24/10/29 17:24:10.78 io7dvIiP9.net
「鼻をつまんで投票する回数」の限界を超えた 有権者人生で初めて国政選挙を「棄権」 北原みのり | AERA dot.
URLリンク(dot.asahi.com)
2024/10/29/ 16:00 北原みのり
作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は総選挙について。
「安倍政権」の残滓を徹底的に消す。
有権者のそんな意思を感じる、衆議院議員選挙の結果になった。
「政治とカネ」が焦点とされた選挙で、「ルールを守る」と当たり前のことを言うしかなかった石破さんの自民党に対し、「政権交代こそが最大の政治改革」と声をあげた野田さんの立憲民主党が大幅に議席を増やしたことで、政治はどうしたって動かざるを得なくなるだろう。
これでようやく、「フツーの国」になるのかもしれない。議論が深まらないまま大切なことが一方的に決められていく異常事態から。堂々と嘘をついても守られる国会議員を眺めているしかないという異常事態から。
それにしても投票率は低かった。戦後3番目に低く、小選挙区で53.85%だ。前回の衆議院議員選挙よりも低く、20代前半にいたっては3割しか投票していない。とはいえ、そもそも20代の投票率の低さは1993年からずっと3割~4割である。90年代の若者も中年になった2020年代には投票していることを考えれば、「この国の若者」の政治離れは今に始まったことではない。問題は若者だけでなく、全世代を通して投票への意欲が薄れてしまっているということなのかもしれない。「政治への無関心」というよりも、「投票への意欲減」というような。
……と、ここまで評論家のように今回の選挙結果についてペラペラと書いているが、そして怒られるかもしれない、呆れられるかもしれないとドキドキしながら正直に書くが、私は今回、選挙に行かなかった。国政選挙に行かなかったのは、34年の有権者人生で初めてである。
投票したくても権利のない人のことを考えてみろよ? あ? 一票の大切さがわからないのか? あ? などと心の中で暴れる私を責める私もいた。せめて投票所までは行けないの? っていうか行けよ! と分裂気味に自分の心の中で叫ぶ人もいた。でも、本当に入れたい人も入れたい政党もなかったのである。棄権しかなかったのだ。
「棄権」。改めて凄い言葉である。権利を捨てることでしか、自分の意思を表現できない。
頭のいい人たち、心のある人たちは、「ベターな選択をすればいい」「鼻をつまんで入れればいい」と言う。選挙とはそういうものなのだよ、と。私もそうだと思っていた。そうやってずっと、立憲民主党や共産党に投票してきた。よく知らない候補者であっても、政党で選んで投票するようにしていた。でも急に、ムリムリムリ!と、そういう投票姿勢にアレルギー反応が出てしまったのだった。
2年くらい前から急に牛乳が飲めなくなった。利き酒大会ではなく利きミルク大会があれば出場するのに……と思うほどに、牛乳が好きだったのに。朝1杯、昼間にカフェオレ2杯、夜に1杯、そんな日々を数十年続けたある日、牛乳を飲んだとたんに吐いた。まさか牛乳が原因と思わずにカフェオレを飲んだとたんに吐いた。今は見るだけで吐き気を催すようになってしまった。生涯の牛乳値を超えたのかもしれない。それと同じなのだ。私の場合、生涯で決められている「鼻をつまんで投票する回数」の限界を超えたのだ。
こと、「女としてこの国に生まれた」側からとしては、どこにも私の声などない、という思いが深まってしまったのかもしれない。今回は、女性の当選者が過去最多の73人ということだが、それだってまだまだ少なく、あまりにも遅すぎる歩みだ。女性議員が少ない背景には、自民党だけの原因ではなく、野党も女性議員を積極的に育てず、さらに時代の空気を読むように「若くてキレイでフレッシュな女性候補者」を、オジサン臭を消すための消臭剤のように消費してきたことも原因にあるだろう。
また、「保守」とか「リベラル」という思想も、今や意味をなさない言葉のようにもなってきた。「リベラル」であることは、時に女性の権利運動と真正面からぶつかることもある。たとえば性犯罪の重罰化の音頭を最初に取ったのは14年に法務大臣になった自民党の松島みどりさんだったが、リベラルな民主党政権ではできなかった。また、「表現の自由」を死守するリベラルと、「女性の安全」を訴える女性運動が、性表現を巡ってぶつかるのはよくあることである。時に保守の人とは、女性の安全という面では、根っこの思想は全く違うのに、結果が同じになることは、古今東西フェミニズム運動のアルアルである。
次のページ 政治家を選ぶとは
URLリンク(dot.asahi.com)
(略)
※全文はソースで。