なんと「万葉集」にかけ算の”九九”が!奈良時代の人々は算数・数学をどれほど使いこなしていたのか [きつねうどん★]at LIVEPLUS
なんと「万葉集」にかけ算の”九九”が!奈良時代の人々は算数・数学をどれほど使いこなしていたのか [きつねうどん★] - 暇つぶし2ch1:きつねうどん ★
24/10/06 07:50:11.40 vr/ty8jb.net
古代人と時間の観念
『日本書紀』では、日本で初めて時計を作らせたのは中大兄皇子だったと記録されています。斉明天皇の時代、中国や朝鮮の先進知識を学んだ中大兄皇子が、水時計(漏刻)を作らせたとされています。
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飛鳥資料館にある漏刻の復元模型(Wikipediaより)
それ以前、聖徳太子の定めた憲法十七条では、役人は朝早く出勤して夕暮れまで働くようにと、大ざっぱな勤務時間を指示しているに過ぎませんでした。
中大兄皇子が水時計を作らせるまでは宮中にも時計が存在しなかったようです。皇子は、中国をまねて官僚制度を導入するため、水時計ともに正確な時間の概念を導入して、役人を律しようとしたのでしょう。
奈良県の明日香村で発掘された水落遺跡は、その漏刻台ではなかったかとみられています。
実際、八世紀になって律令制度が完成すると、陰陽寮という役所に漏刻博士二名と守辰庁二〇名が配置され、時が計られるようになりました。
そのやり方はというと、一日を一二支に分割してそれを「一辰刻」と呼び、それがさらに四刻に分けられるというものでした。
で、時刻によってそれぞれの回数、太鼓が打たれました。例えば子と午の時には九つ、丑と未の時には八つ、寅と申の時には七つとなります。こうして、宮中などに時刻が伝えられたのです。
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水落遺跡の水時計受水木箱跡
その時期には、少なくとも平城京の人々には時間の観念がかなり浸透していたと思われます。
たとえば、平城京から出土した木簡には、裏面に「巳刻・未時」などと記されていました。それは、文書を受け渡した時刻を記したものと考えられています。
奈良時代の人々の計算能力
それにしても、時間に正確であるためには計算能力も必要となります。では、当時の人々は算数・数字にどのくらい馴染んでいたのでしょうか。
実は奈良時代には、平城京の学校で数学の授業が行われていました。算生と呼ばれた学生たちが、渡来の数学を学んでいたのです。
テキストには、中国や朝鮮半島の古算書がそのまま使われていました。
そのレベルは高く、面積や体積の計算法、平方根、立方根の算出、一次連立方程式の解法など、現代の中学数学レベルにあたります。
一方、普通の庶民もそこそこの計算能力を身につけていました。奈良時代の庶民には「九九」ができる人が多数いたのです。
当時の「九九」は、「九九八十一」からはじまり、「一一の一」で終わるというものでした。現代とは正反対ですね。
もともと、九九は冒頭が「九九」だから、「くく」と呼ぶようになったわけで、「一一の一」でスタートするようになったのは織豊時代の頃からだったようです。
万葉集にも九九が使われている!?
「九九」の浸透ぶりは、かの『万葉集』にも表れています。
例えば『万葉集』では「八十一」と書いて「くく」と読ませたり、「十六」と書いて「しし」と読ませたりする歌も登場します。
また、他にも「三五月」と書いて満月と読ませる歌もあります。なぜ三五月が満月なのか、分かりますか?
その答えは陰暦十五日の月が満月(望月)だったからで、これは「三五=十五」という計算ができるからこその歌だということです。
現代と大差ない、当時の人々の時間の観念や計算能力に驚く人も多いのではないでしょうか。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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