【輪島】昭和期の相撲界の裏側を語るスレ【北尾】at WRES
【輪島】昭和期の相撲界の裏側を語るスレ【北尾】 - 暇つぶし2ch36:お前名無しだろ (ワッチョイ e13f-BfT8)
20/01/01 11:40:37 fJf6fRrU0.net
>>29
北天佑が横綱になれなかったのは「相撲界の七不思議」とも言われている。

師匠だった三保ヶ関(初代・増位山大志郎)のコメント

「敏満(北の湖)と勝彦(北天佑)を東西の横綱に並べるのが儂の夢」
「勝彦の素質は敏満以上。勝彦を横綱にしなかったら儂が笑われる。」

北天佑が昭和55年11月に新入幕して、当時、日の出の勢いだった千代の富士と互角以上に勝負していた頃の
北の富士(九重部屋師匠)のコメント

「自力はすでに千代の富士と互角。ウチの幕下以下全員と北天佑をトレードしたい。大変なライバルが出てきてしまった。」

北天佑が綱になれなかった理由として

一つは怪我、病気。
昭和61年7月~63年9月の2年間、怪我と病気で思うように体が動かなかった時期があって力が出せなかった。
北天佑は当時、25歳~28歳で、本来力士として一番力が出る時期を潰してしまった。
糖尿病、膝の怪我、持病の腰痛と悪いとこだらけ。体もゲッソリ痩せてね。
63年11月から平成元年にかけてようやく復活してきたんだけど、今度は体力が落ちてきて平成2年9月に30歳になるとすぐ引退してしまった。

二つ目は技術面。
北天佑は怪力で投げに頼ることが多かった(右四つ、左四つ、上手、下手どちらでも強かった)。これは北天佑らしくて豪快で良かったんだが、
雑な面も目立ったことは確か。苦し紛れに土俵際でするのも多かったからね。
『もう少し技術面を磨いて自分の型を確立し、それに絞って相撲を取れたら北天佑の綱は確実だった』と言う北天佑と対戦経験のある親方も多い。

三つ目は精神面。
クヨクヨと引きずる性格で、優勝争いをしていても一つ負けると糸が切れたように4連敗、5連敗とすることがしばしばあった。
もっと勝ち気な性格だったらまた違っていたはず。

もし横綱になるのだったら、最後の優勝をした昭和60年までになっていたはず。61年になると、北尾、保志(北勝海)、大乃国、
旭富士(北天佑と同年だが大相撲入りは後輩)と次世代が台頭してきてこの波に飲み込まれてしまった。
千代の富士との関係は、北天佑の弟の件から「因縁の対決」なんて言われていたけど、本人同士は意外とサバサバしていたよ。
北天佑の綱の廻し姿、似合っただろうな。見てみたかったよ。


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