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1947年から1949年の間に生まれた人々を指す「団塊の世代」。何かと目立ってきた彼らもついに後期高齢者となり、それまでの高齢者とは異なる「戸惑い」を見せているといいます。
【エッセイスト・酒井順子さんが、昭和史に残る名作から近年のベストセラーまで、あらゆる「老い本」を分析し、日本の高齢化社会や老いの精神史を鮮やかに解き明かしていく注目の新書『老いを読む 老いを書く』(講談社現代新書)。本記事は同書より抜粋・編集したものです。】
年長者のダサさを糾弾していたのに
南伸坊『オレって老人?』(2013年)も、タイトルからわかるように、老人初心者向けのエッセイである。が、この本も、「老人になった」ということについてのみ書いてある、老いの専門書ではない。食べ物のこと、テレビのことなど、日常のあれこれについて書かれたエッセイの中に、老いの話がぽつりぽつりと混ざっているという構造である。だというのにタイトルが「老い」に寄っているのは、やはり「その方が読者にアピールできるから」であろう。
この本を出した時に、著者は66歳だった。法的に前期高齢者であることは、著者も自覚している。しかし本心では、
「私は『まだ若者』のつもりでいるらしいのだ」
という気持ちを、著者は持っているのだった。
「若者! ってアンタ……。てへへ。エヘヘヘヘである」
と自分で突っ込みつつも、若者のつもりでいるのは、著者が一九四七年生まれという団塊の世代だからでもあろう。
「団塊世代の、ほぼ50%は、自分を老人と思っていない」
というのもまた著者の言葉であるが、ずっと若い気持ちのままに世を渡ってきたこの世代の人々は、前期高齢者になっても、その感覚を持ち続けているのだ。
本書の文庫版解説を書いているのは、南伸坊と同世代、つまりは団塊の世代の一人である、中野翠。「戦後民主教育と高度経済成長の中で育ち、大学生となった者は全国的規模で反乱を起こして『全共闘世代』と呼ばれ、ビートルズに熱狂し、男子でも肩まで届くような長髪にして、学生服を脱ぎ捨て、どこへでもジーンズ姿で出没」したという中野や南の世代は、「ひたすら若さを誇示して来た」。
団塊の世代とは、戦後の日本で、「若さの偉さ」のようなものを初めて発見した人達である。年功序列の世だった日本において、年を取っていることのダサさを糾弾し、若者の力を上の世代にアピールすることに、団塊の世代は成功したのだ。
その時の感覚は、大人になっても団塊の人々の中には存在し続けたのだろう。何歳になっても若さを謳歌し続けてきたツケが、
「『もはや抗いがたく忍び寄って来た「老い」という事実にどう対処するか?』という形で回って来た」
と、中野は書く。若者感覚でずっと生きてきたら、気がつけば高齢者と言われる年齢になって「えっ」となる、その戸惑いを初めて素直にエッセイに書いたのが、団塊の世代である。
南は、もう一冊の老いエッセイ『おじいさんになったね』(2015年)においても、
「私はいま、六十七歳であって、歴(れっき)とした前期高齢者であるけれども、『おじいさん』のつもりがまだないのだ」
と書いている。この、高齢者と言われる年齢になっても、気分としては若者であるとか、おじいさんになったつもりはないと堂々と戸惑いを表現できる感覚こそ、団塊の世代ならではのものではないか。
「老い」への戸惑いを表明する正直さ
中野もまた、著書『ほいきた、トシヨリ生活』(文庫版・2022年/親本の『いくつになっても トシヨリ生活の愉しみ』は2019年刊行)の中で、「いい気なもんで、歳を取ったなあという感慨にひたることはめったになく」「なんだかスラスラスラスラと日々が経ってしまったのだった」と書く。はたまた、「私は老いというものをあんまり実感できなかった。ピンと来なかった。悪い冗談としか思えなかった」とも。