19/10/21 19:51:48 NwBPGVc/.net
司隷校尉の仕事は、刺史と似ているが、刺史が地方の上級役人を取り締まるのに対し、
司隷校尉は中央の官吏を取り締まるため刺史よりも格上である(中国の制度では首都周辺は朝廷直轄として中央官の扱いであった。後世の直隷省)。
さらに『漢官儀』によると、司隷校尉は御史大夫・尚書令とともに「三独座」と称され、別席をあたえられる顕官であった。
当初は節を持し兵を指揮していたが、後に兵権は廃止され、元帝の初元4年(紀元前45年)に諸葛豊が司隷校尉の時に節を没収された。
成帝の元延4年(紀元前9年)には司隷校尉の官が廃止された。綏和2年(紀元前7年)に哀帝即位後、校尉の付かない司隷として復活し、大司空の直轄となった。
後漢の成立と共に司隷校尉は復活した。
霊帝が刺史の他に州牧を設置し、地方の行政や軍事を統括するようになって州牧が
太守より上位になったことで、司隷校尉の役割も監察官から、首都周辺の守備や行政を担当する中央地区長官に変容し、
次第に影響力を増していったが、献帝の建安18年(213年)に従来の州区分を廃して古代の九州制を復活させたため、司隷部も廃止となった。
魏の成立と共に司隷校尉は復活し、西晋もこれを引き継いだが、前趙が中原を占領するに及んで
洛陽周辺を荊州に統合したため、司隷校尉は消滅し以後復活することはなかった。
よって、張飛は勝手に自称しただけの無能。