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誰も助けに来なかった 吉田調書、所長が「恨み」吐露
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東日本大震災発生3日後の2011年3月14日午前11時01分、福島第一原発の3号機が爆発した。
分厚いコンクリート製の建屋を真上に高々と吹き飛ばしたところを無人テレビカメラに捉えられ、ただちに放映された、あの爆発だ。
——— 水が欲しいときっとなるだろうから、そうだったら、何はともあれ外との間の
パイプラインをつくってしまえという指示をどこかで出したのかなと思っていたんですが、
パイプラインを何でもいいからつくってくれと、そんなことまでは頭が動かないのか、それとも、言っても先ほどのように。
吉田「それはわからないです。私はこの中にいましたので、外からどういう動きをしていたかはちっともわからないんで、
結果として何もしてくれなかったということしかわからない。途中で何かしてくれようとしていたのかどうか、一切わかりません」
——— わかりました。私はそこまででいいです。
吉田「逆に被害妄想になっているんですよ。結果として誰も助けに来なかったではないかということなんです。
すみません。自分の感情を言っておきますけれども、本店にしても、どこにしても、これだけの人間でこれだけのあれをしているのにもかかわらず、
実質的な、効果的なレスキューが何もないという、ものすごい恨みつらみが残っていますから」
——— それは誠にそうだ。結果として誰も助けに来てくれなかった。
吉田「後でまたお話が出ますが、消防隊とか、レスキューだとか、いらっしゃったんですけれども、
これはあまり効果がなかったということだけは付け加えておきます」
3月12日午後の1号機の爆発に続き、日本史上2度目の原発の爆発も、ここ福島第一原発で起きてしまった。
外で作業にあたっていた人が怪我をした。当時、原子炉への注水は、
3号機の海側にある逆洗弁ピットというくぼみにたまった海水を、消防車で汲み上げておこなっていた。
その屋外作業に大勢がかかわっていた。
また、自衛隊がちょうど給水車で原子炉に入れる水を補給しにきていた。作業をしていた6人は被曝し、何人かは怪我もした。
福島第一原発では所長の吉田昌郎以下、所員の落ち込みようは激しかった。吉田はサイト、
すなわち発電所のみんなの声を代弁し、午後0時41分、テレビ会議システムを使って、声を詰まらせて東電本店に次のように訴えた。
「こんな時になんなんだけども、やっぱり、この……、この二つ爆発があってですね、
非常にサイトもこう、かなりショックっていうか、まあ、いろんな状態あってですね」
社長の清水正孝の答えは、次のようなものだった。
「あの、職員のみなさま、大変、大変な思いで対応していただいていると思います。
それで、確かに要員の問題があるんで、継続につき検討してますが、
可能な範囲で対処方針、対処しますので、なんとか、今しばらくはちょっと頑張っていただく」
東電本店はヒトだけでなくモノの面でも福島第一原発を孤立させていた。
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