13/09/15 16:30:39.82
リョサの「緑の家」だと、話が展開していって、最終的には作品全体から浮かび上がって来る
全体像から解放感を感じます。「百年の孤独」も世界が完結した後の解放感が感じられるのよ。
フォークナーは、閉塞感しかない気がしてならない。
サトペンは、身元不詳の成り上がりの地主の白人でしょ?いろいろな関係筋の人物の語りによって
複合的に人物像を浮かび上がらせようとする手法は分かるが、どんな人間であれ、卑俗な面や平凡な面は
ある訳なのに、なにをそんなに敢えて複雑にしようとするの・・・と感じてしまう。南部の地縁、血縁の絡み合いなんかを
表現するのは分かるが、それが何か美学や思想的な深みに到達していく訳ではない。