20/07/12 19:03:12 CAP_USER.net
江戸時代に行われたキリシタン弾圧の制作の一つ、鎖国。来航や入港を厳格に規制されている中、密入国をして日本に入国した外国人がいました。その人物はラナルド・マクドナルド。「日本初の英語教師」とも言われています。
今回は密入国をしてまで日本に来たかったラナルドのどうしても日本に来たかった理由と密入国後の日本での活動を紹介します。
URLリンク(mag.japaaan.com)
ラナルド・マクドナルド/Wikipediaより
日本に来たかった意外な理由
文政7年(1824)、ラナルドはイギリス人とアメリカンインディアン(チヌーク族)の間から生まれます。幼少期よりチヌーク族の祖先は日本人と伝えられてきたので、ラナルドは日本への憧れを持っていました。
さらにその憧れをより一層強くしたのが、ラナルドの容姿が日本人と変わりないこととアメリカに漂流した日本人3名との出会いでした。
そんな要因もあってか「いつか祖先の地である日本で活躍し、日本の発展に貢献したい。」と考えていたラナルドは、日本に行くために銀行員見習いから捕鯨船プリマス号の船員となります。
弘化2年(1845)ラナルド21歳の時でした。
日本へ密入国!!
嘉元元年(1848)6月プリマス号が日本海で捕鯨をしながら樺太の方まで北上した頃、ラナルドは小船に書物や食料、衣服を積み込み、船長や他の船員に見送られながら日本を目指しました。
そして、6月27日に焼尻島(やぎしりとう:北海道南部にある島)にたどり着いたラナルドでしたが、無人島と判断すると利尻島(りしりとう:北海道最南端部に位置する島)へ向かいます。
URLリンク(mag.japaaan.com)
焼尻島にあるラナルド上陸地のモニュメント/Wikipediaより
7月2日に利尻島につくと、漂流者を装うためにわざと船を転覆させて上陸しました。
利尻島ではアイヌ人に厚遇され、その後宗谷(そうや)へ向かいます。同年8月宗谷から松前へ移動すると9月の初めには長崎へ移送されました。
日本初の英語教育となる
嘉永元年(1848)9月16日に長崎へついたラナルドは長崎奉行所で取り調べを受けます。 その時に絵踏を行ったところ、最初は日本の悪魔と思い踏みつけ、2度目には何を踏んでいるのか理解しました。
しかし、ラナルドはプロテスタントだったので、躊躇わずに踏みつけたという逸話が残っています。
取り調べの後、座敷牢に入れられたラナルドが日本語や日本文化に少しながらも精通していることを理解した長崎奉行の井戸覚弘(いど-さとひろ)はオランダ語通詞に英語を学ばせることにしました。
ラナルドは14名の通詞に座敷牢ごしで英語を教えました。英語の教育はオランダ経由で以前から行われていましたが、オランダ訛りの強い英語だったので母語話者による英語教育はラナルドが初めてになります。
嘉永2年(1849)にラナルドは強制的に帰国しましたが、ラナルドの教えと英語はきちんと残り、教え子だった森山栄之助(もりやま-えいのすけ)はペリー来航の際にペリーの通訳を務める活躍をしました。
そして小石川に英語塾を開き、ラナルドが教えてくれたことを次世代に伝えていったのでした。
最後に
危険を冒してまで、祖先の地と信じてやまない日本に来たかったラナルド。密入国であれ日本に滞在し、多くの日本人と交流し、英語を教えた時間はラナルドにとって格別の時ではなかったのではないかと思います。
約1年間という短い時間でしたが、日本初の英語教師といて多くの日本人に影響をあたえたので、永住していたらより多くの功績があったのかもしれませんね。
URLリンク(mag.japaaan.com)