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さらに選手は入国直前から試合までに3回のPCR検査を受ける義務を課せられた。関係者は会場と、隣接するホテル、練習リンクの「バブル」内に閉じ込められ、その中に入れる人数も徹底的に制限。選手に帯同できるのは、スケート連盟のスタッフを除くとコーチ1人のみだった。
「大きな大会ではトレーナーをはじめ、食が細い羽生のために調理を担当する味の素のスタッフら『チーム羽生』が現地でサポートしますが、今回は制限のために同行できませんでした」(フィギュア担当記者)
前人未到の4回転半への挑戦は継続
そして何よりも大きかったのが、羽生が「コーチのような存在」と話し、常にそばで支え続けていた人物の初めての不在だった。
「それは母の由美さんです。羽生は海外でもパンではダメで、ご飯にこだわる。そうした生活面や精神面を細やかにサポートしていました。身近なスタッフも『お母さんがいなくて大丈夫かな』と心配していたほどです」(スケート連盟関係者)
羽生が4歳からフィギュアを始めたのは、姉の影響と、喘息持ちだった息子の身体を強くしたい、という母の思いがあったという。憧れだったロシアのエフゲニー・プルシェンコ選手を真似たおかっぱ頭も、由美さんがカットしていた。
「10代の時に、試合や合宿で同世代の選手と一緒になっても、『目の届くところにいないとダメ』と遊びに行くのを許さなかった。そんな母を疎ましく思う時期もあったそうです」(同前)
17歳で練習の拠点を地元・仙台からカナダのトロントに移した羽生。母子2人暮らしでマンションとリンクを往復する毎日を過ごし、2大会連続の五輪金メダリストに上り詰めた。
だが、今季はコロナ禍でカナダに渡れず、仙台に残って練習を積むことに。
「深夜のリンクを貸し切りにして、1人で練習をしていました。コーチの指導も受けられない中、いつも以上にそばで見守るお母さんの存在が大きかったはず。今大会ではフリーの演技のあとに、喘息の症状が出ていたことを羽生自身が明らかにしていましたが、同行していたら、体調の変化にも気づいていたかもしれません」(前出・連盟関係者)
来年の北京五輪は完全な「チーム羽生」で臨み、リベンジを果たしてほしい。