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『1946年の復活メーデーで演説をする徳田球一(写真左)と徳田の遺骨とともに北京から戻った志賀義雄と徳田の妻たつ』
1953年10月14日は、戦前戦後の共産党員であり、戦後最初の日本共産党書記長、徳田球一が亡命先の北京で密かに死んでいた日である。
1928年3月15日に起きた大日本帝国政府による共産主義者弾圧「三・一五事件」の先がけ的に治安維持法違反で逮捕された徳田は、以来、18年もの間、投獄され続けることになる。
終戦後の10月10日にフランス人ジャーナリストのロベール・ギランの協力で解放されると、日本共産党を再建しその書記長に就任。
野坂参三とともに衆議院議員に当選するなどして活躍したが、「徳田要請問題」を機に公職追放、逮捕状請求となったために1950年に中国へ亡命。
現地で北京機関なる組織を結成して、地下放送「自由日本放送」等を駆使し、中国から日本共産党の武装闘争を指揮した。しかし、1952年には意識不明のために入院し、その翌年には脳細胞血管の痙攣で死亡していた。
日本にその死が知らされたのは2年後の1955年。
9月13日に北京で行われた追悼集会に3万人を集めた後に、その遺骨は9月17日に羽田空港へと帰還したのだった。
死して2年もの間その死が隠され続けた徳田。
その最期も、政治闘争に明け暮れた活動家らしい、極めてスリリングな幕引きであったといえるだろう。