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●舒城の戦い 194年 30歳 陸遜11歳
袁術から元孫堅軍が孫策麾下へと帰還すると、その中にいた文台四帥らによって以前の縁が語られ、亡き孫堅の計らいとして蒋欽と周泰は正式に孫策軍に仕官することとなる
袁術は徐州を攻めるために廬江の陸康へ兵糧の援助を求めたが、陸康はこれを拒否したために交戦状態となり、袁術は陸康が居を構える舒城へ孫策軍を派遣する
孫策は陸康に兵糧を出せない理由を問いただすと、「そなたには世の飢饉が見えぬのか。こことておいそれとくれてやれるほど兵糧が余っているわけではない。その上、袁術は我欲に走る輩。兵糧を与えたとて、自らを肥やすためだけに用いられるのであれば、私がそれをくれてやる道理などないのだ」と毅然と答えた
陸康は昔孫堅に一族の者が救われたことを挙げ、孫策とは戦いたくないので兵を引くよう頼んだが、孫策を監視するために紀霊の軍が派遣されていたため、孫策は退くことができず戦端は開かれる
蒋欽は長江から水軍を率いて舒城の裏手を攻めたが、そこで逃げ出す船団を補足した
その民間船には、まだ十一歳の陸遜が、六才の幼い陸績の手を引いて立っていた
蒋欽が近づくと、陸遜は匕首を自らの喉元に当て「私を捕虜にすることは叶いません。あなたが近づくよりも容易く、この刃は私の喉を裂くでしょう。もし捕虜にできたとしても、叔父はそれで降伏するような御人ではありません」と毅然と言い放った
蒋欽は関心して船団を見逃してやり、舒城へと上陸していった
●劉繇攻略戦 195年 31歳
この頃、孫権が周泰を側近として欲しがったので、それを面白く見た孫策は蒋欽を自らの側近として立てた
この戦役は、孫策が偵察に出た際に太史慈と遭遇し一騎打ちから始まるが、それにも蒋欽は側近として付き従い見守った
劉繇の攻略に入ると、孫策の本隊が当利口と横江津を攻める間に、蒋欽は周泰と共に水軍を率いて長江を渡り牛渚城を陥落させた
秣陵城の戦いでは腿に矢を受け歩けなくなった孫策を波盾に乗せ長江を渡り護送した後、追撃してきた笮融の軍を散々に蹴散らし「孫策ここにあり!」と高らかに唱った
孫策が治療する間、朱治が総大将となり許貢の呉群を攻め、蒋欽はそれにも従軍した
許貢は厳白虎を頼り石城山へ逃走し、孫策を恐れるようになる
●江東平定戦 196年 32歳
孫策の傷が癒えると、次は会稽郡の王朗を攻めた
王朗の立て籠る固陵城は堅固なため突破できずにいると、周瑜の策で夜襲をかけ査瀆城を奪取し裏手から奇襲をかけ陥落させる
王朗が長江から逃走しようとしたところを、蒋欽と周泰の水軍が追撃しそれを捕縛すると、王郎は降伏した
その頃、許貢が落ち延びた先の白虎族では、許貢から孫策の恐ろしさを知らされた厳白虎が弟の厳輿を使者に立て孫策と和睦を図ろうとした
しかし、東呉の徳王などと称して散々民から略奪を働いていた白虎族を孫策は決して許すことはなく、厳輿はその場で斬り殺されてしまう
それに厳白虎は怒り、海西城から孫策の領土を狙っていた陳瑀と呼応し孫策を攻撃した
蒋欽と周泰の水軍が先鋒となりを長江を突破し海西城を攻めると、厳白虎軍が背後から孫策軍を突いた
しかし厳白虎がその宿敵である韓当に抑え込まれると、陳瑀は孫策軍に破れ処刑され、厳白虎は許昭の元へと逃げ延びた
このことにより下邳の陳登は孫策を恨むようになる
後に白虎族がいなくなった石城山が孫策に制圧されると、そこで朝廷への讒言書を執筆していた許貢を捕らえ、孫策はこれを殺害する
許貢の一族はその食客らに守られ逃げ延び、復讐の機会を狙うようになる
●孫家独立戦 197年 33歳
強大化する孫策勢力を恐れた袁術は、袁胤を丹陽太守として送り込み、周瑜に寿春への帰還を命じて孫策から周瑜を切り離した
さらに玉璽を持ち出し皇帝を自称し権威を示そうとしたが、これが裏目に出て、周瑜は袁術を「朝廷に仇成す反逆者」として離反
周瑜は魯粛を伴い寿春を脱出し長江を渡った
周瑜の声に呼応した孫策は袁胤を武力排除して、長江には蒋欽と周泰を迎えにやらせて、追ってきた紀霊軍を退けた