FLASHの記者から不倫疑惑について問われた際、伊丹は笑いながら「妻に聞いてみればいいよ」
「(不倫疑惑は)いつものことだから」と軽口で答え、その様子がFLASH誌面に掲載されている。
また死の5日前まで医療廃棄物問題の取材も続けていた。
「飛び降り自殺」はまさにその直後のことであり(インタビュー、FLASH発売直後)、自殺直前の様子との不自然さから、
その「自殺」には強い疑惑が持たれ続けている。
ジェイク・エーデルスタインの著書によれば、伊丹は当時後藤組と創価学会の関係を題材にした映画の企画を進めており、
創価学会関係者や後藤組組長の後藤忠政がそれを快く思わず、後藤配下の5人が伊丹の体をつかんで銃を突きつけ
屋上から飛び降りさせたと、自身が取材した人物が語ったという。
また大島渚や立川談志など古くから伊丹十三を知る人物も、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、
あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と話し自殺を否定した。
宮本信子は2002年12月20日、「感謝の会」における挨拶では「本人が決めたことですから仕方がないですけれども」と語った。