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勤労課長 杉本嘉助 一九四五・五・一 ~ 一一・三〇 (以下略)
これらの会社関係者(川上良より左は「移入送還時附添人」)に加えて「県警察部、山下計男(松崎署)・中村保作(沼津署)・藤井啓一(沼津署)」の記載があり、
最後にガリ版印刷の後に関係者が書き加えた人物として、「華北労工協会・嘱託・山本実 一九四五・二・一~一二・三」がある。
山本は送還の渉外事務を担当したと思われるが、かれの名は、中国人を強制連行して働かせていた熊谷組田子浦飛行場建設現場の記録にみられる。
かれは中国人労働者によって殺害計画の対象とされていた人物である。山本は富士から宇久須へと現場を移勤し、中国人労働者を監視していたものとみられる。
中国人労働者は一九四五年一二月一日に出国した。
しかし 敗戦が状況を大きく変える 戦争が終わった時 田中清玄は伊豆にあった鴻池財閥(注 住友の誤りではないか?)が経営する
宇久須鉱山で地下工場を建設していたが その仕事が思わぬ副収入を彼にもたらすのだ
神中組は46年7月に三幸建設と商号変更するが その三ヶ月後に田中に誘われて三幸建設の社員になった 池田俊彦は
後になって其当時の先輩社員から聞いた話として 三幸建設の社内報に次のように書いた
鴻池の経営にかかる伊豆の宇久須鉱山の地下工場の建設も行ったが 工事の初期において終戦となり工事は中止された
(注 住友石炭鉱業の社史によると完成予定は20年12月)。しかしながら この工事は段取り費(?)
その他工事にかかったと思われる経費一切の支払いをい受け 莫大な利益をあげたそうである。
終戦によって財閥どもは気が転倒し 請負人の思うがままに支払いをしたためでもある
終戦当時 我が神中組は約五百万円の資金をもっていたということである
当時 五百万円といえば莫大な資金で これをもって田中社長は事業の拡張に乗り出したのである
田中清玄の世界の項 児玉誉士夫のダイヤモンドより <
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要は、終戦後のどさくさで、日本人職員含め、ボロ儲けしていた疑惑があるらしい。
ナチスの隠し金みたいな話です。