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比叡山は仏教の聖地だったというより、むしろ、世俗化が激しく 「腐敗」していた。
仏様の権威を笠に着て、一つの武装集団でした。
当時の比叡山の様子を見てみましょう。
・四階層(院来、堂衆、学生、公人)のうち、最下層の僧兵と呼ばれる
「公人」たちが腐敗の中心であった。
・普段は有髪のごろつきのような輩だった。常に叡山の権力を笠に着て、
肩を怒らせて山領の年貢の督促などをし、有事の際には有髪を隠すために
白布で頭を巻き、黒衣をまとい、武器を手に暴れ、日吉大社の神輿をか
ついで都大路になだれ込み、要求貫徹するまでデモをやった。
・彼らの多くは、叡山の門前町坂本や下坂本にたむろし、女色を漁り、
魚鳥を喰らい、遊興費に困って料米、灯油、法儀料、布施などをくすね、
不正な賄賂を貪り、あこぎな高利貸などをやり、脅し、果ては暴力を振るっていた。
・叡山の門前町の坂本は多くの寺や社を中心とした町であった。
坂本の日吉山権現は全国に多数の末社、分霊社を持ち、延暦寺と共に
国内の権勢を誇っていた。そのうえ、湖上の船便の集中する坂本浜を外港として、
種々の恩沢を受け、富裕な酒屋、土倉が軒を並べ、七十年前の文亀元年(一五〇一)の大火の傷も癒えて、大津港と繁栄を競っていた。
・天台宗の栄えとともに、北陸、東国から大量の荘園年貢米が入り、
全国の多数の末寺から得度、灌頂、加行のために集まる宗門の人たち、
延暦寺に参詣する団体の人たちで賑わっていた。その人たちのための旅籠、精進料理、接客業者が増え、
酒を般若湯、遊女を蓮葉と呼ぶ歓楽の巷が各所に出現していた。
・公人と称する前記の破戒坊主たちは、山門領からの年貢米収納管理のほか、三千僧徒の食糧、消費物資の調達を掌り、
警備も担当する役得をよいことに、歓楽の巷で、「天下の嘲弄を恥じず、天道の恐れ顧みざ
る淫乱」(『信長公記』)にあこぎな生き様に我を忘れていたのである。