三國志の新武将作成用に人物を紹介していくスレat GAMEHIS
三國志の新武将作成用に人物を紹介していくスレ - 暇つぶし2ch631:名無し曰く、
21/10/21 21:53:30.88 RU8Bavjm.net
陳俊 チンシュン (生没年不詳)
演義に登場する魏の武将。諸葛誕の乱に従軍した。
鍾会は「呉兵が諸葛誕を助けるのは利の為であり、利で誘えば必ず勝てる」と進言。
司馬昭はそれに従い、石苞らを伏兵とし、成倅に囮部隊を率いさせ、
陳俊には牛馬に軍の褒賞を乗せて、その陣中に散在させる。
諸葛誕が魏の動きが悪いと見て襲撃すると、成倅などは敗走し牛馬などが野に残った。
そうして部隊の呉兵が物資の奪い合いを始めた頃合いで、石苞らが諸葛誕を攻撃して大破した。

632:名無し曰く、
21/10/28 23:17:27.22 6wHocE2G.net
袁隗 次陽 エンカイ ジヨウ (?~190年)
豫州汝南郡汝陽県の人。後漢の太傅で、いわゆる袁氏の四世三公の一人。
父は袁湯、兄弟に袁逢ら、甥に袁紹、袁術など。若くして南陽太守や大鴻臚など顕官を歴任し、
兄の袁逢より先んじて172年に三公に任じられる。このころ、董卓や桓典を司徒府に招いた。
また太常、後将軍、太尉、太傅など務め、少帝が即位すると何進と共に政務を補佐する。
何進が謀殺されると、袁紹と共に宦官派の樊陵や許相を殺害した。
その後、少帝の廃立に協力的だったが、初平元年に袁紹が決起すると、
袁隗や袁基などの一族は董卓にまとめて誅殺された。
※南陽郡に赴任した際は、現地の山中に湧く霊水を取り寄せて飲んでいた。

633:名無し曰く、
21/11/04 22:04:09.90 Xp/qCx9w.net
馬倫 バリン (122年~184年)
京兆右扶風茂陵県の人。馬融の娘、袁隗の妻で、子に袁満来、袁懿達、袁仁達。
若くして弁才があり、実家が富豪であったので、袁隗との挙式は盛大に行われた。
式が済むと袁隗は馬倫に、支度が豪勢に過ぎること、姉より先に嫁いだこと、
父が金銭で悪評が立つ理由を問うと、そのすべてに巧みに反論しやり込めた為、
袁隗は言い負かせず黙ってしまった。帳の外で聞いていた者もまた恥じいったという。
当時、袁隗は重用され位も高かったが、馬倫もまた世に名を知られ、六十二歳で亡くなった。

634:名無し曰く、
21/11/13 17:16:14.96 CX1XaqMv.net
戴昌 タイショウ (生没年不詳)
徐州広陵郡の人。呉の太尉。父は戴烈、子に戴淵、戴邈。
太尉の頃、同郷で八歳の盛彦が訪ねてきたので詩を贈って様子を見ると、彼は傍らに座ってこれに答えた。
呉の滅亡後は武陵太守となる。任地で戴昌は談論を良くしたが、同席した潘京の才に及ばないことを悟ると息子の戴淵を呼んできた。
潘京と戴淵との対話は言論を極め、「才能は貸し借りできぬものだ」と親子共々感服する。その後は会稽太守を務めた。

635:名無し曰く、
21/11/18 22:51:40.28 7hVfxz0W.net
蔡睦 子篤 サイボク シトク (生没年不詳)
兗州陳留圉県の人。魏の尚書。祖父に蔡質、子に蔡広、蔡徳。
後漢末期、親族と別れて友人の王粲と共に荊州に避難していたが、後に故郷の陳留に旅立った。
王粲の『贈蔡子篤詩』はその時の離情を述べたものとして現存する。その後は曹魏に仕え、尚書を務めた。
※父は蔡質の子(蔡ヨウの従弟)の蔡谷だろうか。荊州への避難はおそらく王粲に同行したと思われる。

636:名無し曰く、
21/11/26 00:03:16.99 Mp70jQKb.net
祖武 ソブ (生没年不詳 没年は270年代か)
幽州范陽郡遒県の人。晋の上谷太守。子に祖該、祖納、祖逖、祖約など六人(祖逖から後妻の子)。
代々太守を輩出する北方では著名な家柄であった。晋王・司馬昭の掾を務めた後に、上谷太守に遷った。
祖武の死後、祖逖らの母は洛陽で暮らしていたようだが、304年頃には死去していたようだ。
後世、祖逖の威勢を恐れた石勒は、その父祖(あるいは母)の墓を修繕して友好を求めた。

637:名無し曰く、
21/12/02 21:56:09.66 CJIXsTTf.net
何邈 カバク (?~280年)
揚州丹陽郡句容県の人。呉の武陵監軍。祖父に何遂、伯母に何姫、父に何洪、叔父に何植。
孫皓が即位し、伯母が皇太后となるとその弟である何洪、何蒋、何植らは侯に封じられる。
父の何洪が没すると何邈は永平侯を継ぎ、武陵監軍として武林城に駐屯した。
天紀四年(280年)、征呉の戦いで杜預が江陵を落とすと荊南一帯はほとんど降伏する。
そうした中、何邈は何らかの抵抗をしたのか晋軍に殺害されている。

638:名無し曰く、
21/12/02 22:28:10.45 CJIXsTTf.net
>>637
追記:別働の李毅が武陵方面に侵入しているのでここで交戦したかも

639:名無し曰く、
21/12/10 22:44:30.79 Uma446cf.net
何都 カト (生没年不詳)
揚州丹陽郡句容県の人。伯母は何姫、父は何洪か何蒋、叔父に何植。
鳳凰三年(274年)、孫皓は張布の娘の葬儀を盛大に行い、その喪のため半年は姿を現さなかった。
そのため今回の葬儀は実は孫皓のものと民衆に勘繰られた。
また孫晧の従兄弟で顔の似ている何都が(何一族の悪評も相まって)かわりに帝位に就いたという噂もたった。
臨海太守の奚煕はこれを真に受け、挙兵して何都を討とうとしたが、叔父の何植によって撃退された。

640:名無し曰く、
21/12/16 22:25:55.63 +YrX4TQO.net
馮朝 フウチョウ (生没年不詳 264年頃には死亡か)
呉の衛尉。息子の馮純は張布の長女を娶った。
五鳳二年(255年)七月、丞相・孫峻は広陵郡への築城を企図し、
(滕胤の不可能だという諫言を無視して)馮朝に実行を命じる。
また、呉穣を広陵太守に、留略を東海太守に任じるなど徐州方面への侵攻を図った。
同十二月、馮朝は監軍使者・督徐州諸軍事に任じられたが結局、
城の工事は完成せず、旱魃も相まって軍民の間で怨嗟が広がった。

641:名無し曰く、
21/12/23 23:36:46.04 MquxAbw9.net
王化 伯遠 オウカ ハクエン (生没年不詳 72歳で没)
益州広漢郡郪県の人。蜀漢の尚書郎。祖父は王商、父は王彭、弟に王振、王岱、王崇。
若くして兄弟ともに有望視され、『毛詩』『三礼』『春秋公羊伝』を治める。
広漢郡の功曹から州の従事、光録郎中、尚書郎を経て、閬中県令の際は清廉な治政で孝廉に挙げられた。
蜀漢が滅びると涼州酒泉郡の楽涫県令を務める。
胡族の反乱が起こると、孤立無援で七年に渡り官民を率いて堅守し、また隙を見て攻撃して関内侯に封じられた。
後に朱提や梓潼太守を務め賞賛を受ける。性格は謹重で言論は雅びやか、正否は妥当で人民から敬服された。
※弟が陳寿と同年代っぽいので生没は220年~291年あたりか、また酒泉の反乱は樹機能の余波だろうか

642:名無し曰く、
22/01/13 19:26:46.46 FSVGo9VF.net
王崇 幼遠 オウスウ ヨウエン (生没年不詳)
益州広漢郡郪県の人。蜀漢の東観郎。祖父は王商、父は王彭、兄に王化、王振、王岱。
若くして兄弟ともに有望視され、学業に広く通じ、雅びで粋な性格だった。
蜀漢では史官の東観郎を務め、滅亡後は梁州別駕に辟され秀才に挙げられる。
後に寿良、李密、陳寿、李驤、杜烈と共に都に入り、益梁二州の俊才と言われた。
彼らは次第に疎遠となったが、王崇だけは寛容な性格で付き合いを保った。
後に尚書郎や上庸、蜀郡太守を務め、劉禅の後継・劉恂が無道な振る舞いをすると何攀や張寅らと連名で諫めた。
著作に『蜀書』の他、詩賦が数十篇。

643:名無し曰く、
22/01/20 20:21:28.88 WSANtD97.net
蒋珩 ショウコウ (生没年不詳)
荊州零陵郡泉陵県の人。祖父母は蒋琬と毛氏、父母は蒋斌と費禕の娘。子に蒋恭。
263年、蜀漢滅亡の際に父や叔父が死去すると、祖母の毛氏は三男と蒋珩を連れて、
同族の蒋瑜を頼って故郷の零陵郡に移住した。その後は呉に仕えて始興太守や広州都督を務める。
意気は英爽で誤りを糾し、行いは神の如く速かった。
呉が亡ぶと晋朝に仕え、揚州で仏寺を建立する。中原の民衆がこぞって帰依したのは彼の尽力によるものだった。
死去すると零陵城東に葬られた。
※集解注で趙一淸が「蒋琬の兄弟ではないか」とコメントがあるが、出身県や時代が異なる。
『永州府志』は同県出身で特に言及なし、『梅潭蒋氏世譜』では孫とする。

644:名無し曰く、
22/01/27 23:10:19.57 6jEAx358.net
張芝 伯英 チョウシ ハクエイ (?~190-193年 初平年間に没)
涼州敦煌郡酒泉県の人で後に弘農郡に移った。後漢の書家。張奐の長子で弟に張昶、張猛。
草書の改良者で「草聖」「書聖」と呼ばれた。若くして高い意思を持ち、名臣の子息として勉学に励み文武に秀でる。
朝廷からの辟召には応じず、草書を好んで杜度や崔瑗に書法を学び、家の白布には全て書の練習に用いた。
また、池に臨んで鍛錬して水が墨で黒くなった逸話は「臨池」の故事となる。
筆を下せば必ず手本となり、草書をする暇さえないと言われ、寸紙も残らなかった。
鍾繇や王義之と共に古今の三筆の一人。

645:名無し曰く、
22/02/03 20:11:40.11 +/V/t77H.net
韋誕 仲将 イタン チュウショウ (179年~253年)
司隷京兆尹杜陵県の人。魏の光禄大夫、書家。父に韋端、兄に韋康、子に韋熊。
文才や墨の製法、印相に通じ、張芝や邯鄲淳の書法を学ぶ。
建安年間に郡の上計吏から郎中となり、227年頃に武都太守(能書家のため中央勤め)、
後に侍中や中書監を経て光禄大夫を務めた。
魏の宝物の銘文や洛陽、許昌、鄴の宮殿の題字は全て彼の手によるが、
明帝の時に凌雲台の題字を書くために、二十五丈(60m)の高さで作業した経験から子孫に書を戒める。
251年、司馬懿が王凌討伐から帰還すると、皇帝の使者として軍を慰労した。共著作に『魏書』『皇覧』など。

646:名無し曰く、
22/02/10 00:10:44.08 NFJUUK+T.net
左伯 子邑 サハク シユウ (生没年不詳)
青州東莱郡の人。後漢末の書家、製紙家。
書の八分体に巧みで、毛弘らと並び称され、邯鄲淳とは趣が異なるが漢末に名高かった。
また紙造りに特に優れて、蔡倫の製紙技術を受け継いで改良を施す。
彼の製造した「左伯紙」は後に”妍妙輝光”と評され、
韋誕が「良い仕事には良い道具。張芝の筆、左伯の紙、臣(韋端)の墨が必要です」と奏上したほど珍重された。

647:名無し曰く、
22/02/17 20:36:41.45 4zHwE3vd.net
崔巨業 サイキョギョウ (生没年不詳)
袁紹の武将。初平三年(192年)、界橋の戦いで公孫瓚が薊に敗走する。
その頃、袁紹は占星術に長けた崔巨業に(財貨を贈り寝食を共にするなど厚遇した上で)吉兆を占わせ、
期日を決めて涿郡故安県を包囲させた。崔巨業は数万の軍勢で向かったが落とせず、南に退却する。
しかし、公孫瓚が率いる三万の追撃部隊と巨馬水の辺りで戦闘になり、死者七千を超える大敗を喫した。
その後の詳細は不明だが、公孫瓚軍は勝ちに乗じて平原まで南下した。
※「巨業」を字とみると、崔琰の兄の崔覇と同一人物かもしれない(名+字で覇業)

648:名無し曰く、
22/02/24 23:57:15.35 KBI+eY9F.net
胡羆(熊) 季象 コヒ キショウ (生没年不詳)
揚州楚国寿春県の人。晋の征南将軍。父は胡質、兄に胡威。父や兄と同様に潔白な行為で名を知られた。
才幹を有し、荊州刺史・征南将軍を務める(襄陽の山上に碑文があったという)。
呉の平定後(280年)は益州刺史・安東将軍に転じ、王長文を辟召しようとしたが果たせなかった。
また李密の『述理論』を評価した。

649:名無し曰く、
22/03/03 21:43:13.80 y2vjOpgm.net
曹冏 元首 ソウケイ ゲンシュ (生没年不詳)
豫州沛国譙県の人。魏の弘農太守。曹騰の兄・曹叔興の子孫で、曹丕と同年代にあたる。
正始五年(244年)、魏の皇族は大きな制限と監視のもと不遇の生活を強いられており、
国家の藩屏の観点からも封建を行うよう上奏を行ったが(『魏分封論』)、曹爽には理解されなかった。
また著作の『六代論』は後世に曹植作と仮託されたため、司馬炎から曹志(曹植の子)に作者の諮問が行われた。
泰始八年(272年)、都督関中雍涼諸軍事である司馬亮の軍司を務め、
失態を犯した劉旂の助命を連名で上表したが拒絶された。

650:名無し曰く、
22/03/10 19:33:52.35 wdkKvAx3.net
谷朗 義先 コクロウ ギセン (218年~272年)
荊州桂陽郡耒陽県の人。呉の九真太守。幼くして両親を亡くすが、温和で道義に外れず、養父や弟と暮らした。
若くして郡に仕え、陽安県長の後に中央で郎中、尚書令史、荊州に戻ると郡の中正や長沙の県令などを歴任する。
その後、中央や広州で任用され、恩恵をもって人々を教化し、汚濁を一掃し人事は公正厳格であった。
また、呉では263年から呂興の反乱で交趾付近を失陥しており、晋軍とたびたび戦闘が行われていたが、
威信恩義で知らる谷朗が九真太守に抜擢される。
その後、薛珝、陶璜らの活躍で交趾などが回復したが、翌年の272年に没した。

651:名無し曰く、
22/04/02 20:45:54.53 a6SDkNO+.net
柳伸 雅厚 リュウシン ガコウ (生没年不詳)
益州蜀郡の人。蜀漢の巴東太守。子に柳純。若くして同郡の柳隠や杜禎らと名を知られた。
また、杜禎と共に益州牧の諸葛亮の従事に辟され、杜禎が梁、益二州の都督となるとその補佐にあたる。
その後は漢嘉太守、巴東太守を務めた。蜀の滅亡後は杜禎の子・杜珍と共に秀才に挙げられた。
※梁州が設置されたのは蜀滅後なので時系列が多少前後しているかも


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