09/06/30 21:49:11 BGff2PpX0
>>851
>>856
>それらが無数に絡まり合う事も無かった
で、ついでにベンヤミンの時代の話をするけれど、彼がその時代に
「送り手の想像力を受けたひとびとが次の送り手となるという状況」を見取ったように、
彼らが生きた時代はワイマール・ドイツの消費やファッションのかなり爛熟した時代だよ。
例えば、ミッキーマウスが生まれたのは1920年代のアメリカ。
ミッキーマウスは円を中心とした、描きやすい、親しみやすいキャラクタとして考案され、
現に世界中の子どもたちによって落書き帳などに描かれるほどの親しまれぶりとなっている。
動的な表現的ツールとしての側面をミッキーというキャラクタは持っているわけだけど、
また、一方でどんなに親しまれ、世界中に広がったとしても、
鼠帝国の呼称が示すように、どこまでも非道なまでに権利を主張して占有を図ることもできる格好の例ともなっている。
どんなに描かれ、広まったとしても、独占は可能だという一例だよ。
またはジャズ。ベンヤミンの同僚だったアドルノは、当時アメリカで隆盛を極めていたジャズを、
誰でも参加が可能な、いわば動的ツールのようなもの、と見なしていた。
高度なアカデミ的修練を経ずとも、場の即興で誰でも演奏に参加することのできるジャズ、
(今から見れば超絶技巧の塊にしか見えないとしても)
破壊と連弾と、グルーブ第一であって、高度な音楽的教養などをひつようとしないジャズ、
また、一方でジャズは誰でも参加できるような、幾多の慣用のフレーズを持っている。
そして、こうした慣用のフレーズには、作者がいない。誰もそのフレーズの所有権を主張したりしない。
ジャズはそうした参加的ツールなわけだけど、アドルノはだからこそ文化的教養を破壊するものと見なしていた。
現代的な消費的文化に、
コミュン的な共有の夢を見ていたのがベンヤミンで、逆にだからこそ退廃だと見なしていたのがアドルノ。
古くから、ここらでなされる議論は繰り返されてきたお馴染みの議論なんだよ。