○×ソーシャル コトノハ 20コトat SNS
○×ソーシャル コトノハ 20コト - 暇つぶし2ch580: ◆vWilh8Qklc
09/02/15 20:22:32 JLRhgqV90
「正規ルートで購入したダウンロード版ソフトウェアは1回のみなら販売してもよかろう論」

◆この出品物について、「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとの報告をした者がいる。
◆しかし私は、この出品物を金銭を支払って正規ルートで購入した。
◆仮に、この出品物が「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとするならば、同じく金銭を支払って正規ルートで購入したパッケージ版もまた「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」に当たると判断せねばなるまい。
◆しかしながら、現状ではそのようには判断されていない。
◆したがって、現状ではこの出品物は「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」ではない。
(以上、背理法による論証)
◆さて、ダウンロード版は何度も販売することができる点でパッケージ版とは異なるのだという指摘もあろう。
◆言い換えるならば、この出品はパッケージ版のファイルをコピーして販売しているのと同型であるということである。
◆たしかに原理的にはそのとおりであるが、個別の事例で考えた場合にはその限りではない。
◆具体的には、製品版の販売と同様に、販売回数を1回に限定すればよいのである。
◆これに対しては、たとえば複数IDを持っていたり、Yahooから排除されるたびにIDを取り直したりするなどした場合には、Yahooですら何回販売しているかを把握できないとの反論があるかもしれない。
◆これにも異論はない。
◆しかしながら、ただそれだけの理由で排除が行われるならば、パッケージ版についても、たとえば他者から窃盗したものである可能性がある、あるいは精巧な複製品の可能性があるなどとして排除されねばなるまい。
◆そうした可能性があるにもかかわらず製品版の出品は排除されていないというのが実情である。
◆それゆえ私は、ダウンロード版の販売についても、製品版の販売と同様に、出品者を信用するというのが整合的な立場であると考える。
(むろん、これは現状において整合性を保持する場合の帰結であって、パッケージ版を中古として払い下げること自体が行ってはならないことであるという可能性はある。)

581: ◆vWilh8Qklc
09/02/15 20:23:26 JLRhgqV90
  上では、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売すること」と同型であるとしたが、実は厳密に言えばこの見方は誤っている。
  ダウンロード版とパッケージ版のいずれもが正規ルートで購入されているということを前提するならば、「正規ルートで購入したダウンロード版」と「正規ルートで購入したパッケージ版」の身分が同値となる。
ところで、パッケージ版のコピーを販売した場合には、そのコピーの購入者が購入したコピー品を他者に販売することは禁じられている。また、そもそもパッケージ版のファイルを含むすべてを複製して販売することも禁じられている。
他方、パッケージ版のコピーを自らが保有しておき、購入したパッケージ版それ自体を他者に販売するという行為は、すでに見たように一般に広く行われており、現時点では容認されている。
したがって、パッケージ版がオリジナルであるかどうかは、そのソフトウェアのファイル群ではなく、ファイル群以外のパッケージ部分(外箱、内箱、ケース、記録メディア、マニュアル等々の総体)において判断されていると考えられる。
  ここで、ダウンロード版の特殊性が浮かび上がってくる。
上でパッケージ版について検討したとおり、少なくとも「商品としての」ソフトウェア・ファイル群自体にはオリジナルがない。
ということは、ファイル群のみの取引となるダウンロード版には、一見したところ商品としてのオリジナルは存在しないことになるのである。
しかしながら、これでは1人の者が1度その商品を購入しさえすれば、彼が物理的に可能な範囲で無制限に配布できることになってしまう。したがって、パッケージ版に課せられている制限との間で整合性を維持することができない。
  そこで、購入したパッケージ版を売却する際に制限として設けられていたことを思い出す必要がある。
パッケージ版は、購入したパッケージ版それ自体を販売する限りにおいて売却が認められていたのであった。すなわち、パッケージ版においては1回のみの販売が許容されているのである。
これをダウンロード版にも適用したとき、ダウンロード版は、それを手にした者がそれぞれ1回販売するか、2回以上販売するかによって、パッケージ版と同値であるか、パッケージ版のコピーと同値であるかに分岐するという結論が得られる。

582: ◆vWilh8Qklc
09/02/15 20:24:04 JLRhgqV90
  それゆえ、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」という事態は次の2つに区分されることになる。
「正規ルートで購入したダウンロード版を1回のみ販売すること」と「正規ルートで購入したダウンロード版を2回以上販売すること」である。
そして、後者の場合には「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売すること」と同値になるが、前者の場合には同値でないと言うことができるのである。
  なお、ダウンロード版は価格が相対的に低いが、これは再販売が禁止されている代償であると言うよりは、単にパッケージ版に特有の費用(製造に係る費用と流通に係る費用の両方)を抑えられるからであり、
したがってダウンロード版の再販売禁止の根拠としては使えないと思う。

583: ◆vWilh8Qklc
09/02/15 20:24:56 JLRhgqV90
【要約版】

◇パッケージ版のファイルをコピーしたものの販売やパッケージ版全体(ファイルのみならず、外箱、内箱、ケース、記録メディア、マニュアル等々を含む総体)の複製品の販売を禁じているのは、ファイルに権利があると見なしているからであると思う。
◇つまり、本来のオリジナル性はファイルに帰属することになる。
◇しかし、製造会社が生産し、流通経路に乗せたパッケージ版それ自体の販売の連鎖はどこまでも容認されている。
◇このことから、私は「商品としては」ファイル以外の部分がオリジナルに当たると述べた。
◇ファイル以外の部分を「商品としての」オリジナル(識別符号)と見なすことによって、ファイル制作者の権利を侵害する行為からファイルを保護しているのである。
◇こうして、ダウンロード版販売禁止論者は、識別符号であるファイル以外を持たないために(1回の購入によって何度でも再販売することが可能となる)ダウンロード版の販売は禁じられるべきなのであると考えていることが分かる。
◇しかし、これが問題なのは、正規ルートで金銭を支払って入手したという点では同じであるにもかかわらず、パッケージ版には冒頭に挙げた制限付きでの販売を認め、ダウンロード版には問答無用で販売を認めないという立場が整合的でないからにほかならない。
◇しかも、販売は認められないと言いながら、製造業者から小売業者への販売は行われているのである。
◇正規ルートで金銭を代償にして購入した商品の販売が認められないならば、小売業者が消費者に販売することもまた禁じられ、したがって製造業者が消費者に直接販売せねばなるまい。
◇また、パッケージ版でも1回の購入によって、あるいは購入すらせずに何度でも再販売することが可能である。
◇たとえば、本物と見紛うほどの複製品を許可なく製造する、他者から窃盗するなどの事態を想定せよ。
◇以上より、パッケージ版とダウンロード版との間の取り扱いに整合性を持たせるために、「正規ルートで購入したダウンロード版であるならば、1回のみの販売が容認されるべきである」ということが帰結する。

URLリンク(erosion.tsuchigumo.com)

584: ◆vWilh8Qklc
09/02/15 20:26:52 JLRhgqV90
(1) 著作権主義者は、無料で配付する目的で行う複製や賃借といった著作権侵害を行う者が、そうした行為の拡大によって企業が財務的に弱体化し、
その結果として虚構作品の供給が(一般的に言えば、量的にも、質的にも)少なくなるという結末を受容しさえしていれば、彼をその論点で責めることはできない。
  (a) 著作権主義者は、著作権侵害によって虚構作品が質的に落ちるということを論証する必要がある。
  (b) 著作権主義者は、虚構作品の質と言う場合において採用されている質の比較方法は絶対確実に正しいということを示す必要がある。

(2) (1)のような著作権侵害がまったくなければ、その分が単純に企業の利益になるという考えは誤っている。購入しないという選択肢もあるのである。
実際に可処分所得は有限であるため、無料賃借ができないならば、買い控えるという選択をすることは日常茶飯事である。

(3) 著作権なるものが近代文明のなかで生まれた概念である可能性を検討する必要がある。
その場合、現在においてもそうした文脈=背景を変化させないままでいることが正しいということを論証しない限り、著作権概念の保持はなし得ない。

(4) 著作権主義者が誤っている点は、著作権概念の擁護に際して、何らかの枠組みを無批判に前提していること、
ならびに「自分たちが正しく、批判対象が誤っているから、自分たちはその批判対象を攻撃しなければならない、あるいは少なくとも攻撃してもよい」と飛躍することである。
たとえ相手が誤っていたとしても、そのことのみから直ちに対象を攻撃する必要性があるとか、攻撃してもよいとかいう判断を導き出せるものではない。

(5) 著作権侵害派が誤っている点は、たとえばアニメの静止画を公開しているウェブサイトやウェブログの作成者に見られる、
「われわれの行為はある虚構作品やその制作会社の活況に一役買うことになるから正しい」という論点すり替えを行うことである。
たとえそれが事実であったとしても、なぜそれを行うことが正しいかという問いに答えたことにはなっていない。

585: ◆vWilh8Qklc
09/02/15 20:28:42 JLRhgqV90
「絶対確実に正しいこと」(特に裁判員制度について)

ある者が正しさを追究する者であるならば、少なくとも彼の理性の段階においては誤ったことを全否定せねばならない。(ただし感覚や感情の露呈を含まない。)
そうでないならば、その者は正しさを追究していないことになる。
彼の自己認識が誤っているか、彼が意図的な嘘つきであるかのいずれかであるということである。
ところで、裁判においては善とか悪とか正義とか、あるできごとが事実であるとか事実でないとかいったことが言われるが、これらはすべて発言者の世界了解を独断的に前提している。
したがって、おのおのの世界了解が誤っていた場合には、彼らの言明がことごとく誤謬であるという可能性も十分にあるのである。(すべてが誤謬でない可能性もあるので、このような表現を用いた。)
そうであるならば、真理の探求においてはまず世界が実際にはどのようであるかといった基礎的なことについて議論がなされねばなるまい。
類推を用いるならば、家を建築するにあたってはまず基礎工事を行うが、これが先ほどのより基礎的なことから決定される必要があるということに該当する。
基礎工事を行わずに上階層をつくるといういわば空中工法が(論理的にはともかくとして)物理的に不可能であるのと同様に、下位の議論なき上位の議論は空虚を産出するのみである。
問題は、何が正しいか議論しているとの自己認識を持っている者の多くが、こうしたことに気づかず、あるいはこの私がわざわざ忠告してやっても聞く耳を持たず、勘違いし続けたままの状態であるということである。
おそらく裁判に出席する裁判員のほとんどはこうしたバカで構成されていると思われるが、私は先述した立場を固守し、空疎な議論しか行わぬ者を断固として撥ねつけるつもりである。
すなわち、判断留保の姿勢(有罪か無罪かを決定しない姿勢)を貫くということである。(たとえば、罪なるものがいったいいかなること、あるいはいかなるものであるか不明なため。)

586:友達の友達の名無しさん
09/02/15 21:11:33 T2M8H39d0
燕最近見てないね
PC禁止って何歳なんだろう


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