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2 西郷の奄美に対する感覚
西郷隆盛が菊池源吾と変名して、大島竜郷村に上陸して約ーカ月ほど経った
安政6年(1859)2月13日付で、税所喜左衛門と大久保利通に送った手紙に
次のように記されている。
『ドコヲ見テモ厳シイ政治ガ行ハレテオリ、大島の有様ハ見ルニ忍ビザル状態ニテ候。
北海道ノ蝦夷人二対スル松前藩ノ政治ヨリモ苛酷ニテ「苦中ノ苦」ト申スべク、実ニ
驚キ入リタル次第二テ-云々。』
と、島の悲惨さにおどろいているが、同じ手紙のなかで、
『辺鄙ノ処ニテ大幸安楽二過シ候。マコトニ毛頭(けとう)人ニハ困リ入リ申シ候。
矢張リはぶ性ニテ、食イ取ロウトノ念パカリニテ、コマカイ所二気ヲツケル素振リナガラ、
何力貪(むさぼ)リ取ロウトシテイルガ、コレハ唐辛子(とうからし)ヨリハ辛カラズ候間、
痛ミ入ル次第二御座候』
と、島の入たちを「毛頭人」「はぷ性」と酷評し、島の人の鹿児島人に対する細かい心遣いを
「何力貪リ取ロウ」との下心からだと解釈している。
更に島の娘たちについては、『島ノヨメ女タチノ美シキコト京・大阪ノ娘共モ及プマジク、
垢ノ化粧一寸バカリ、手ノ甲ヨリ先ハグミ(入墨)ヲツキ、アラヨー』と冷笑している。
この「アラヨー」についてある本では、『初めて見る手の甲にほどこしたグミを見て
「あらよう」と感動している』と書いているが、これは黒を白と強弁しようとする西郷
崇拝者的解釈で、文の流れからおして「アラヨー」は「冷笑句」であることははっき
りしている。
このように島の娘たちを侮蔑している西郷に愛加那は嫁いだのである。
いや、「嫁いだ」のではなく、「嫁がされた」のである(このことについては後記する)。
なお、ここで一言つけ加えておくが、「貪リトロウトシテイル」とか「毛頭人」とか
「はぷ性」などと酷評したのは最初のうちだけで、島の人情にふれてから西郷の島の人
に対する心情はすっかり変り、真に島の味方になったなどと言う西郷崇拝者が居るが、
それも例の黒を白とする強弁で西郷は最後まで島を蔑視していたのである。
それは大島から召喚されて後、藩主久光の激怒にふれ再び徳之島へ配流になってから、
旧知の大島代官所附役木場伝内へ出した手紙の文面がはっきり証明している。
その手紙で西郷は、『(徳之島は)大島ヨリハえびす(夷)ノ風ガ盛ンデアル。
コノ度ハ私モ遠島人同様二、掟(おきて)ナドへモ「様」ツケニシラカシコマツテイル。
然シナガラ島役人達モ大島ノヨウニ威張ラズ、遠島人二対シテモ余リ卑劣ニハ取扱ワナイ
ヨウデアル。トントえびすノ風習ニハ取リ馴レテイルノデ馴レズ遠ザケズ、
終始初メテノ振リ合イデ突キ合ツテイルノデ、サスガニ取リニクイ様子デアル』と言っている。
えびす(夷)とは「毛頭人」同様、外国人を侮って言う言葉である。西郷にとって
奄美は「侮るべき異国」だったのである。その侮る異国で自分は遠島人なみに
掟(区長)に「様」つけにしているほどかしこまっている。それは、あまり親しくすると
すぐ「貪リトロウ」とする夷の風習には馴れているからである。
だから「馴レズ遠ザケズ」適度な距離を置いてつき合っているから、さすがの夷共も
自分から貪り取ることはできない様子であると。
この文面を見ても、なお「西郷は島の人情にふれて、最初の誤解をすっかり捨て、
真に島の味方になった」と強弁することができるだろうか。