09/09/05 20:52:19 0.net
>>202
北政所の場合、後に高台院となって威光は保っていたし
実質天下人になった家康も彼女には一目置いていた。
城を出たのは、秀頼の後見は本来正室である北政所で
秀吉もそのつもりだったけれど、淀殿や石田やらが出張ってきたので、
後見が誰かでガタガタ揉めるのは秀頼の為にも豊臣家の為にも
よくないと自ら身を引いた、という説がある。
淀殿達に追い出されたという説もあるけど、今となっては
真偽は誰にもわからない。
普通は側室が跡取りを産んでも、正室に嫡子がいなければその子を
正室が養育したり「嫡母」という扱いになって敬われる。
前田利家の正室のまつも、長男は家督を継いだけど若くして隠居(妻は
信長の娘だが子がいない)、次男は秀吉の怒りを買って蟄居だか何だかで、
前田家の家督は脇腹の子が継いだけれど、加賀で大切に尊崇されていた。
徳川家に至っては、宗家筋で嫡出の将軍って家康と家光ぐらいだし。
お家にもよるとは思うけどね。上杉の菊姫は子ができないことをずっと
気に病んでいたようだし、それでも米沢藩の家臣からは慕われていたわけで。