16/06/25 00:48:12.54 L0m+XC2/.net
ところが、>>1が全面的に依拠する「仙台戊辰史」の解説によれば、
・そもそも4月25日の達し自体が詐略、許す気など毛頭ない。
・4月29日に会津藩使節と談判が行われ、翌月1日に若松に帰り、その結果正式な降服使節が
嘆願書を携え、米沢藩執政の嚮導で訪問するという連絡が仙台にもたらされ、仙台藩が総督府にその旨の届出をしたのに、
総督府参謀からは次のような指示が届いた。
「今般、会津藩人が仙台表に来たいと申し出ているそうだが、
右は朝敵天下に入るべからざるの罪人ども、仙台藩においては征討の勅命を蒙っているのだから、
決して国内に引き受けてはならない」
「仙台戊辰史」は
「この達しが届きたるは、関宿の会見を終わりたる後なりしかど、これによりて略略参謀らの意見のある所を察したれば、
会津嘆願の趣旨を貫徹するは容易の業ならざるを知りたり」
と記している。要するに、4月25日に寛典の余地を示しながら、
実際に降伏使節が来ると言う情報がもたらされると「引き入れてはならない」と厳命したので、
参謀たちが何を考えてるか分かりましたと言う記述だな。
どう見てもお前の負けだな。