【2018年大河ドラマ】 西郷どん part5at NHKDRAMA
【2018年大河ドラマ】 西郷どん part5 - 暇つぶし2ch319:日曜8時の名無しさん
17/07/06 23:15:10.15 pg/w1mgw.net
>>316
そんなどこの馬の骨かもわからんキチガイアンチの書いた大嘘は通用しないw
奄美大島に潜んだ西郷隆盛
URLリンク(www.sankei.com)
安政の大獄で幕府の「お尋ね者」となった薩摩藩の西郷隆盛は藩命により、安政6(1859)年1月から3年間、奄美大島龍郷に身を潜めた。西郷は前年急逝した藩主、島津斉彬の寵臣であり、流罪人ではなかった。
名を菊池源吾と改め、はじめ6石、のち12石の禄をはんでいる。
また、鹿児島の留守宅の弟、吉次郎には金25両が下賜(かし)された。西郷は嘉永4(1851)年、伊集院すがと結婚した。
だが、安政年間に篤姫の徳川家入輿(じゅよ)や、将軍継嗣(けいし)をめぐる工作で西郷は家を留守にしていた。そのため、すがとは離縁していた。
安政6年11月8日、西郷は大島随一の名家、龍一族の娘、於戸間金(おとまがね)(愛加那(あいかな))と結婚した。仲人が立ち、三献(さんごん)といわれる正式な結婚の披露宴が開かれた。
西郷は前年の11月、冬の錦江湾に、清水寺の成就院月照和尚を抱き、入水自殺を図った。
自分だけ蘇生(そせい)したことから、自らを「土中の死骨」と称しており、二度と本土へ帰る気持ちはなかったと思う。
そんな西郷に、愛加那との出会いは生きる力を与えたようだ。本土風にいえば「愛子」となる愛加那の名は、西郷が付けたのではなかろうか。
また、菊池の変名は西郷家のルーツが、室町時代の南朝の忠臣、菊池武光に発するという誇りがあったからであろう。
由緒書によれば、武光7世の孫、武盛が薩摩に移り住み、西郷姓となり、元禄年間に島津家に仕えるようになったとされる。
さらに9代経て隆盛の父、吉兵衛隆盛となった。西郷家は藩では最下級の小姓組とはいえ、忠臣の子孫という誇りがあった。
 西郷が、鎌倉幕府を倒し建武中興の功労者となった楠木正成を、私学校の守り神にあがめたのも、この由緒と関係があった。
 さらに長男に菊次郎、長女に菊草(14歳で鹿児島にひきとられてからは菊子)と名付けた西郷の気持ちを忖度(そんたく)してみよう。
菊花紋は天皇家の象徴である。
尊王家の西郷は、太郎をはばかって次郎にしたのではなかろうか。さらに長女は、菊が繁茂するようにという思いから名付けたのであろう。
西郷は文久2(1862)年、鹿児島に戻ることになった。
ところが、卒兵(兵を率いて)上京する島津久光を下関で待て、という君命に背いたことから、西郷は徳之島に流罪となった。
愛加那は乳飲子の菊草と1歳の菊次郎を連れて7カ月ぶりに徳之島で再会した。逢瀬はわずか1日だった。西郷はさらに沖永良部に遠島となり座敷牢に幽閉された。
西郷はこの2年後、赦免されて鹿児島に帰る途中、龍郷に寄った。これが愛加那と今生の別れとなった。藩の掟(おきて)で、島妻を連れて来ることは許されなかったのだ。
西郷は沖永良部島でお世話になった土持政照宛の手紙で「愚妻のよろこび情誼(じょうぎ)において御憐察下さるべく候」と書いている。西郷にとって愛加那はかけがえのない妻であった。
西郷は慶応元(1865)年1月、親戚(しんせき)の勧めで、糸と再婚することになった。糸は菊次郎と菊子をひきとった。
愛加那は龍郷に独り、浜昼顔のように、西郷が設計した家に住み、西郷が残した田畑を耕しながら明治35年、死去する。享年66だった。西郷が西南戦争で自決してから25年がたっていた。
西郷にとって、奄美大島での家族水入らずの3年間は最も幸せな時期だったであろう。そう玄孫の西郷隆文氏(薩摩焼陶芸家)は語っている。
史伝「西郷隆盛」を書くため、龍郷を訪ねた海音寺潮五郎は歌を残している。
龍潜の名に負う郷(さと)に英雄はしばしの命ひそめたりけり


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