26/07/07 12:40:26.06 /JUHfs9A.net
「外国では……」と他国の例を持ち出して自説を正当化する人を、「出羽守(でわのかみ)」と呼ぶ。今日のグローバリズムと情報化の時代に彼らはメディアで幅を利かせているが、海外通がここまで「権威」を持つことができるのは、日本特有の背景があるという。
京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は新刊『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)で、「知識」が「力」に転換する、古くて新しい支配の構造を明らかにする。
以下、同書から一部を再編集して紹介する。
支配層あるいは世論の指導層に特徴的な「対外的な従属と卑屈」および「対内的な権威の誇示」、その二重性こそが日本社会の支配構造の基本形であった。ただ、改めて注意しておくべきなのは、このような支配を可能としたものは、外国発の「文明」が一定程度、象徴的な言葉の魔術を発揮できた、ということである。
村人にとっては、都会の語はそれなりの魔力をもっていた。現実の「文明化」が生じるためには、まず「文明」の語が一種の神秘的魔術を発揮しなければならないのだ。
海の水平線の彼方
その点では、日本が隣国と陸続きの大陸国家ではなく、東アジアの海上にこぢんまりと浮かぶ東海の島国であったという地理的条件は決定的であろう。日本では山や里を下ればどこへ行っても海に出くわす。そして、人々は、海の水平線の彼方に神秘的な「何か」がある、と漠然と考えた。
波浪高き海の彼方は、先祖の昔から今にいたるまで、神秘的な「何か」の源泉であり、想像力の宝庫となった。人々は、海の水平線の彼方に、何かがあるという共通の神秘性を見た。時には、それは沖縄のニライカナイのような神秘的な異世界であったりもするが、またその海の彼方に人は、見果てぬ「文明」を見たりもしたわけである。
■畏怖と多分の羨望
むろんそれは日本だけのことではない。15世紀に海の彼方に東洋という黄金に満ちた神秘の世界があると考えたスペイン人やポルトガル人は命がけで船団を繰り出し、地球を一周したのである。マルコ・ポーロの『東方見聞録』に刺激されたコロンブスなど、神秘と黄金の国日本に魅せられて、4回も渡航を試みたほどである。
しかし、日本人が彼らと決定的に違うのは、神秘的な「何か」を求めて日本人みずから波頭の先へと無鉄砲に飛び出すのではなく、基本的には東洋の小島に身を落ちつけて、水平線の彼方に対し、いくぶんかの畏怖と多分の羨望をもって未知の世界を想像していた点にある。
これに対し、西洋は聖書を脇に鉄砲をぶら下げて未知へと飛び出した。カトリックの普遍主義と人々の冒険心が手を結び合った。未知の世界を征服しようとする西洋と、未知の世界を憧憬する日本の違いは大きい。
だから日本ではその神秘的な「何か」を見聞してきたと称する者をまつり上げる。かくて、外国の「文明」は実にたやすくその魔力を発揮しえたのだ。
■「虚構の権威」
この時、未知の文明のもつ「何か」は人々にとって神秘的な「力」を発揮する。そこで、多少なりとも、その「力」の正体を知っていると称する者が現れると、その人はたちまち「虚構の権威」に変貌し、庶民大衆はその権威に追従する。
この「権威」は、一種の神秘性を帯びているが、人々にとっては内実は何もない。いわば「空無」である。真に関心があるのは、故郷の野山であり、畑の生業であり、日々の衣食住であり、神への祈りであるとしても、この共同体をまとめるには、外にある「力」を知る人の権威があった方が便利であろう。
宮本常一の報告する「文字を知っているエリート」である。村人は誰も文字を知らないとき、「文字を知るエリート」が「虚構の権威」となる。こうして、共同体の秩序が安定するためには、むしろ、庶民大衆の側が「虚構の権威」を必要とするのである。
この場合、水平線の海の彼方から本物の「異邦人」がやってきて共同体の支配者となると共同体は破壊される。それはもはや「虚構の権威」ではない。「虚構の権威」は「現実の権力」になってはならない。「権威」はあくまで暗示された虚でなければならず、本当の質量がむき出しになってはならないのだ。
つづき
URLリンク(www.dailyshincho.jp)