信長の野望で過大、過小評価されている武将スレ54at GAMEHIS
信長の野望で過大、過小評価されている武将スレ54 - 暇つぶし2ch921:名無し曰く、
23/01/22 07:17:47.72 zMwjBJdC0.net
晴久の領国拡大後のそれぞれの国での尼子派の顛末はこんな感じ。長文になってスマンの…
晴久への高評価を何としてでも阻止したい訳ちゃうけどちょっと最近のスレ内の晴久アゲ(顔グラ含む)一辺倒の感じも何か違うよなあという気もする
美作
1532年頃より尼子氏による美作侵攻が開始され1549年に美作西部の三浦氏を制圧した事で東部の有力者江見氏も尼子氏に従属する事となる
他国と違い美作国衆に関しては晴久死後~尼子氏滅亡の間に離反した国衆が大半ではあるが出雲街道を通じた商業販路の確保の為に従っていた側面も
播磨西部
1537年12月播磨侵入→1541年1月吉田郡山城攻略失敗により尼子軍は播磨からも撤退…約三年間維持するも撤退後に尼子派であり続ける国衆はおらず
石見東部
1541年大内氏の手に渡っていた石見銀山の再奪取→1561年の死去時まで死守。石見六郡のうち完全な尼子領といえるのは石見国最東の安濃郡のみ
邇摩・邑智の東部二郡に関しては尼子派と大内派の国衆が拮抗して混在している状況。石見国を領有というよりも石見銀山周辺を領有といった感じ
備中
三村・石川・新見・庄氏等名だたる国衆が尼子氏麾下として早くから活動も1541年1月吉田郡山城攻めの失敗により多くの国衆が離反
その中でも三村氏は毛利氏からの支援を受け国内の尼子派残党を圧倒、備中国内最大の勢力に成長し尼子氏や宇喜多氏の備中侵攻に抵抗
備後
1541年1月吉田郡山城攻防を契機に大内氏側についていた宮氏がその後尼子派に転身。だが1548年大内・毛利連合軍に敗れ隣国、備中へと退去
1542年1月月山富田城の戦いでの大内氏敗退の後、尼子氏の麾下に加わった杉原(備後山名)氏は神辺城を1549年9月に明け渡し月山富田城へ逃亡
和智氏は備後国内最大の山名氏支援者として晴久の侵攻に抵抗。1553年に尼子氏に内通した一族の江田隆連を追放する事で大内・毛利氏支持を表明
尼子興久自害以降、尼子氏とは距離を置き警戒を強めた備後山内氏は毛利氏と気脈を通じ始めた事で当主は強勢隠居。1553年になり毛利氏に帰順
備前
1551年頃より尼子氏による備前への干渉が強まり尼子派となった浦上家当主・政宗は実弟・宗景と対立。宗景・毛利・赤松氏による尼子派排除に屈し
1557年頃には勢力を大きく減退させる事となる。その後は将軍家を通じて毛利氏とも和睦し赤松家との関係も修復する事で尼子氏からは離反していく


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