07/07/22 02:26:48
コピペだが、歴史は繰り返すな。。。
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当時の繊維産業(工場一般というよりも最も過酷だといわれた繊維工場での出来事を主に見てみるが)では、非常に困った
事態が発生していた。働き手がいないのである。集められなくなってきたのである。なぜか?
当然といえば当然である。工場労働が苛酷を極めるようになったのは 明治三十年近辺からであるが、地方の農村で集め
てきた女工の悲惨な生活が 伝わりだしたからだ。都会に働きに行って、なかなか帰らないと思っていた娘が、やっと戻っ
てきたと思ったら結核等の病気になってしまっていたり、あるいは激しい労働の結果、廃人同様の姿でもどされたり。まと
もに戻ってきたと思ったら、家事も何も出来ない状態だったり。
戻ってくるのはまだ良いほうで、連絡が取れない、帰ってこないという事で探してみたら苦界に身を落としてしまってい
たり。このような話があちこちで噂されるような状態で はたして労働力を集められるのであろうか。
こういった事情が、かれら経営者に『工場法』を認めさせたのだ。決して、人道的な観点から賛成したわけではないので
ある。増え続ける需要に対応する為に なんとか多くの労働力を確保せねばならなくなった結果が、『工場法の制定』とな
ったのだ。舞台裏をよく考察しなければ、真実が見えてこない良い例であろう。彼ら工場経営者や 一部の議員は、決して
「国民の為」などとは 考えない。彼らは、あくまで自分達の利益を最優先させる。この点について 林 竹二氏著『田中
正造の生涯』から以下の一文を引用して 今回は終わりにしたい