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>>447
読売新聞 2005年6月6日 夕刊
その約30年前の1964年から、陸自が研究用にサリンを製造していた事実は、あまり知られていない。
“自衛隊アレルギー”が強かった時代。「自衛隊と毒ガス」の関係は国会で追及された。
列国の軍が開発を競った猛毒の実物を使った毒ガスマスクの国産化などの研究は、世間の批判を恐れ、秘密にされた。
「国会を騒がせる化学職種なんかつぶしてしまえ」。陸上幕僚長の一声で、陸幕化学課は70年代、化学班に格下げされた。
その後、化学室になったが、陸自に14あった職種の中で、化学は約400人の最小職種に据え置かれた。
山里さんが警察庁幹部に頼まれ、水面下で捜査協力したのは松本サリン事件が起きた94年夏。現場で検出した試料のデータを実物と比べ、サリンと断定できたのは化学学校だけだった。
95年1月には警察から山梨県上九一色村の教団施設の空撮写真をこっそり見せられ「これが製造現場」と助言した建物は、後にサリン工場と判明。
施設の一斉捜索では、警察の機動隊が踏み込む前に、陸自の専門家2人が安全確認した。
あれから10年。化学職種は約1000人に増員された。「虫けらみたいな存在だった化学職種が、サリン事件で国民の役に立てた」。山里さんはそう思う。
これどこまで信じて良いのかね