22/03/31 19:07:57.07 PitWwJyG0.net
淡々と。過去の経歴の矛盾点について。
ぱふ記事には、1968年に「リンゴの罪」で週マデビューしたが、編集の倉持氏によれば
「大学受験するので漫画をやめます」と手紙がきたのでそれきりになったと。
扉本では、大学入学後、「1年間マンガを休業し、学生運動について考えることにした」
「1970年春、休業期間を終える頃、小学館の編集者(山本順也氏)が徳島まで訪ねてきて、
「そろそろ描かないか」と言ってくれ、ついに(マンガで革命を起こそうと)決心」とあります(44-45p)
が、「カレイドスコープ」の全マンガ作品リスト(196P)によれば、
小学館の前にすでに講談社や虫プロ商事、集英社で以下の作品を描いているのですよね
〇1969年
・「ゆびきり」 なかよし1月号増刊 32P
・「ルナの太陽」 なかよし3月号 26P
・「スーパーお嬢さん!」ファニー5月号~10月号 96P
・「カップリングOH!」ファニー11/14号 15p
・「ギターと三味線」ファニー11/28号~12/26号 45p
〇1970年
・「ラブバッグ」 なかよし1月号 56p
・「人形おじさん」 なかよし1月号増刊 32p
・「あなたの好きな花」 ファニー1/9・23合併号~5/8・22合併号 125p
・「白い水車小屋」 小説ジュニア2月号 32p
小学館の週コミ初登場はその後、1970年の「女優入門」(少女コミック4号)31pで
連載「森の子トール」は週コミ3号~7号、120pです。
つまり、山本氏が声かけする前に、竹宮さんはすでに他誌に描いていた。
「休業宣言」は、週マの倉持氏に出した手紙1本のみで、
実は大学進学後、他社に営業をかけたが、結果が出るまで時間がかかったことを「休業期間」と称し、
「山本氏が待っていてくれた」話に改変した可能性も否定できないように思います