15/07/11 01:11:22.13 .net
>>318続き
・宮内庁が「三笠宮家との合併案」を持ってきたので、彬子女王も
それでよいと思ったという。30歳で宮家の当主になる度量はないし、
責任があまりにも重いと感じたからdえある。
・「私は一度も自分から『当主になりたい』と申し出たことはありません。
それよりも、三笠宮家という大きな傘の仲で、祖父母のお力を
頂いてやっていきたいと思うようになっておりました」(彬子女王)
・ところが、三笠宮両殿下がこの案に難色を示した。
三笠宮家の関係をばらばらにした信子妃が三笠宮家に入る事は
両殿下にとって耐えられることではなかったのだろう。
そこで「合併案」はいったん白紙に。
・そのまま1年が過ぎ、突然宮内庁から「三笠宮家と寛仁親王家は
1年前に遡って合併することになった。ついては、寛仁親王邸を
三笠宮東邸と呼ぶ事にします」と通達が届けられたのだという。
それ以上の詳細については彬子女王もわからない。
だが、この経緯を辿ると実際に当主の座を虎視眈々と狙っている
人物が誰なのかは、用意に推察できるだろう。
・「祖母はよく、『三笠宮家は本当に仲のよい家族だったのよ』と
おっしゃいます。
母が公務に出始めた時、妹は御本邸の両殿下も高円宮家も
近衛やす子伯母も千の容子叔母も、自分の今までの思いと
同じ思いを抱いておられたことに初めて気づいて、ボソッと
『親戚って良いね』と言ったんです。
時間は掛かりましたが、そう言えるようになって良かったと思って
います」と、父宮にそっくりの優しい笑顔を見せてくれた。
(工藤美代子の駄文感想省略) おわり