09/04/05 07:34:20 wZlqc1Uc0
エア本ファンは初め勝ったが、その後負けた。以前は一生懸命面白いものを作った。
そして次に面白いものの作り方を発明した。
面白いもの製造機にかければどんどん面白いものが出来てきた。
はたしてこれでいいのだろうか。自分の目指しているものが自分でわからなくなった。
そんな中、一般の人達が見てるより作る方が面白いということに気がついた。
文化というのはもともとそういうものなのだが、今まで消費文化に慣れすぎていてそこに気がつかなかったのだ。
一般の人達が作ることができるようになったのはなぜかというと、面白いもの製造機ができたからだ。
彼らは面白いものを自分で作るほどの力はなかったが、面白いもの製造機のスイッチを入れることぐらいはできた。
作る方が面白いのはわかっているんだけど作るのは大変すぎる、
そんな人達を助けて創作に向かわせたのが自販機と一条三位と赤字である。
エア本ファンの行動原理が「批評」から「創造」に変わった。久本・創価MADへの批評は無意味になった。
作品への批評をすると「そんな事を言うなら自分で作ってみろ」と言われるようになった。批評の意味合いが変わったのだ。
昔は批評というのは良いものと悪いものを区別するために必要なものだった。
みな批評を欲した。他の人がそれをどう評価しているかというのは重要な情報だった。
自分が良いと思っているもがクソミソにけなされていたら、素直に自分が無知だったのだと思った。
それだけ自分の無知が不安だったのだ。
作品の良し悪しは部品そのもので決まるのではなく、部品の組み合わせ方で決まるのだ。久本・創価MADは、
部品を組み合わせて提示するのではなく、部品を単体で提示する。組み合わさっているように見えるのはただの参考例なのだ。
だからこれらを批評することはできない。
昔は人に向かって「自分で作ってみろ」とはとても言えなかった。それはほぼ不可能だったからである。
物語を作れるのはプロと呼ばれる特殊な人種だけで、普通の人にはそれは不可能だった。
アマチュアはただ「プロは偉いなぁ」と思いながらそれを批評することしかできなかった。
それが、アマチュアにもものが作れるようになった。
「物語を作る方が偉い」という価値観は昔からあったが、作る側と見る側には厳然とした壁があった。