戦国時代の標準語を大調査 江戸城内では三河弁が使われていたの?at LIVEPLUS
戦国時代の標準語を大調査 江戸城内では三河弁が使われていたの? - 暇つぶし2ch1:きつねうどん ★
19/12/02 21:15:01.65 CAP_USER.net
普段の生活で、皆さんはどんな話し言葉を使っているだろうか。東京近郊で暮らしている人ならば、おおむね標準語(共通語)を話しているかもしれない。それ以外の地域では、普段の会話は地元の言葉をまじえたもの、必要に応じて標準語で話すという人も多いだろう。
いまやテレビの普及などで津々浦々まで標準語が浸透し、大半の人とコミュニケーションが取れる。しかし標準語は明治中期頃に生まれた、たかだか100年余りの歴史しかない新しい言語である。では、それまで日本に標準語的な存在はまったくなかったのだろうか。
標準語の元となったのは東京の言葉とされるが、さかのぼれば江戸の言葉になるだろう。江戸幕府を開いたのは徳川家康(とくがわいえやす)だが、彼の家臣には三河(現、愛知県東部)武士が多いことを考えると、江戸城内では三河弁がいわば公用語だったのか。もしそうだとすれば、江戸の言葉のルーツは、三河の言葉ということになるのだろうか。
本稿では、徳川家康の江戸開府とともに流入したと思われる三河弁が、江戸城内の主要言語となり、さらに江戸の言葉に影響を与えたのかというテーマを中心にしつつ、戦国時代から江戸時代にかけての方言事情から、日本人の言葉の変容を探ってみることにしたい。
多摩の近藤勇と江戸下町の勝海舟の言葉遣い
「どうすべえ」と「べらぼうめ」
新選組局長近藤勇が、副長の土方歳三とふたりっきりの場所では、 「トシよ」
と呼んだ、という。斬るか斬らぬかの相談ごとも二人きりのときは、
「あの野郎をどうすべえ」
と、つい、うまれ在所の武州多摩の地言葉が出た。
上は司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』の冒頭の一節である。幕末に活躍した近藤勇は、武蔵国多摩郡上石原村(現、東京都調布市)の出身だが、時に地元の言葉である「どうすべえ」という表現をしたという。もちろん小説なので、史実と断言はできないが、東京都下で生まれ育った私は、地元で時折そうした言い回しに接しており、さもありなんと感じられる。
一方、同じ幕末に活躍した幕府旗本の勝海舟の言葉遣いは、実際に面会した岡本綺堂(おかもときどう)によると、「なんだ、べらぼうめ」という口調であったという。勝は綺堂を「お前」と呼び、その「お前」も話がはずんで来ると「おめえ」になって、「おめえなんぞのような若けえ奴に、江戸のことが判って堪(たま)るものかよ」などと云う(『綺堂随筆 江戸のことば』)
勝は江戸の本所(現、東京都墨田区)の生まれ。幕府旗本といえば「殿様」と呼ばれる身分だが、それが裏店の職人のような、ぞんざいな言葉を使っていた。今でこそ下町の本所も多摩も同じ東京都であるものの、幕末の頃は勝と近藤の言葉遣いが随分違っていたことがわかる。また、どちらも現代の標準語とも異なる。
しかしそれでいて、二人とも公式な場に出ると、「仰(おお)せの通り、左様でござる」といった、いかにも武士らしい共通の言葉遣いに一変したという。なぜだろうか。この点については、追い追い触れることにしたい。
方言は、実は江戸時代に最も発達していた
江戸時代後期の文化8年(1811)に書かれた式亭三馬『狂言田舎操(きょうげんいなかあやつり)』巻之上によると、江戸と呼ばれる地域から20町(ちょう、約2.1km)も離れると、もう言葉が違ってしまい、1里(り、約4km)も離れたら、まるで江戸とは違う言葉になったという。近藤勇の出身地である上石原村は甲州街道沿いで、四谷大木戸から約20km離れていることを思えば、近藤が多摩の地言葉を使うのも当然であったわけだ。
江戸の言葉がごく限られた地域でしか使われていなかったというのは、少々意外な気もするが、その理由は江戸時代、人々が土地に固く結びつけられていたことによる。街道の整備とは裏腹に、庶民の大半は移動が制限され、土地から自由に離れることが許されなかった。このため、どの時代よりも各地に特色のある方言が発達することになったという。一方で明治時代に入り、異なる地方の出身者が出会う機会が増えると、意思疎通に不便をきたし、標準語をつくることになる。ということは、江戸時代に共通語的なものは存在しなかったのだろうか。結論を急ぐ前に、まず江戸時代以前の「話し言葉」について見てみよう。
つづき
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