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●樊城の戦い 219年 56歳 URLリンク(www.youtuberepeat.com)
関羽が樊城を攻めたという報に、曹操は于禁を援軍として出す
大雨により昌氏の二胡は鳴り響かず、昌氏は二胡を強く弾きすぎたため弦が切れてしまう
凶兆に取り乱した昌氏は、「兄も死に、私どもにはもうあなたしかいないのです。どうか、どうか生きてお帰りください」と于禁に縋り付いた
雨で体が冷えて体調が優れなかった于圭を残し、于禁は静かに出立した
于禁は龐徳を副将に付け、七軍の大軍勢を率いて樊城に向かったが、龐徳とは潼関の一件から仲が悪く軍の足並みは揃わなかった
その上龐徳は新参の将として曹操軍の中では肩身が狭く、転戦した各地で韓遂の件を持ち出され西涼人は二心ありとからかわれ続けていて疑心暗鬼になっていて、ますます于禁とは溝が深まった
龐徳は曹操への忠誠を示すために功を焦って突出したが、于禁は嫌な予感がしてそれを制止したが龐徳は聞き入れなかった
関羽は大雨を利用した計略として上流に塞を作っていて、それを決壊させ水計を仕掛けた
于禁は龐徳の軍の孤立を防ぐためにそれを追い深く攻め入ったために水攻めの直撃を受け、七軍は水没し壊滅した
于禁と龐徳は小さな孤島に上陸して最後まで抵抗を続けた(倒されるまで回復が出ないウェーブ戦で、ユニーク武器取得条件が非常識で無理のある理不尽な撃退数)
捕らえられた両名であったが、龐徳は降伏を呑まなかったが、于禁は関羽に命乞いをした
于禁は涙を流し、何度も土を毟りながら、額を地面に擦り付け「どうか、どうか命だけはお助けくだされ」と懇願した
それを見た関興は「我が軍の兵をこれだけ殺しておいて、その態度は将として示しがつかないのではないか」と問うが、于禁は頭を下げたままだった
すると関興は于禁の得物であった鴛鴦三叉を弄びながら冷ややかに「若い頃は朱雀のように勇壮であられた常勝于将軍も、老いては精彩を欠き敗軍の将としてただ土を毟り、鶏のように鳴き喚くのみ」と句を垂れ「土を毟るほど悔しければなぜ忠義を貫こうとしないのか」と責めると、関羽に殴られ、弟たちに連れられ下がった
龐徳はそれを見て落胆し失意の中で処刑され、関羽は物言わず于禁を牢へと送った
孫呉に関羽が討たれると、身柄を江東へ移された
孫権は于禁を手厚くもてなし、宴席を設けた
そこで流れた二胡の音に、于禁は静かに涙を流した
しかし、不忠義の降伏者が気に入らない虞翻がその場で于禁を激しく罵倒した
于禁は固く口を結び耐えていたが、なおも虞翻が罵倒し続けると于禁の髪や髭がみるみる白く染まっていった
あまりのことに孫権は剣を抜いて虞翻を止めようとして騒動となった
その後、魏へと送還されると、既に曹操は亡く、後を継いだ曹丕から曹操が于禁を落胆した言葉を伝えられる
曹丕は、于禁のことで曹操が苦悩していたことを告げると剣を抜いて迫り、なぜ降伏したのか理由を問いただしたが、かの者に害が及ぶことを恐れた于禁は決して理由を答えなかった
そして曹操の墓の参拝を命じられた于禁は、そこで于禁が降伏した様を描いた壁画を目にし倒れる
その後宮中で于禁の姿を見た者は居なく、帰国後に与えられた孫呉への使者の政務は子の于圭が代行した
その年の暮に于禁は昌氏の二胡に見送られ、ひっそりと亡くなると、于圭は職を辞して老いた母を伴って故郷の泰山へと帰り、泰山寺院で僧となり一生を終えた
ここに、于家は断絶した
曹操の覇道に懸けた于禁の一生は、泰山で暮らす昌氏と于圭の母子に終生の穏やかな安息をもたらした
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ifを搭載した場合は、樊城の戦いで于禁、龐徳以外の参戦キャラで関羽の水計を看破すれば、于禁と龐徳が健在となり、
曹丕が悪評を立てないために権威が保たれ、曹魏が司馬家を退け天下統一するための部分フラグが立つ
こういう最期