戦国一のドケチ男・徳川家康が没落名家の当主山名豊国を絶賛 [きつねうどん★]at LIVEPLUS
戦国一のドケチ男・徳川家康が没落名家の当主山名豊国を絶賛 [きつねうどん★] - 暇つぶし2ch2:きつねうどん ★
20/09/16 19:31:07.99 CAP_USER.net
100年物の羽織
それを目の当たりにした豊国は、浪人になった。
諸国を放浪したり、他家の食客になったりで、もはや戦国大名にあるべき領土欲はなくなっているようにも見えた。実際、その後の豊国が各時代の権力者に対して大禄を要求した形跡は見受けられない。彼は秀吉の御伽衆(芸能や文芸を嗜む際の補佐役)になったが、それも半強制的な成り行きだったという。秀吉からして見れば、豊国の娘を自分の側室に迎え入れた以上は「お義父さん」をいつまでも浪人にしておくわけにはいかなかったのかもしれない。
だが、豊国自身に備わっていた「戦況を見抜いてより有利な陣営に味方する」という能力は不変だった。
というのも、豊国は関ヶ原の合戦に東軍の武将として参加しているのだ。しかも彼は最前線にいた。だからこそ、山名氏は表向御礼衆として家を残すことができた。
また、豊国は徳川家康にも気に入られていたらしい。ある日、将軍になった家康に謁見した豊国は徳川の家臣から着ている羽織のことを質問された。つぎはぎだらけの古着である。家康公の御前なのにその格好はいささか無礼ではないか、と言われた豊国はこう返答したという。
「この羽織は、かつて当家が室町将軍足利義稙様から賜ったものです」
これを聞いた家康は、豊国の忠義心に感心したそうだ。いや、驚愕したに違いない。
このエピソードは徳川幕府成立の1603(慶長8)年のことだと言われている。室町第10代将軍足利義稙の没年は1523(大永3)年。つまり豊国の羽織は、どう短く見積もっても80年の歴史があるということだ。実際はそれ以上だろう。チリ紙一枚すら惜しむほどのケチとして知られる家康は、その後も駿府城での茶会に豊国を招待している。彼に好感を持っていた、ということだ。
豊国は長生きした。没年は1626(寛永3)年である。享年79。激動の時代を天性の判断力と謙虚さで乗り切った生涯でもあった。
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