杉田水脈氏に人権侵犯されても「黙ってるわけにいかない」 多原良子さんが語るアイヌ女性への「複合差別」 [少考さん★]at SEIJINEWSPLUS
杉田水脈氏に人権侵犯されても「黙ってるわけにいかない」 多原良子さんが語るアイヌ女性への「複合差別」 [少考さん★] - 暇つぶし2ch1:少考さん ★
24/03/21 21:29:45.86 UrL7Tj5S9.net
東京新聞
URLリンク(www.tokyo-np.co.jp)
2024年3月21日 12時00分
 先住民族であるアイヌ民族に対するヘイトスピーチがやまない。憎悪をあおるような国会議員すらいる。アイヌ民族の中でも女性たちは、民族差別に女性差別が加わる「複合差別」にさらされているとして、20年以上前から国連で訴えてきた。中心になったのがアイヌ民族の多原良子さん=札幌市=だ。今なお続くヘイトにどう対峙(たいじ)すべきなのか。多原さんと先住民族ゆかりの地を巡りながら考えた。(木原育子)
◆北海道大学の敷地内にアイヌゆかりの場所
 国際女性デーの8日、札幌市の北海道大学キャンパスを歩いた。正門から雪道で30分以上。北の外れにある「遺跡保存庭園」にたどり着いた。「雪に覆われているけれど、くぼんだ所があるでしょ。ここが竪穴住居の跡よ」と多原良子さんが説明してくれた。
 北海道人類史に登場する縄文人、続縄文人、擦文(さつもん)人は地面を掘り下げた竪穴住居に暮らしていた。それに続くアイヌ文化期に入り、地面の上に家(チセ)が建てられるようになった。キャンパスからはアイヌ民族の集落(コタン)があった痕跡も出土している。
ただ、庭園の看板には、「古代の村落」「往時の状況をしのぶ事ができる」と説明するだけで、アイヌ民族の暮らしがあったとは書いていない。キャンパスは、北大の原型を創ったクラーク博士の銅像や功績をたたえる碑は多いが「アイヌ民族」の文字はない。
 2023年度の北大入学式で宝金(ほうきん)清博学長が「北海道大学が設置される以前は、アイヌの方々が暮らす集落があり、日々の生活の糧を得ていました」と異例の言及。「この地に学ぶ私たちは、こうした歴史を忘れてはならない」とあいさつし、アイヌ民族らを驚かせた。
 コタンの存在を大学側が認める好転の兆しだが、それ以外には今のところ目立った動きはない。
◆「コスプレおばさん」と揶揄されて
 跡地では、アイヌ民族の有志らがヌササン(祭壇)をしつらえ、シンヌラッパ(先祖供養)をしてきた。この日も降り積もった雪中から、祭具のイナウが顔を出していた。多原さんは「アイヌ民族にとっては祖先が暮らした神聖な場所です」とそう重くつぶやいた。
 アイヌ民族の納骨堂にも向かった。手入れされていないとみられ、納骨堂周辺だけがうずたかく雪に覆われている。多原さんは「訴え続けないと、アイヌ民族の存在自体がなきもの、見えないものにされてしまう」と力を込める。
 多原さんが広く知られるようになったのは昨年3月、自民党の杉田水脈衆院議員が書き込んだアイヌ民族に対するブログを巡り、法務局に人権救済を申し立てたことだ。杉田氏は16年にスイスであった国連女性差別撤廃委員会に参加した多原さんらについて、「アイヌの民族衣装のコスプレおばさん」「同じ空気を吸っているだけでも気分が悪くなる」とつづっていた。
 昨年9月に人権侵犯が認定されたが、中傷は続く。この日も杉田氏はX(旧ツイッター)投稿で、多原さんらを「日本に存在しない差別を話す人たち」と中傷。多原さんがしんぶん赤旗の記事で、アイヌ女性の健康保険加入率の低さを指摘したことに触れ、「『アイヌ女性は健康保険に加入できない』なんていう嘘(うそ)を吹聴する場ではありません」と書き込んだ。
 多原さんが訴えた根拠は、04~05年にアイヌ女性241人を対象に実施されたアンケートだ。健康保険への未加入者は15%に上っていた。多原さんは言う。「民族の歴史を否定する発言に『またか…』と思うが、黙っているわけにはいかない。違うものは違うと言わないと歴史そのものを変えられてしまう」
◆アイヌの「特徴」が気になって
 多原さんは道央圏の南部に位置する勇払(ゆうふつ)郡鵡川町(現むかわ町)の出身。8人きょうだいの三女として生を受けた。
 アイヌ民族が多い地域だったが、先住民族であることを意識し始めたのは高校生の時だ。長距離走が得意で陸上部から勧誘されたが、短パンをはくと肌が露出し、アイヌ民族の身体特徴が強調されるのではと気になり、辞退した。「たったそれだけのことでと思うかもしれないが、とても悩ましかった」
 家庭の都合で高校2年で中退。川崎や横浜に働きに出て、住み込みで働いた。和人(アイヌ民族からみた日本人)の女性と一緒にお風呂に入らなければならなくなった時、身体を見られている視線が刺さった。
道内に戻って20歳で和人の男性と結婚。3人の子を授かった。「本当に普通の主婦。私がそうではなかったので、子どもたちに教育は受けさせたいと必死でした」と振り返る。
 転機は子育てがやや落ち着いた1976年ごろだった。(略)
※全文はソースで。


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