18/03/17 00:45:42.34 .net
これはなぜ周泰幼平が水賊になったのかという理由を語らないとだめでしょ
これが羅貫中の残した欠陥だよな~
本来水賊じゃない周泰幼平が、おそらく劉備玄徳に対する敵キャラとして箔を付けるためだけに適当に放り込まれた設定
そのバックボーンを何にも考えてない
周泰幼平の末裔からしたら堪ったもんじゃない不名誉だろうけど、大衆娯楽としてならそこに理由とドラマが存在すればまた見えるものも違ってくるんだよ
それがなにかというとこれ
★蒋欽無双伝 URLリンク(www.youtuberepeat.com)
蒋欽公奕(164年-219年 55歳没)
後漢末期、朝廷は民に重税を課し、灌漑の監督に怠慢を働いていたため農民たちは困窮していた
そんな貧しい農家に生まれたのが蒋欽だった
蒋欽の両親は貧しさのあまり宗教に傾倒し、丹陽に評判を得た祖茂の道教徒となっていた
道教徒の施設には、行けば食べ物があり一定の教育も受けられたために蒋欽一家は安寧の暮らしを得られた
その頃、蒋欽は道教徒の施設で周泰と出会う
周泰もまた貧しい農民の家に生まれ、飢えのあまり両親が盗みを働き、父親は殺人を犯したため死罪となり、母親は罪人として収監され、子供一人で流民となっていたところを道教徒に保護されていた
境遇が似ていたためか、二人はそれとなく一緒に行動するようになっていた
あるとき、二人は武器を持たせられ「巡礼」に向かう一団に加えられた
道教徒の巡礼団は夜半に村々を襲い物資を略奪していた。これが道教徒が安寧の暮らしを得られる実態だった
まだ幼かった二人は見張り役をさせられただけだったが、教団の裏の顔を知ったその後は二人の素行は次第に荒れていった
やがて180年に孫堅の宗教弾圧が始まると、蒋欽らも焼け出され散り散りとなるが、蒋欽は故郷の寿春近くで周泰と再会する
●舟山の戦い 182年 18歳 URLリンク(www.youtuberepeat.com)
蒋欽らは、自分たちを流民へと追い込んだ漢に恨みを抱く者を集め徒党を組むと、淮河を拠点として官軍の輸送船を標的とした水賊を始める
しかし、祖郎ら丹陽道教団のやり方を嫌っていたので、決して民は襲わないと誓いを立てた
頭領の蒋欽が陽気で、副頭領の周泰が寡黙であったため、やがて人々は彼らを陰陽衆と呼ぶようになっていた
このステージは蒋欽が盾牌剣、周泰が柳葉刀の固定装備で、舟を使って移動し淮河に現われる漢の軍船を襲い東へと進む
すると、舟山諸島にある道教徒(祖郎とは別派)の神仙寺院が孫堅の討伐軍に攻撃を受けている情報が入るので、そこへ急行する
孫堅は体力ゲージが赤より先は減らない無敵仕様なので戦いを避ける必要あり
道教徒らを逃がし孫堅との交戦を凌ぎ避けて、宝物庫にある水霊の加護を受けた波盾と、倭国伝来の弧刀を取得すると脱出路が開けるので、そこへ撤退する
波盾と弧刀を取った段階から武器変更が自由になる
去り際に孫堅から「外からでは国を変えることはできぬ。お前たちは民を襲わぬ流儀があると聞く。ならばその力を俺と共に発揮してみないか」と帰順を誘われるが、若い蒋欽らはそれに反発し逃亡する