26/05/23 17:57:25.35 nwvJwtBO.net
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さまざまなバリエーションのある上間菓子店の「スッパイマン」。他社とのコラボ商品も多い=梅田麻衣子撮影
黄色と赤のパッケージの「スッパイマン 甘梅一番」は、上間菓子店(沖縄県豊見城<とみぐすく>市)が製造・販売している乾燥梅。甘酸っぱい味と梅の絵が描かれたパッケージが人気で、今年で発売45周年を迎える。
スーパーやコンビニでもよく見かけるけれど、地理的に不利な沖縄のお菓子が、あちこちで売られているなんてすごい!
実は「スッパイマン」が全国的に知られたきっかけは、ある人気者の「鶴の一声」だった。
1966年創業 沖縄返還が転機に
梅といえばやはり紀州だ。和歌山支局で勤務していた私には、沖縄と梅のイメージが結びつかないんですけど……。「『本社は和歌山じゃないの』とか『東京でしょ』とか、よく言われるんです」と広報担当の大城優希さんは朗らかに笑う。
上間菓子店の創業者は、現在相談役の上間信治さん。1966年から小さなお菓子問屋を営んでいた。転機になったのは、72年5月15日の沖縄返還だった。
「本土からさまざまな商品や文化が入ってくると、問屋だけでは経営が立ちゆかなくなる」と危機感を抱いた信治さんは、独自商品の開発に乗り出した。
目をつけたのが、沖縄で親しまれていた乾燥梅だった。1年の平均気温が23度を超える沖縄では、熱中症対策として、昔から乾燥梅は人気があった。「イッセンマチャー」と呼ばれる駄菓子屋さんでも定番で、「昔は、1粒ずつ売っていたと聞いています」と大城さんが教えてくれた。
当時、沖縄で食べられていたのは、台湾や中国で製造された乾燥梅だった。ところが、味付けに使われていた人工甘味料に発がん性物質が含まれていると分かり、輸入が禁止されてしまった。
信治さんは、安全・安心な乾燥梅を作ろうと決意。台湾に渡って製法を学んだ。問屋業も続けながら試行錯誤を重ね、81年に発売にこぎつけた。商品名は「甘梅一番」だったが、「スーパーマンのように世界に羽ばたく商品に」という願いを込めて、パッケージに「スッパイマン」と記した。
本土で苦戦 流れを変えたのは…
しかし、本土ではなかなか受け入れられなかった。各地の展示会に出展しても、売り上げがまったく振るわない。交通費もかさみ、赤字になってしまう。「沖縄は海外」「沖縄から売るモノなんてあるの?」といった厳しい言葉をかけられ、相手にされなかった。
流れを一変させたのが、何と俳優の木村拓哉さんだった。2000年に生放送の音楽番組で「スッパイマン」を紹介してくれたのだ。
「夏の思い出を聞かれて『沖縄で食べたスッパイマン』と言ってくださって。その日から注文が殺到したそうです」と大城さん。テレビや週刊誌などでも取り上げられるようになり、一気に知名度が上がった。
イベントに出展すると、3日間で3000万円を売り上げた。商品名にも「スッパイマン」を加えた。地元の高校生のデザインを採用し、アメリカンコミックス(アメコミ)のヒーローのようなキャラクターも誕生した。
失速→ブランド力を生かし回復
とはいえ、ずっと好調というわけにはいかなかった。10年ほどたつと業績は失速。本社と工場を移転した13年には、全盛期の3分の1ほどの売り上げになってしまう。
このころ、信治さんの次男で現社長の上間幸治さんが家業に復帰した。幸治さんは高校卒業後、大阪のアパレル店で商売を学び、19歳にして月商1000万円を達成した。一旦は家業に合流した後、経営を学ぶために沖縄でアパレル店を起業していた。
幸治さんは、工場移転と同時に開設した直売所や工場見学に訪れるお客さんと直接向き合う機会を持つように努めた。イベント出展時には、商品構成や見せ方を工夫した。これが消費者のニーズの把握や社内の意識改革につながっていく。
さらに「スッパイマン」のブランド力を生かし、県内外の企業や人気キャラクターとのコラボを積極的に展開。そうして、ふりかけやイカ天など、乾燥梅関連にとどまらない幅広い商品が誕生した。メタル
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