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2014/06/01 日本経済新聞朝刊13面 熱風の日本史(40)「新聞は思想戦兵器なり」(昭和)―経営優先、戦争熱煽る、美談で飾り、部数V字回復(終)
「新聞は、今までの新聞の態度に対して、国民にいささかも謝罪するところがない。詫(わ)びる一片の記事も揚げない。
手の裏を返すような記事を載せながら、態度は依然として訓戒的である。(略)敗戦について新聞は責任なしとしているのだろうか。度し難き厚顔無恥」
日本国民が太平洋戦争の敗北を知ってから4日目の1945(昭和20)年8月18日、作家の高見順は日記にこう記した。
新聞人が無責任で反省していなかったわけではない。元朝日新聞の主筆で、戦争末期の小磯国昭内閣で情報局総裁を務めた緒方竹虎は戦後、
「軍の方からいうと、新聞が一緒になって抵抗しないかということが、始終大きな脅威であった。従って各新聞社が本当に手を握ってやれば、
(戦争の防止は)出来たんじゃないかと、今から多少残念に思うし、責任を感ぜざるを得ない」(『五十人の新聞人』)と述べている。
これは現在でも語られる「スタンダード」な新聞の戦争責任論だ。新聞が連帯して軍に抵抗し、戦争に反対する勇気を持たなかったという懺悔だが、
「主犯は軍部、新聞は不承不承の従犯」という被害者意識もにじみ出ている。しかし、それだけではない「不都合な真実」がある。
◆ ◆ ◆
日本の国際連盟脱退(1933〈昭和8〉年)前に、日本の新聞で唯一脱退反対を唱えた時事新報記者の伊藤正徳は「新聞は戦争とともに発展する」
(『新聞五十年史』)と断言している。日露戦争(1904〈明治37〉~05年)では大手新聞の部数は軒並み3倍に増えた。
「ジャーナリズムは日露戦争で、戦争が売り上げを伸ばすことを学んだ」(半藤一利・保阪正康『そして、メディアは日本を戦争に導いた』)、
「戦争のたびに新聞の部数が飛躍的に伸び、新聞社のビルが大きく高くなっていった」(岩川隆『ぼくが新聞を信用できないわけ』)
昭和初期、世界恐慌と緊縮財政の影響で新聞の部数は落ち込んでいた。31(昭和6)年9月18日に勃発した満州事変は、挽回の絶好のチャンスだった。
各新聞社は大量の記者を満州に派遣し、写真などを空輸するため飛行機を飛ばした。
大阪朝日は9月11日から翌32年1月10日まで131回の号外を出した。特派員の事変報告演説会は東日本で70回、聴衆は60万人。
各地で4002回もニュース映画が上映され、1000万人が見たという(前坂俊之『メディアコントロール』)。
紙面では「肉弾(爆弾)三勇士」のような美談が掲載され、国民を熱狂させた。各社は写真展などの展覧会や国民集会を主催し、戦争ムードを盛り上げた。
経済紙の中外商業新報(現在の日本経済新聞)も「満蒙時局大観」という12ページのグラビア紙面を作った。
とくに大阪毎日・東京日日(現在の毎日新聞)の戦争賛美は際立っており、「あくまで支那の非違を責め、支那の反省改悟(かいご)するまで、
その手をゆるめ」るなと社説(9月27日付)で軍を叱咤(しった)。「毎日新聞後援、関東軍主催、満州事変」といわれた。
32(昭和7)年12月19日の各紙には、満州国を不承認とした国際連盟の決定に異議を申し立てる全国新聞・通信132社の共同宣言が掲載された。
翌年の連盟脱退を促す結果になり、新聞は国家をミスリードし始めていた。事変報道で新聞は売り上げのV字回復を果たした。
そして6年後、再び「稼ぎ時」がやってくる。37(同12)年7月7日の盧溝橋事件から始まった日中戦争は、報道合戦をさらにエスカレートさせた。
◆ ◆ ◆
当時、ラジオが爆発的に普及し始めており、速報性で劣る新聞は焦っていた。
最新の写真電送機などを駆使し、戦場写真と郷土部隊の活躍を美談で粉飾した記事をより早く読者に届けることに腐心した。
兵士の安否を知りたい家族は新聞をむさぼり読んだ。速報重視は情報を吟味せず、既成事実を追認していくことになる。
事件発生当初の不拡大方針を撤回し、派兵を発表した7月11日の夜、近衛文麿首相は在京の新聞・通信社の幹部を官邸に呼び、挙国一致の協力を要請。
新聞側は快諾した。
>>2に続く