08/06/15 15:32:08
>>743 「ちょん」は日本語「点」であり朝鮮とは関係ない、
そこは訂正を。 歴史と起源の軽視は悪影響が大きい。
バカには二系統の語源がある(馬鹿は単なる間違い)が、
仏教用語由来の「バカ」が本来は「大きい」の『マハー』
だから「点」の「ちょん」とは鮮やかな対照を成している。
これは罵倒語に使われる「馬家者《ばかもの》」とは違う。
仏教哲学の誇る「空」の概念として抽象・一般化された
「大小」を一つの「枠組」として普通の庶民が認識していた
実例であり、特定の形容詞は何であってもその前提の
枠組として表れている空そのものではない事を示す経、
いわゆる般若心経が体得されていた証だ(いいすぎ※)。
※「バカ」と「チョン」だけでは“単なる対照”なので、
さらに上位の抽象として同様に空に属してはいるが
別の形容詞類(例えば、感覚世界ではなく、漢字の
本来の意味での/仏教用語の「色」)=イデアが
同様に「単語単体とは対応し得ないもの」として登場
していなければならない、つまり反証が可能である。
反証可能性は論理合理性を基とし実現している事を
前提条件として要求する為、辻褄が合う証拠になる。
この例も否定できるが、それは正当でありうる記述
だからで、そこが正しい可能性がない記述との違い。
→証拠能力は落ちるが、文脈的使い分けでも良い。
『バカでもチョンでも使える(優れた)カメラだぜ?』
とあれば、イデア=形容詞類タイプ分けとしての
使い分けは出来ているから、上位の抽象的な枠組に
対して正当な下位分岐を選択できる=それらの比較
および使い分けができているから合格「かも知れない」
→その場合間違った使い方をしない、たまたまでなく
他者が空の下位分岐の選択を間違っている時に指摘
できなければならないが、これも「反証可能」である。