三國志の新武将作成用に人物を紹介していくスレat GAMEHIS
三國志の新武将作成用に人物を紹介していくスレ - 暇つぶし2ch77:名無し曰く
16/02/06 11:24:10.05 t+ogLn7X.net
素晴らしいスレですね♪
できたら、字にもふり仮名お願いします。

78:名無し曰く、
16/02/06 22:40:59.41 UbU3LqFo.net
趙儼 伯然 チョウゲン ハクゼン (171年~245年)
統率:72 武力:51 知力:81 政治:76
豫州潁川郡陽翟県の人。戦乱を避け、荊州で杜襲、繁欽と暮らしていたが、曹操が献帝を許都に奉戴すると仕官を決意し、朗陵県長に就任。
その後は各地の太守を歴任した。李通とは親交があり、袁紹が豫州へ誘いをかけた際、
焦った李通が曹操のために徴税しようとすると、それを諌め対応を荀彧に相談した。
劉表への備えで前線に駐屯する于禁、張遼、楽進らは互いに不和であったが、趙儼が参軍として取り成したため協力するようになった。
建安十三年(208年)、荊州侵攻の際には都督護軍となり、于禁・張遼・張郃などの七軍を統括する。
建安十六年(211年)、潼関の戦いの事後処理で、降伏した元馬超らの軍を統括した。
建安二十四年(219年)の樊城の戦いでは、「曹仁との連絡を最優先にすべし」と進言し救援に貢献。
また「呉への対策に関羽の追撃は止めるべき」とも進言し容れられた。
黄初三年(222年)には曹休の軍師として孫権を撃退する。曹芳の代まで仕え、位は驃騎将軍・司空まで昇った。

>>77あざな?

79:名無し曰く、
16/02/07 23:22:03.72 1/yM5Rhn.net
趙嫗 チョウオウ (?~248年?)
統率:74 武力:78 知力:31 政治:20
交州九真郡安県(現在のベトナム)の女。嫁に行かず、九真の山中で群盗を束ねて郡を荒らしまわった。
趙嫗は三尺ある乳房を背負い、金の靴を履いて、常に象の頭に乗って戦った。
戦いから戻るといつも帷幕を張り、少年を数十人は侍らせたという。
赤烏十一年(248年)に九真郡の城邑を複数攻め落とすと、交州全体に動揺が広がった。
これに対し孫権は陸胤を交州刺史に任命し鎮圧に向かわせる。反乱は陸胤によって平定され、趙嫗は戦死した。

80:名無し曰く、
16/02/08 22:04:32.86 ExElsQny.net
陸胤 敬宗 リクイン ケイソウ  (生没年不詳 ただし期間は199年~275年)
統率:77 武力:63 知力:71 政治:83
揚州呉郡呉県の人。陸遜の族子。陸凱の弟。御史・尚書選曹郎であった頃、その名声を聞きつけた孫和から礼遇される。
赤烏六年(243年)頃から始まった二宮の変では、孫和派の一人として讒言に遭い投獄される。
激しい拷問を受けたが、他者を非難するような言動を一切しなかった。後に許されて衡陽の督軍都尉となる。
赤烏十一年(248年)九真郡で趙嫗らによる大規模な反乱がおこると交州刺史として派遣される。
陸胤は恩恵と信義を教え諭して、財貨を惜しまなかったため、賊の頭目や、これまで呉の支配を拒絶してきた人々まで次々に投降してきた。
また、蒼梧や建陵の賊を討伐し、それまでに得た兵士八千人を軍に編入した。
陸胤が交州刺史として赴任すること十年、農民や商人は安全に生活でき、災害は減り田が豊かに実った。また、塩害用の貯水湖を作り民衆を助けた。
永安元年(258年)、西陵督に移り、都亭侯に封じられた。華覈から高く評価され、中央に召すよう上奏があったが、その後の記録はない。

81:名無し曰く、
16/02/09 22:26:41.77 T76FCGuq.net
>>80 補足
撰に『廣州先賢傳』七巻があり、交州の優れた人物を顕彰している。

王嗣 承宗 オウシ ショウソウ (生没年不詳)
統率:53 武力:26 知力:61 政治:77
益州犍為郡資中県の人。延熙年間(238年-257年)、功徳が顕著ということで孝廉に推挙された。
次第に昇進し西安囲督・汶山太守となり、安遠将軍の位を付加される。 領内の羌族に恩愛と信義をもって接したため、みな彼に帰服した。
また、平素乱暴な諸部族もみな帰服して来たため、当時北方の国境地帯は安寧となった。
姜維が北伐をする度に、羌族は馬・牛・羊の毛織物を出し、さらに穀物を出して兵糧の助けとしたため、その資材を頼みとして戦うことができた。
鎮軍将軍に昇進し、そのまま郡太守も兼任する。王嗣は人情に厚く実意ある人柄で、人々に愛され信頼された。
後、姜維の北伐に随行した際、流れ矢に当たって負傷し、その矢傷のため数ヵ月後に死去した。
野辺送り(見送り葬)をする異民族は数千人に昇り、涙を流し、声を上げて泣いたという。
羌族は、王嗣の子及び孫たちに対し肉親のように接し、あるいは義兄弟の契りを結んだりした。

82:名無し曰く、
16/02/10 07:23:02.77 uHd2t0mE.net
三国志長く見てると使われる苗字や文字がわかってきて
名前と字付けで悩まなくなるのがすごいよな

83:名無し曰く、
16/02/10 15:25:52.00 7C+E9RHm.net
字は名と同義だったり真逆的なものだったり、対になってる感じのも多い
そこを踏まえておけばさほど悩むもんでもない

84:名無し曰く、
16/02/10 23:59:12.18 DiHJ4Ghx.net
成廉 セイレン (?~198年?)
統率:73 武力:81 知力:23 政治:5
呂布の近衛の武将。史書には勇猛な将を意味する「驍将」または「健将」と表記される。
192年~194年の間、流浪の呂布は袁紹を頼り客将となる。この頃、袁紹は精強を誇る黒山賊の張燕と争っていた。
呂布は成廉や魏越など数十騎のみを引き連れて、敵陣営に突撃を繰り返し、その度に敵将の首を取ってきた。そうしたことが十日余り続くと張燕軍は打ち破られた。
建安三年(198年)、曹操が呂布討伐の軍を下ヒまで進めると、呂布とともに迎撃に出陣したが大敗。成廉は捕虜となった。
演義では八健将の一人。初戦で曹操を後一歩まで追い詰めるが、典韋に撃退され、最後は濮陽において楽進に弓で射殺されてしまう。

85:名無し曰く、
16/02/11 22:55:55.86 c28HF5Iv.net
劉靖 文恭(水経注より) リュウセイ ブンキョウ (?~254年)
統率:61 武力:35 知力:70 政治:81
魏の政治家。劉馥の子。劉弘の父。黄初年間(220年~226年)、黄門侍郎から盧江太守に昇進した。後に河内太守、尚書、河南尹を歴任する。
統治下では盗賊や災害対策を行い、農業養蚕の道具などを補助してやり、官民を統制し貧民を救い、法律を順守させた。
彼の行政は父と同様に、初めは細かく煩わしいが、後々に人民にとって便利なものとなった。
正始年間(240年~249年)、質の劣化した太学の改善案を上奏したがその時点では却下された。
後に鎮北将軍・仮節都督河北諸軍事となり、「蛮族の対処は防御策以外になし」という信念のもと北方の要地に軍隊を置いた。
また、堤防を修復して広くし、薊の南北を灌漑して稲を植えさせたため住民は利益を得た。嘉平六年(254年)に死去した。

86:名無し曰く、
16/02/12 23:43:34.45 f9dHyoIP.net
徐胤 ジョイン (生没年不詳)
統率:72 武力:23 知力:61 政治:52
晋の武将。泰始五年(269年)、羊祜が都督荊州諸軍事として襄陽(?)に赴任するとその軍司(軍監・戦目付)となる。
軍中での羊祜はいつも軽装で鎧もつけず、護衛も十数人で狩りや釣りを好んだ。
あるとき羊祜が夜中に外出しようとすると、徐胤は割符を手に営門に立ちはだかって「万里を統括する御方が、軽装で出掛けて良いものでしょうか!
今日、私が死なない限りこの門は開きませんぞ!」と言った。すると羊祜は謝罪し外出も稀になった。
その後、羅憲の後任で巴東監軍として益州へ赴任する。
泰始八年(272年)の西陵の戦いでは、歩闡を救援するため羊祜は江陵へ、楊肇は西陵へ、徐胤は水軍を率いて永安方面から建平郡へ進軍した。
陸抗は水軍督・留慮と鎮西将軍・朱琬を派遣し徐胤を防いだ。楊肇が敗れると(おそらく)徐胤も撤退した。

87:名無し曰く、
16/02/13 00:23:54.96 c+hRnseU.net
異民族でも匈奴や南蛮関連じゃなくて卑弥呼や倭国関係の人物の能力査定が見たいな…

88:名無し曰く、
16/02/13 23:59:38.12 i2SDezpQ.net
周不疑 元直 シュウフギ ゲンチョク (194年?~208年?)
統率:32 武力:19 知力:83 政治:60
荊州零陵郡の人。劉先の甥。幼くして異才があり、聡明で理解力に優れた。
劉先は彼の師を劉巴に依頼したが「甥御の教師として、自分は力不足である」と辞退した。
建安九年(204年)、曹操が面会すると娘を嫁がせようとしたが断ったという。
建安十二年(207年)、烏丸征伐の際の柳城攻略に手間取った曹操は、絵図を書き周不疑に計略を訪ねると十通りの策を献策した。
曹操がこれを用いると柳城はすぐに陥落した。
曹操はもともと曹沖の友として周不疑が釣り合うと考えていたが、曹沖が死ぬと「他の息子では制御できまい」と考え刺客をやって殺した。

>>87ほとんど事跡のない人は適当につけるから自分でつけた方がいいと思うよ

89:名無し曰く、
16/02/15 22:52:49.12 gk23SCO9.net
習珍 シュウチン (?~221年?)
統率:58 武力:59 知力:34 政治:22
荊州襄陽郡の人。劉備に仕え零陵北部尉・裨将軍を務めていた。建安二十四年(220年)、関羽が呉に斬られると荊州の諸県が呉に呼応する。
習珍は抵抗しようとしたが、弟の習宏に「今は雌伏し、時期を待つべき」と説得され呉に降った。
習珍は武陵郡部従事の樊胄と密約を結び、章武元年(221年)の劉備の出征に合わせて同時に挙兵。
邵陵太守を自称し、七県を併せ異民族の地に駐屯し蜀に味方した。
しかし、呉から潘濬が討伐に来ると樊胄は敗れ、習珍も数百人で敗走し山に籠城した。
潘濬に対し「漢の鬼となろうと呉の臣下にはならない!」と頑強に抵抗したが、一月余りで兵糧や矢が尽きたため、部下を巻き込まないように自害した。
劉備は習珍の死を聞くと喪を発し、邵陵太守を追贈した。

90:名無し曰く、
16/02/16 09:32:21.99 bO8TlKKV.net
凄く役立つスレ発見した
スマホからなんで今は書けないが、前半空白地を埋める君守武将(張温、王叡、曹寅など?)が居ると嬉しい
三国志13だと開始直後に空白地取るのが強過ぎるからそれ防止にもなるし
今は出来ないけど、wikiに纏めたり新武将データをUPるとかとか新武将配置済みシナリオ配布とか…

91:名無し曰く、
16/02/16 11:01:47.26 7/mzqanV.net
はい嫁候補
URLリンク(www.youtube.com)

92:名無し曰く、
16/02/16 22:23:46.58 lJqqMK9K.net
董白 トウハク  ((177~188)?~192年)
統率:9 武力:7 知力:48 政治:56 (11準拠)
涼州隴西郡臨洮県の人。董卓の孫娘。初平二年(191年)、長安に撤退した董卓は、董旻を始めとした内外の一族をみな高位に就けた。
董卓は郿城の東に壇を築き(縦横5m、高さ約1.3m)、金華青蓋車に董白を乗せ、郿にいる都尉、中郎将、刺史らが先導や御供となり、
侍中の董璜(董卓の兄の子・従伯父にあたる)が使者となって印綬を授けた。このとき董白は未笄(十五歳以下)であったが、渭陽君に封じられた。
初平三年(192年)董卓が暗殺されると、一族の籠る郿城に皇甫嵩が派遣され、親族は皆殺しとなった。
なお、白の親は不明であるため姓は不詳、仮に董とする。

93:名無し曰く、
16/02/17 22:30:56.63 9RLZcrrG.net
昌豨 ショウキ (?~206年)
統率:82 武力:68 知力:55 政治:30
別名・昌覇。徐州の人。臧覇、孫桓らと同じ太山の首領の一人。初めは呂布に従っていたが、建安三年(198年)に呂布が敗れると曹操に降伏する。
建安五年、劉備が下邳で反乱を起こすと、これに呼応し東海国で挙兵。
鎮圧に派遣された夏侯淵、張遼を相手に数か月抵抗し、曹操軍を兵糧切れに追い込んだ。
しかし、敵対行動に迷いが生じ、また張遼の果敢な説得もあって再び曹操に降伏した。
冀州が平定された建安十一年(206年)、昌豨は再び反乱を起こす。
于禁が征討にあたったが降せず、夏侯淵の援軍や臧覇らと共同で十以上の陣が破られた。
敗北を悟った昌豨は旧友の于禁のもとに出頭したが、于禁が法律を順守したため斬首となった。

94:名無し曰く、
16/02/18 20:21:42.98 EgwAY9YY.net
鄧展 文穎(古今圖書集成より) トウテン ブンエイ (生没年不詳)
統率:51 武力:67 知力:63 政治:41
魏の奮威将軍。南陽の人。建安十八年(213年)、魏公就任をたびたび辞退する曹操に対して、
拝命を勧める群臣の中に鄧展も名を連ねている(劉展の誤字で)。
また、鄧展は矛や戟など五種の長柄武器に精通し、無手であっても白刃の中で戦えるといわれた。
あるとき曹丕、劉勳らと酒の席で撃剣の議論をしている際に、曹丕と意見が対立して試合で武法の是非を証明することとなった。
戯れの試合であったため干蔗(砂糖キビ)の剣で戦ったが、二回とも曹丕に完敗した。
鄧展は武だけでなく、『漢書』の注釈を残しており、「鄧展曰く」の注が現在でも残っている。
また『孝子傳』に、蚊の多い季節に窓の下で眠る父母のため、床に伏せて蚊を自分に吸わせた、という逸話がある。

95:名無し曰く、
16/02/19 22:17:32.95 fnq8cMSG.net
馮氏 フウシ (?~197-199年)
袁術の愛妾。司隷の馮方の娘。国内随一の美女で、千金に値する髪飾りを有した。
戦乱を避け揚州(寿春)に避難していた馮氏は、城壁に登った袁術の目にたまたま留まり、後宮に入れられると甚だ寵愛された。
それに嫉妬した妻妾たちから「会うたびに泣けば更に気に入られますよ」と悪意の忠告をされる。
それを真に受けた馮氏が実践したところ、袁術の目には「別な想い人のために涙する志節を持った女性」と映り、ますます寵愛された。
焦った妻妾たちは馮氏を縊り殺し、自殺に見せかけて厠の梁に掛けておいた。
袁術は想いを果たせず自害したのだろうと考え厚く葬った。
『演義』では袁術即位時に皇后に立てられた。

96:名無し曰く、
16/02/20 22:05:03.56 PAxxSQ3Z.net
宋建 ソウケン (?~214年)
統率:65 武力:70 知力:44 政治:32 (統率以外Ⅷの宋揚に準拠)
涼州隴西郡の人。別名に宋揚? 涼州の独立勢力の主。
中平元年(184年)冬、北地郡の羌族や枹罕、河間の群盗は北宮伯玉、李文侯らを将軍に立てて反乱を起こした。
宋建も王国と共に賊軍に加わり、金城太守・陳懿を殺害。辺章・韓遂を拉致し、無理やり頭目に擁立した。
反乱軍は、張温や董卓ら討伐軍との戦いでも優勢であったが、流星を不吉に感じ金城に撤退した。
その後、宋建は隴西郡の枹罕県で河首平漢王を自称し、改元や百官を設置して国家として三十年ほど自立した。
建安十九年(214年)冬十月、曹操から派遣された夏侯淵、張コウらに包囲を受け、一ヶ月余りで陥落し、配下共々斬られた。

97:名無し曰く、
16/02/21 23:15:32.63 J593kzLN.net
成済 セイサイ (?~260年)
統率:31 武力:68 知力:19 政治:17 (統率以外はⅧのステータスに準拠)
魏の太子舎人。兄に成倅。甘露五年(260年)五月七日、司馬昭の専横に対して、魏帝・曹髦は下僕など数百人を連れて決起した。
司馬昭側は王業、王沈から密告を受けていたが、東止車門で遭遇した司馬チュウ勢は一喝され敗走。
賈充も南闕門で曹髦を迎撃したが部隊が逃げ腰になり劣勢となる。
成済は賈充に「如何すべきか」と問うと、賈充は「お前たちを養ってきたのは今日のためだ!後から咎めたりしない!」と答えた。
そこで成済は前進し曹髦を刺殺した。しかし、事態が収まると成済は皇帝弑殺の大罪人として罪を押し付けられ一族諸共処刑された。

98:名無し曰く、
16/02/22 21:14:44.48 kaYBUU29.net
鄭渾 文公 テイコン ブンコウ (生没年不詳 生年は152年?以降 死亡年は226年~239年の間)
統率:67 武力:63 知力:77 政治:89
司隷河南尹開封県の人。兄に鄭泰。揚州刺史の兄が赴任前に病死したため、(193年以降)、兄の遺児を連れて淮南に避難した。
しかし袁術の破滅を予見して、親交のあった豫章太守・華キンのもとに身を寄せた。
その後、曹操から招聘され邵陵などの県令を務める。
建安十七年(212年)頃に左馮翊(官名)に遷ると、その地で跋扈する梁興の勢力を計略で弱体化させ、夏侯淵と共に梁興らと戦い斬った。
建安二十年(215年)の漢中遠征時は京兆尹となり、兵糧輸送により功績第一となる。
その後、各地の太守を歴任し、堤防作りや植林など主に農業によって任地を富ませた。

99:名無し曰く、
16/02/23 22:42:44.20 f+vobxpI.net
>>98訂正 死亡年は226年以降

丁斐 文侯 テイヒ ブンコウ (?~216年から数年後)
統率:51 武力:26 知力:66 政治:21
豫州沛国の人。丁謐の父。曹操と同郷人ということで特別目に掛けられ、たびたび賄賂を要求し法に触れたがその度に不問とされた。
丁斐は典軍校尉として内外を取り仕切り、その意見はよく採用された。
建安十六年(211年)、潼関の戦いで曹操は馬超に急襲されたが、
丁斐が牛馬の群れを放って敵兵士の気を逸らしたため危機を脱することができた。
建安二十一年(216年)の濡須口の戦いにも従軍したが、
自身の痩せ牛と国家の牛をこっそり交換したことが発覚し、官位を剥奪され投獄された。
曹操は「こやつを用いるのは、鼠除けに盗人犬を飼っているようなものだ」といって笑い、官位を戻して不問とした。

100:名無し曰く、
16/02/23 22:53:33.84 gGMXHThl.net
陳王の劉寵ってシリーズにでてきた事あったっけ?

101:名無し曰く、
16/02/24 17:27:02.35 lTH0dIg5.net
たぶんない!

102:名無し曰く、
16/02/24 18:57:19.98 d8kcpLJ2.net
12までにいて13にいない武将リスト
郭援、郭馬、管輅、韓キョ子、季雍、魏バク 許劭、蹇碩、伍延、黄承彦謝旌、邵悌、岑昏、全紀、沮鵠、
孫震、張南、禰衡、唐彬、馬忠、李豊、李孚、陸凱、劉和 劉シュン
王悦 王桃 関寧 崔州平 石韜(広元)張世平 董白 杜氏 ホウ娥 楊氏 陸鬱生 李氏 呂伯奢
王含 王沈(処道) 王買 夏侯咸 何曾(潁考) 何楨(元幹) 句安 皇甫ガイ 胡淵(世元) 胡沖 蔡貢 脩允 周浚(開林)
脩則 荀愷 蒋顕 鍾離斐 孫述 孫覇(子威) 孫[雨單](キツ) 張潁 張喬 張象 張尚 張節 張儼(子節)陳元 陳俊
鄭沖(文和) 丁謐(彦靖) 田章 陶シュン(世英)鄧良 馬隆(孝興) 畢軌(昭先) 馮タン(少冑) 毛炅 楊稷 李球 李キン
陸景(士仁) 劉俊 劉寔(子真) 倭女王 倭武将 倭巫女
耿紀(季行 )蔡勳 蔡ヨウ(伯カイ) 崔諒(士文) 士孫瑞(君栄) 朱讃 岑威 成済 薛則 曹遵
宋揚 卓膺 張温(伯慎) 張鈞 鄭玄(康成)董禧 馬日テイ(翁叔) 傅嬰 伏完 辺章 鮑忠
北宮玉 楊彪(文先) 楊陵 劉永(公寿) 劉理(奉孝) 呂義(季陽)
阿貴 烏延 王同 柯吾 蛾遮塞 去卑 骨進 千万 苻健 芒中 尤突
王子服 キョウ景 蔡陽 紫虚上人 杜遠 董衡 南華老仙 傅幹(彦材)
王真 宗預(徳エン)杜瓊(白喩)李鵬
晏明 韋康(元将)尹楷 尹奉(次曾)尹礼 王楷 王垢 王昌 王植 王則 王方 和洽(陽士)夏侯存 夏侯蘭
関純(伯典)韓福 韓猛 姜叙(伯奕)許汜 許昌 黄エン(子エン)孔秀 公孫修 耿武(文威) 伍瓊(徳瑜)
胡才 伍習 呉子蘭 呉碩 胡赤児 呉敦 崔勇 左霊 史渙(公劉)史蹟 周善 朱光 荀惲(長倩)荀爽(慈明)
蒋奇 尚挙 尚弘 鍾進 徐商 審栄 秦琪 辛明 秦良 成廉 薛悌(孝威)薛蘭 薛礼 曹安民 宋果 曹彦 宋忠(仲子)
宗宝 趙叡 趙衢 趙昂(偉章)趙岑 張先 張著 陳就 陳生 鄭度 鄧義 董コウ 鄧竜 杜襲(子緒)馬延 馬漢
費観(賓伯)孟坦 楊? 楊洪(季休)楊密 楊齢 李楽 李珪 李暹 李別 李封 李蒙 劉延 劉晙 劉先(始宗)
柳甫 梁寛 呂公 呂常 路昭
張顗 張資(子議) 陳嬉 呂覇
梁紀

103:名無し曰く、
16/02/25 09:35:22.14 PCNzzpX8.net
>>102
これはいいデータ
1000人入れようと思えば簡単に入れられるな
13は同名別人武将(馬忠や李豊など)が削られてるんだっけ
王、李、楊などイマイチパッとしない武将がごそっと居ないイメージ
仙人枠とか異民族も結構居ないな
その割には一族武将があまり削られてない
今回は満足出来る拠点数だけど、たった700じゃそりゃスカスカになるわな
ここ最近の作で頑なに採用されない蔡ヨウ、パラメータは相当いいものになりそうなのに
洒落じゃねーぞw

104:名無し曰く、
16/02/25 21:02:22.14 ML/PBu3d.net
丁固 子賤 テイコ シセン (198年~273年)
統率:65 武力:32 知力:71 政治:77
揚州会稽郡山陰県の人。丁覧の子。元の名を「密」といったが滕密の名を避けて改名した。
若くして父を喪い、母とともに慎ましく暮らした。呉ではカン沢や虞翻に高く評価され、尚書や左御史大夫を勤める。
甘露元年(265年)、歩闡の上奏で孫皓が武昌に遷都すると諸葛セイと共に建業を守備した。
宝鼎元年(266年)十月、(呉郡の)永安県の山賊・施但が蜂起し、孫和の子の永安候・孫謙を脅迫して建業まで進軍してきた。
その勢力は一万余りに膨れ上がったが、丁固と諸葛セイが牛屯で撃破し、施但を敗走させ孫謙を保護した。
同年十二月、陸凱、丁奉らと孫皓廃立を計画するが、警護役の留平の賛同を得られず中止した。宝鼎三年(268年)に司徒に遷った。

105:名無し曰く、
16/02/26 21:46:09.04 R62q01Xs.net
劉寵 リュウチョウ (?~193年頃?)
統率:57 武力:77 知力:34 政治:54
漢の陳王。後漢二代皇帝・劉荘の玄孫。熹平二年(173年)、国相の師遷から「天神を祭り、即位の野望あり」と弾劾される。
しかし、霊帝が誅殺を躊躇い、結局不問とされた。劉寵は弩が得意で、十発射れば十発とも同所に命中した。
中平元年(184年)、黄巾の乱により郡県はみな城を捨て逃亡したが、劉寵は強弩数千を揃えて都亭に駐屯した。
陳国の人は劉寵の武威を恐れて反乱に加わらず、そのため十万人が他から避難してきた。
反董卓連合時は陽夏県に駐屯し輔国大将軍を自称。後に袁術が兵糧を求めてきたが、これを断ったため刺客に殺された。

106:名無し曰く、
16/02/28 20:32:05.24 MUCO8U2i.net
>>102
どこに所属させればいいんだ?

107:名無し曰く、
16/02/28 21:37:51.98 8HkUXVlO.net
劉寵(と駱統父)の没年は197でしょう

108:名無し曰く、
16/02/28 22:28:54.43 4zZ7ZBKq.net
>>107 ですな。陳王の伝だけ見てたから年代がわからなかった

駱俊 孝遠 ラクシュン コウエン (?~197年)
統率:51 武力:42 知力:62 政治:68
揚州会稽郡烏傷県の人。駱統の父。文武の才を有し、若くして郡吏となる。
孝廉に挙げられると尚書郎に就き、後に(師遷の誅殺で空いた)陳国の相(宰相)に遷った。
当時、袁術の僭称や袁兄弟の争いで天下が混乱し多くの賊が跋扈した。
そのため駱俊は武威を増強し、国境警備に重点を置いて賊を防いだ。
国内では百姓を養い助け、また災害も起きず作物の実りも豊かだった。
建安二年(197年)、飢餓にあった袁術軍が兵糧の提出を求めてきたが、袁術を不快に思っていた駱俊はこれを無視する。
これに怒った袁術は刺客を放って駱俊を殺した。陳国の人は父母を亡くした時のように哀しんだという。

109:名無し曰く、
16/02/29 09:30:04.01 SEX95pkd.net
気にもとめていなかったけど張南いないのね
相棒は初期統率高いせいかよく見かけたけど

110:名無し曰く、
16/02/29 22:58:01.64 Cv0ggktQ.net
張裔 君嗣 チョウエイ クンシ (166or167~230)
統率:62 武力:41 知力:79 政治:82
益州蜀郡成都の人。許靖から鍾ヨウに匹敵すると評価されたが、公平性に欠ける面があった。
劉璋の時に孝廉に挙げられ益州従事、帳下司馬となる。
建安十七年(212年)、侵攻する張飛を広漢郡の徳陽で迎撃したが、敗北し成都に帰還した。劉備政権では巴郡太守や司金中郎將に就いた。
後に雍ガイの抑えとして太守に派遣されたが、逆に雍ガイにより捕えられ呉に送られた。
建興元年(223年)、呉に赴いた鄧芝の提案により張裔の帰還が叶い、その後は諸葛亮に重用される。
227年に諸葛亮が北伐準備で漢中に駐屯した際は、留府長吏(丞相の政務代行)に任命された。

111:名無し曰く、
16/03/02 22:17:13.50 Q+BUTMBl.net
宗預 徳豔 ソウヨ トクエン (188年頃?~264年)
統率:53 武力:20 知力:71 政治:62
荊州南陽郡安衆県の人。剛直な性格で、傲岸な鄧芝に対しても遠慮をしなかった。
建安十七年(212年)、張飛に従って益州入りし、丞相主簿や参軍・右中郎将に就く。
234年の諸葛亮没後、呉との国境付近で互いに防備を強化する事態が起こる。
呉へ赴いた宗預は「互いの情勢次第であり当然のこと」と答え、孫権から評価された。
延煕十年(247年)に初めて兵権を預かり永安の部隊を指揮していたが、景耀元年(258年)に中央に召し返される。
このころ諸葛瞻が政事を主導しており、廖化から挨拶に行くよう誘われたが断った。蜀降伏後、洛陽へ護送中に病死した。

112:名無し曰く、
16/03/03 22:54:33.90 nXtvqiaj.net
司馬駿 子臧 シバシュン シゾウ (232?年~286年)
統率:83 武力:52 知力:73 政治:62
晋の扶風王。司馬懿の七男で母は伏夫人。孝行で学問を好み、文筆に優れた。曹芳即位時は散騎常侍・侍講となる。
その後は各地の都督を歴任し、任地では農業を推し進めた。晋朝成立後は汝南王となる。
泰始四年(268年)に丁奉が芍陂に侵攻すると司馬望と共に撃破した。
270年に都督雍涼等州諸軍事に昇進し、免官となった兄・司馬亮の代わりに関中を守備。
咸寧元年(275年)に羌族の樹機能の反乱を鎮圧し、277年に再び背くと平虜護軍・文俶を派遣しこれを鎮めた。
この年に入朝し扶風王に遷る。讒言により司馬攸が領国行きとなると武帝を強く諌めた。

113:名無し曰く、
16/03/05 00:37:56.08 BOhAhGRZ.net
>>102
お疲れ
俺も調べようとしていたから助かる
因みに三国志11wikiの新武将も列伝もあるから参考になる

114:名無し曰く、
16/03/05 22:07:06.49 c1wc7wlj.net
楊彪 文先 ヨウヒョウ ブンセン (142年~225年)
統率:21 武力:17 知力:62 政治:78 (統率以外はⅧ準拠)
司隷弘農郡華陰県の人。楊修の父。妻は袁術の妹。
熹平年間に議郎となり馬日テイ、盧植、蔡ヨウらと東観(国史編纂室)で著作を行い、後に侍中・京兆尹に遷った。
董卓政権下では司空、司徒を勤め、長安遷都を強く反対して罷免されたが、後に復帰し九卿を歴任する。
興平元年(194年)の李カクと郭汜の内紛では一時危機に陥るも、献帝の帰還に最後まで付き添った。
曹操政権下では袁術の縁者ということで処刑されそうになったが孔融の取り成しで助命される。
また、散逸した『東観漢記』を完成させた。建安十年(205年)の罷免後は出仕せず八十三歳で没した。

115:名無し曰く、
16/03/07 00:09:44.30 WA7mpy9I.net
劉淵 元海 リュウエン ゲンカイ (251-253年~310年)
統率:80 武力:87 知力:78 政治:75
匈奴単于、漢皇帝。并州新興郡の匈奴。劉豹の子で母は呼延氏。幼くして学を好み、また武芸にも秀でて弓を得意とした。
咸熙中(264年頃)に人質として洛陽に送られる。王渾・王済親子とは親しく付き合い、司馬炎に謁見すると高く評価された。
父が死ぬと左部帥を継ぎ、後に匈奴五部全体の都督として十年間部族を治めた。
八王の乱では、ギョウで司馬穎の配下として活躍したが、機を見て胡地に帰還し永興元年(304年)に漢王に即位。
司馬騰などを破り并州を制圧して皇帝に即位した。生前に洛陽攻略こそ果たせなかったものの、後の前趙の基盤を築いた。

116:名無し曰く、
16/03/09 22:34:43.89 U95Ki46Y.net
王商 文表 オウショウ ブンヒョウ (?~211年)
統率:10 武力:7 知力:71 政治:65
益州広漢郡郪県の人。王甫の兄。劉焉に招かれ治中従事となる。多くの人物を推挙して、そのいずれもが高官に登った。
初平四年(193年)、劉焉は馬騰と同盟し李カクを討とうと計画したが、それに強く反対する。
しかし聞き入れられず、また襲撃は失敗に終わり劉焉の長男と次男も殺害されてしまった。
失意の劉焉が没するとその末子の劉璋を後継に擁立する。
その後、馬超が劉璋との同盟を持ちかけてくると、王商は強く諌め、劉璋もそれに従った。
蜀郡太守を十年務めたが、学問を修め農業を広めて住民の暮らしを助けた。また先賢の碑文を建て故人を顕彰した。

117:名無し曰く、
16/03/10 23:25:09.90 Wv4tMn9K.net
于毒 ウドク (?~193年)
統率:58 武力:67 知力:32 政治:14
黒山賊の頭目の一人。黄巾の乱に呼応して蜂起する。
初平二年(191年)の秋、黒山賊の白繞やスイ固らと共に十万の兵で魏郡および東郡を攻めた。
太守の王肱はこれを防げず、曹操が東郡に入り濮陽で白繞を撃破した。
翌年春、曹操の軍が頓丘にいる隙を突き、東郡の政庁のある東武陽を攻撃した。
しかし曹操が本拠地・黒山の攻撃に向かったため慌てて撤退する。スイ固はその帰路で撃破された。
193年、袁紹の留守を狙ってギョウ城を攻撃し、兵の内応によって太守の栗成を殺害する。
袁紹が帰還すると朝歌の鹿馬山の蒼厳谷に籠城したが五日後に陥落し斬られた。

118:名無し曰く、
16/03/13 23:16:48.13 4Vz581pa.net
鄭度 テイド (生没年不詳)
統率:18 武力:20 知力:77 政治:54
益州広漢郡緜竹県の人。劉璋の従事。
劉璋は張魯対策に劉備を葭萌関へ派遣していたが、建安十七年(212年)突如として劉備が反旗を翻し益州攻略に乗り出した。
益州従事の鄭度は劉璋に進言した。「巴西・梓潼の住民を移し、その地の食となる物をすべて焼き払い、
さらに固く籠城していれば兵糧難の劉備は百日もしないうちに敗走します。そこを追撃すれば簡単にとらえることができましょう」と。
しかし、その計略は却下され、鄭度も罷免された。演義でも同様の展開。

119:名無し曰く、
16/03/16 23:55:48.85 hc1KCqar.net
劉放 子棄 リュウホウ シキ (?~250年)
統率:31 武力:20 知力:79 政治:76
幽州タク郡の人。漢の西郷侯劉容の子孫で皇族。郡の綱紀を歴任し孝廉に挙げられた。
天下が乱れると漁陽の王松に依り、曹操が官渡で袁紹を破ると王松に曹操への帰順を説く。
建安十年(205年)に出仕し参司空軍事や主簿記室などを歴任した。
魏建国時から孫資とともに秘書の任に就き、曹丕が即位すると中書監に遷り機密を扱った。
劉放は書と檄文に長け、曹叡の代までの勧告文をほとんど手がけた。曹叡が危篤となると曹爽と司馬懿に後事を任せるよう説得した。
劉放らは長く政治の中枢にいて大権を有したため、非難を受けることが多々あった。

孫資 彦龍 ソンシ ゲンリュウ (?~251年)
統率:25 武力:51 知力:77 政治:72
并州太原郡の人。太学で経書の注釈を学び、また王允から評価された。
建安元年(196年)に曹操から招聘されたが、殺された兄の復讐で人を殺めたため河東に移り住んだ。
友人の賈逵の説得を受けて出仕し、県令をへて参丞相軍事となった。
魏建国時から劉放とともに秘書の任に就き、曹丕が即位すると中書令に遷り機密を扱った。
太和六年(232年)、呉が遼東へ周賀を派遣すると、その迎撃に賛同し田豫により打ち破られた。
曹叡が危篤となると曹爽と司馬懿を推薦した。孫資らは長く政治の中枢にいて大権を有したため、非難を受けることが多々あった。

120:名無し曰く、
16/03/23 22:41:24.92 XH+lWYED.net
曹志 允恭 ソウシ インキョウ (?~288)
統率:31 武力:53 知力:72 政治:32
曹植の末子。若くして学を好み、騎射に優れ、才能と品行を称えられた。
曹植から「家をよく保全する者」として後継に立てられ、父の死後に王位を継ぐ。
甘露五年(260年)の曹髦の死後、次期皇帝・曹奐を迎える使者として鄴に派遣される。
その前夜に司馬炎と会見したが、翌日まで語り合い高く評価された。
晋建国後は鄄城公に立てられ、各地の太守を歴任したが政務にはあまり熱心ではなかった。後に博士祭酒に遷る。
司馬攸の領国行きの件では父の不遇を思い起こし強く諌めたが、これが武帝の怒りに触れて免職となる。後に散騎常侍に復した。

121:名無し曰く、
16/03/25 23:12:18.01 YkZco3EO.net
何夔 叔龍 カキ シュクリュウ (?~220年頃?)
統率:65 武力:47 知力:73 政治:77
豫州陳郡陽夏県の人。子に何曾。八尺三寸の偉丈夫で慎みと威厳のある容貌だった。
戦乱を避け淮南に避難したが袁術に引き留められる。何?は袁術への協力を拒み山中に隠れたが、親戚にあたるため見逃された。
建安二年(197年)、秘密裏に袁術の勢力圏からの脱出し、曹操の属官として召し出された。
後(199年頃)に地方に出て青州の長広郡の太守を勤め、その地で跋扈する賊を説得や討伐によって鎮圧した。
魏が建国されると太子・曹丕の少傅(もりやく)に就いた。
何夔は正道を重んじたが、倹約の時代にあってもっとも贅沢をしていた。諡は靖侯。

邢顒 子昂 ケイギョウ シコウ (?~223年)
統率:12 武力:23 知力:60 政治:75
冀州河間郡鄚県の人。孝廉に推挙され司徒に招聘されたが行かず、右北平で田疇の客となった。
建安十年(205年)、曹操が冀州を平定すると故郷に戻り、柳城遠征の先導を志願した。
後に冀州従事や各地の県令を歴任し、徳行や法律制度の通暁を称えられた。また、任地では農業養蚕を勧め教化が行き渡った。
後に曹植の家丞に取り立てられたが、礼を持って取締り言いなりにならなかったため曹植から疎んじられた。
後継に悩む曹操から質問を受けると、嫡子の正統を説き曹丕の太子少傅となった。
曹丕が即位すると侍中・尚書僕射となり関内侯を賜った。

122:名無し曰く、
16/03/27 23:20:42.13 hFleDdDe.net
楊豊 伯陽 ヨウホウ ハクヨウ  (?~240年頃?)
統率:56 武力:78 知力:65 政治:23
涼州酒泉郡の人。幼名を阿若。若い頃から侠客で仇討の代行を生業とした。
当時の人からは「東市で相い斬る楊阿若、西市で相い斬る楊阿若」と称された。
建安年間、一族の報復として黄昂が酒泉郡を攻撃した。
これを不義と感じた楊豊は、張掖に救援を求めたが張掖でも反乱が起こり、二郡から賞金首として狙われる。
楊豊は単騎で南羌に入ると千人ほどを手に入れ、大軍に見せかけ賊を散らし、黄昂を捕えて斬った。
220年、同族の黄華が郡を支配すると逃れたが、蘇則の活躍で帰還する。
州から義と勇と上奏され、詔勅により駙馬都尉に任命された。

123:名無し曰く、
16/03/30 23:26:43.70 Mo9z+4FB.net
孟節 モウセツ (生没年不詳)
演義の登場人物。孟獲、孟優の兄。両親の死後、孟獲らは悪行を繰り返し王化に帰さなかった。
孟節が諌めても聞き入れなかったため、万安渓に隠棲して万安隱者と号した。
建興三年(225年)南征のおり、毒泉の対処に困った諸葛亮が山の神の導きで草庵を訪れると、解毒の泉や瘴気除けの薬草を与える。
その際、諸葛亮から南蛮の王となるよう勧められたが、「功名を嫌って隠棲している」と言い断った。

124:名無し曰く、
16/04/06 21:16:57.88 bnbj1cay.net
常林 伯槐 ジョウリン ハクカイ (生年? 没年234年~239年? 82歳で死去)
統率:66 武力:23 知力:71 政治:73
司隷河内郡温県の人。学問好きで、経典を持って耕作に従事した。
初平元年(190年)、河内太守の王匡により叔父が逮捕されたが、王匡と同郷の胡母彪に道理を語り現状を訴えたため結局許される。
その後は上党に避難し陳延の保塁を頼った。財貨を目的に張楊から六十日に渡り包囲を受けるが、策略により保塁を保った。
梁習の推薦で曹操に仕え、博陵太守や幽州刺史を務め業績をあげた。
清廉潔白にして職務に厳格な人柄で、魏が建国されると尚書に任命され、その後は九卿を歴任する。
司馬懿は常林より高官であったが、身分を超えて敬意を表した。

125:名無し曰く、
16/04/07 20:57:16.09 INgUcPD0.net
闕宣 ケツセン (?~193年頃?)
徐州下ヒ郡の人。『論語』にみえる「闕党の童子」や縦横家の闕子の一族と言われる。
初平四年(193年)、数千人の軍勢を集め天子を自称する。
徐州牧の陶謙と共に挙兵し、泰山郡の華県、費県を攻略し任城を略奪した。
陶謙とは初めは連合していたが、後に陶謙に殺され勢力を吸収された。

126:名無し曰く、
16/05/08 07:46:33.97 lE2D/e77.net
>>102
楊彪はⅣに出てるだろ

127:名無し曰く、
16/06/13 14:47:46.52 BD+n/POZ.net
                                          \      /
                                          _   争   _
                          / ̄ ̄ ̄\         _    え   _
                        /ノ / ̄ ̄ ̄\        _    :   _
                       /ノ / /        ヽ    .   _   :    _
                       | /  | __ /| | |__  |                
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           /  ∧/  | \   |/          ∨  /|  |  ハ ∧

128:名無し曰く、
16/06/25 20:59:25.36 T0bqVC40.net
韓曁 公至 カンキ コウシ (158年以前?~238年 80を過ぎて宰相となったとの記述から)
統率:42 武力:34 知力:62 政治:72
荊州南陽郡堵陽県の人。韓王信の子孫。父と兄の仇討によって名をあげた。
戦乱を避けるため、姓名を変え山中に隠れ住んだ。袁術や劉表から招聘されても
断っていたが、劉表からひどく恨まれたため宜城の長に就いた。
曹操が荊州を平定すると監冶謁者となり、鉱石製錬用の「ふいご」を改良し利益を三倍に増やす。
文帝が即位すると列侯に、黄初七年(226年)には太常に昇進した。
当時洛陽に遷都したばかりで、宗廟がギョウに残っていたため移動を請願し、
229年には使者に任命され位牌を移送する。韓曁は礼に正しく、淫祀を匡正することが多かった。

129:名無し曰く、
16/06/26 21:02:22.42 O8r06t+s.net
支謙 恭明 シケン キョウメイ (?~252年以降 享年59歳)
統率:5 武力:10 知力:71 政治:34
西域の月支国の人。一名に越。在家の訳経僧。霊帝期に漢に帰化した月支の末裔。
若くして漢書、胡書を学び六ヶ国語に精通。支婁迦讖の弟子・支亮に師事して経典の研究をきわめた。
支謙は長身の色黒痩躯、目は三白眼で瞳は黄色、
当時の人からは「支郎の眼中に黄あり、体は細くも知恵袋」と言われた。
後漢末の乱で呉に避難し、孫権に才能を認められ博士に任命されると、韋曜らと孫和の教導にあたった。
三十年にわたり『維摩詰経』『阿弥陀経』『法句経』『太子瑞応本起経』など四十九経を漢訳する。
孫亮即位後は穹隆山に隱居した。

130:名無し曰く、
16/06/27 21:03:47.46 QhV0OwEd.net
唐姫 トウキ(姫は官名) (生没年不詳 生年は少帝誕生の173年付近だろうか)
豫州潁川郡の人。父は会稽太守・唐瑁。少帝・劉弁の妻。
初平元年(190年)に反董卓連合が挙兵すると、董卓は廃位した弘農王の存在を危惧し、李儒を差し向けて謀殺を図った。
劉弁は李儒の態度から殺意を悟り官女たちと最期の宴を催すと、唐姫に別れの言葉を告げて自害した。
劉弁死後、故郷に戻った唐姫は父から再婚を勧められるも拒絶し続ける。
後の192年に李カクが関東を略奪すると捕えられ、李カクから妻に求められたが無言を通した。
賈クから事情を聴いた献帝は唐姫の境遇を悲しみ、詔によって迎え入れて園陵に置き、侍中を遣わし弘農王妃とした。

信憑性の低い『宰相世系表』によると祖父の兄は中常時・唐衡。

131:名無し曰く、
16/06/28 22:09:57.45 zjn8jZMb.net
伏寿 フクジュ (?~214年 生年は献帝誕生の181年付近だろうか)
徐州琅邪郡東武の人。父は伏完。初平元年(190年)に長安で献帝の貴人となり、興平二年(195年)に皇后に立てられた。
同年の献帝帰還時に持っていた絹を董承に奪われ、安邑県に着いた時には服は穴があき擦り切れていた。
その後は献帝と共に許都で暮らすが、董貴人の事件で父に曹操の残虐を訴える書状を密かに出す。
しかし、父の死の五年後の建安十九(214年)にこれが露見し、曹操の命により暴室へ幽閉され死去する。
王嘉の『拾遺記』には、興平二年の逃亡時に献帝を背負い急流を渡河する、兵禍から庇う、献帝の傷を癒すといった神秘的な逸話が残る。

132:名無し曰く、
16/06/29 22:45:59.55 cUOqveGt.net
趙直 チョウチョク (生没年不詳)
蜀漢に仕えた夢占い師。出身や身分は不明だが、蜀地方の夢占いでは第一人者のようで複数の人物から相談を受けている。
何祇の「井戸の中に桑が生えている夢」から没年を、
蒋エンの「一つの牛の頭が門前に転がり、血を流す夢」から宰相に就き「公」に昇ることを予言し的中させた。
また、建興十二年(234年)の五丈原の戦いに従軍していたようで、魏延の「頭に角が生える夢」についても質問を受けている。
ただし、夢の解釈が死を暗示する不吉なものであった為、魏延には「敵が自ずと敗れる」と説明した。『演義』での官爵は行軍司馬。

133:名無し曰く、
16/06/30 20:16:31.63 tmIKnV7n.net
毌丘興 カンキュウコウ (?~232年までに死去)
統率:70 武力:51 知力:66 政治:53
司隷河東郡聞喜県の人。毌丘倹の父。
建安十九年(214年)安定太守に任命された際に曹操の忠告を無視して羌族に使者を送り、使者の増長を招く。
黄初元年(220年)に武威太守に着任すると、長く続いた騒乱を鎮め羌族を懐柔し従属させた。
同年、黄華と張進が反乱を起こし各地を扇動すると、武威の反乱を未然に防ぎ、蘇則と共に精鋭を率いて張掖郡に進軍し太守の杜通らを救出する。
張掖郡の二県が降伏すると彼らを落ち着かせ農耕に従事させた。
張既の上奏により功績を認められ、高陽郷侯に取り立てられて後に中央に入って将作大匠となった。

134:名無し曰く、
16/07/01 20:12:24.13 2OsP6nYN.net
張昌蒲 チョウショウホ (昌蒲は字) (199年~257年) 
并州太原郡茲氏県の人。鍾ヨウの妾。鍾会の母。代々二千石の家柄で、若くして父母を失い鍾ヨウの嫁いだ。
鍾会著の伝記によれば、正妻の孫氏から疎まれ毒を盛られたが、妻同士の争いは家を滅ぼすとして黙って療養し、後に事が露見すると孫氏は離縁された。
平素より書物を好み『易』と『老子』を特に愛好した。また、鍾会の幼いころから学問を教授し、謙虚と慎重さの重要性を常に戒めていた。
249年の正始の変の際に鍾会は帝に随行していたが、司馬懿の挙兵は曹爽討伐だと判断し、動じる様子がなかったためその明察ぶりを称えられた。

135:名無し曰く、
16/07/03 22:56:32.67 QzwN4q6u.net
諸葛融 叔長 ショカツユウ シュクチョウ (?(204年以降)~253年)
統率:59 武力:47 知力:54 政治:41
徐州琅邪郡陽都県の人。諸葛瑾の三男。父や兄と違い贅沢を好み、寛容な性格でさまざまな技芸に通じた。
また、宴会好きで部下からよく慕われていた。赤烏年間、病死した陳表に替わって毗陵での屯田を引き継ぐ。
赤烏四年(241年)に父が死去すると、爵位持ちの兄にかわり父の位と部隊を継承、公安に駐屯する。
施績とは元から仲が悪かったが、250年の江陵攻撃から撤退する王昶に対して、約束を破って兵を出さなかったため関係がさらに悪化した。
253年の政変で兄・諸葛恪が孫峻に誅殺されると、施寛率いる施績、孫壱、全煕らによって居城を包囲され自害した。

136:名無し曰く、
16/07/04 22:04:02.50 fLIfUq50.net
杜夔 公良 トキ コウリョウ (生没年不詳 188年から220年までは活動が確認できる)
司州河南尹の人。優れた音楽感覚を持ち、八種の楽器を全て演奏できたが舞と歌だけは苦手だった。
雅楽郎に任命されたが中平五年(188年)に病のため官を去った。
その後、州や司徒から招聘があったが全て断り、戦乱を避け荊州に避難する。
劉表から孟曜とともに天子のための楽団作りを命じられこれを完成させる。
曹操が荊州を平定すると宮中の音楽制定に携わり、技芸の研究や芸能者を育成して古代の音楽を後世に伝えた。
後に曹丕の不興を買い獄に繋がれると、曹丕はその音楽を左願らに習わせようとしたが拒絶したため、官を免ぜられた。
※左願は正確には左〔馬眞〕(サテン)

137:名無し曰く、
16/07/06 20:09:49.76 j8hCYnrk.net
尉仇台 イキュウダイ (生没年不詳)
統率:58 武力:42 知力:43 政治:45
夫余族の王。父は夫台だろうか。公孫度が遼東を支配し、異民族に畏服されるようになると夫余族もこれに従った。
この当時(190年~204年ごろ)高句麗と鮮卑の勢いが強かったため、
公孫度はその二族の間にいる夫余を味方につけるべく一族の娘を尉仇台に娶らせた。
120年に夫余王子として尉仇台の名が出てくるが、年代から考えて別人であると推測される。
また、百済の王と同一視されることもあるが、年代や周辺国の記述があわないため関係性は薄いと考えられる。

138:名無し曰く、
16/07/07 21:11:25.08 IgjibCy3.net
弓遵 キュウジュン (生没年不詳)
統率:62 武力:57 知力:37 政治:48
魏の帯方太守。劉夏に代わって帯方太守となり、
240年に朝貢への返礼として梯儁らを倭に派遣して詔書、 印綬、宝物などを女王卑弥呼に下賜する。
245年、濊が高句麗の支配下に入ったことから楽浪太守・劉茂と共に濊を攻撃し降伏させた。
部従事の呉林は過去と同様に辰韓の八ヶ国を楽浪郡に組み入れようとしたが、
役人や通訳の間で話しがまとまらない間に 韓族の臣智(大酋長)が諸部族の怒りを煽って反乱を起こした。
これに対し弓遵と劉茂は討伐軍を起こしたが、弓遵はこの戦いで戦死する。しかし、劉茂と残った部隊によって韓は滅ぼされた。

139:名無し曰く、
16/07/10 22:22:42.41 220FLm7L.net
董扶 茂安 トウフ ボウアン (生没年不詳)
益州広漢郡綿竹県の人。若くして経書を学び、楊厚に師事し図識(天文による予言の一種)を極めた。
太学に遊学した後は故郷で教師をして暮らし、朝廷からの招聘を何度も断り続けていたが、
霊帝の時代に何進の招聘を受け侍中に任命される。
朝廷内では儒宗と仰がれていたが、都の混乱を予期し劉焉に「益州には天子の気がある」と進言した。
また自身も益州行きを希望して、蜀郡の属国都尉として益州へ赴任する。
益州では董扶と対等に議論できる者がいなかったため「至止(議論が止むの意)」と呼ばれた。
後に官を去って八十一歳で没した。

140:名無し曰く、
16/07/13 19:13:26.47 KnFecZ6O.net
司馬衷 正度 シバチュウ セイド (259年~306年)
統率:6 武力:18 知力:28 政治:13
司隷河内郡温県の人。司馬炎の次男で母は楊艶。西晋二代皇帝。兄の司馬軌が夭折したため皇太子に立てられた。
暗愚であることを疑われたが、聡明な子・司馬イツの存在や賈南風の策により廃嫡を免れ、
太熙元年(290年)に司馬炎の死によって皇帝に即位した。
しかし、即位しても外戚や皇后、または八王達が政治を壟断したため、主権を握ることはなかった。
また八王の乱の混乱によりギョウや長安に連行されたり、一時は廃立されたりと波乱の人生を送る。
光煕元年(306年)、長安から洛陽に帰還を果たし同年十一月に崩御した。

141:名無し曰く、
16/07/14 20:05:05.11 nNnkhPOJ.net
>>128
韓曁の子孫の韓寿が賈南風の妹の賈午とくっついてあの賈謐生んだんだよなぁ

142:名無し曰く、
16/08/26 22:15:54.61 /CxfFBQ6.net
鄭氏 姜氏 テイシ キョウシ (?~217以前)
後漢の女賊。あるとき劉楨が「四本足の蛇が門の中に住み着いている」という夢を見て、その内容を周宣に占わせた。
周宣は「この夢は国家に関わるものであり、おそらく女の反乱者が誅殺されるだろう」と解釈した。
その後、はたして女賊の鄭氏と姜氏がそろって撃ち滅ぼされた。

143:名無し曰く、
16/08/27 20:33:10.65 L95RdSPS.net
趙戩 叔茂 チョウセン シュクボウ (生没年不詳 享年59歳)
統率:12 武力:20 知力:62 政治:65
京兆郡長陵県の人。学問を好み、『詩経』『尚書』の言葉をよく用いた。また、人を労わり公平であった。
三公府に召されると、尚書選部郎として官吏の起用を担当する。董卓が気に入りの人間のみで尚書を満たそうとしたが、これを拒絶。
激怒した董卓から詰問を受けたが、厳しい態度で是非を述べたところ董卓から謝罪された。
王允が殺害されると危険を冒して遺体を収容し、その後は荊州に避難した。曹操が荊州を平定すると丞相掾に取り立てられる。
劉備の蜀侵攻は失敗すると予想した。その後は、曹丕の司馬、鍾繇の長史を勤めた。

144:名無し曰く、
16/08/28 23:25:24.95 mTgu6qGL.net
龐林 ホウリン (生没年不詳 生年は180年以降)
荊州襄陽郡の人。龐統の弟。妻は習氏。建安十三年(208年)、曹操の荊州侵攻の際に妻や娘と離ればなれになる。
章武二年(222年)の夷陵の戦いに参加し、荊州治中従事として鎮北将軍・黄権の元で江北の守備に当たった。
劉備の敗北後は黄権について魏に投降し、その際に生き別れになっていた妻子と再会することができた。
魏では列侯に封じられ、官位は鉅鹿太守まで登った。

145:名無し曰く、
16/08/29 22:24:47.06 2qhqBiry.net
習氏 シュウシ (生没年不詳)
荊州襄陽郡の人。習禎の妹。龐林に嫁ぎ娘を産んでいたが、
建安十三年(208年)に起こった曹操の荊州侵攻に際して夫と生き別れになる。
その後は魏で生活し一人で娘を養育していたが、222年に龐林が魏に投降してきたため再び夫婦で暮らせるようになった。
魏皇帝・曹丕はこの件を知ると、習氏を賢婦と称えて寝台、帳、衣服を下賜しその節義を顕彰した。

146:名無し曰く、
16/08/30 21:01:01.93 gtwceOdA.net
任安 定祖 ジンアン テイソ (124~202)
益州広漢郡緜竹県の人。若くして太学で学び、董扶らと楊厚に師事した。
図識を極め、時の人から「疑問があれば楊厚は任安に問う」と言われる。
後に故郷で学問を教え、名声は董扶と同等であった。
郡や州からの要請で官に就くも長くは在任せず、その後は推挙や招聘を断り隠棲する。
また、秦宓の推薦により劉焉が朝廷へ上奏したが、戦乱のため招聘の命は下らなかった。
弟子に杜微、杜瓊、何宗がおり、彼が死去すると碑銘が建てられた。
後年、諸葛亮が秦宓に任安の長所を聞くと「人の善行を記憶し、人の過失を忘れること」と答えた。

147:名無し曰く、
16/08/31 22:02:14.93 PsXc653q.net
左思 泰沖 サシ タイチュウ (生没年不詳 死去は303年の数年後)
青州斉国臨淄県の人。父は左熹、妹に左棻。妻は翟氏。寒門出身で容貌は醜く吃音だったが、学問に励み文章に優れた。
『斉都賦』の作成後、三国の賦の作成を決意。妹が宮中に入ると洛陽に移住し、各都の資料を得るため秘書郎に就く。
その後、構想から十年を経て『三都賦』を完成させるも、世間の評価は低かった。
しかし、皇甫謐など著名人から序文や注釈を得るにつれ評価が高まり、
多くの人々が筆写したために洛陽の紙価が高騰するほどの人気を博した。
後に賈謐の招きに応じ『漢書』を講じ、賈謐が誅殺されると隠棲して冀州で病没した。

※『晋書』では字が太沖、父が左雍、妹が左芬と表記されるが、同時代の墓碑である『晉左貴人棻墓誌』の記述を優先した。

148:名無し曰く、
16/09/01 23:14:54.03 7FzrFpCF.net
左棻 蘭芝 サフン ランシ (?~300)
青州斉国臨淄県の人。父は左熹、兄に左思。司馬炎の妃。若くして学を好み文章を良く綴った。
兄に次ぐ名声があったため司馬炎から宮中に迎えられる。
泰始八年(272年)に修儀(後宮の位)を拝し、後に妃の最高位・貴嬪に昇った。
容貌が醜いため寵愛はなかったが、その文才により厚遇される。
また、病弱で常に病室にいたため、司馬炎は華林園で遊ぶときは(気を使って)部屋を過ぎると車を返した。
帝からたびたび文章作成を命じられたが、完成するとその都度恩賜が下された。
書や賦、頌は数十篇におよび、代表作に『離思賦』などがある。

149:名無し曰く、
16/09/03 21:01:29.02 6RpZulfI.net
董恢 休緒 トウカイ キュウチョ (生没年不詳)
荊州襄陽郡の人。蜀漢の巴郡太守。
若い頃、董允が費イらと宴会に出ようとした所に折り悪く訪問したが、董允は予定を取りやめ、そのまま引き止められた。
その後、費イの副使として呉を訪問する。
ある日、泥酔した孫権が「楊儀、魏延の重用は後の災いを招く。これは良い計画かな?」と尋ねたところ、
費イは返答に詰まってしまう。そのとき董恢が「楊儀、魏延に反逆心はなく、統一事業に必要不可欠。
これを捨てることは良計とは言えません」と答えたため、孫権は大いに笑った。
帰国後、報告を聞いた諸葛亮は丞相府属とし、巴郡太守に任命した。

150:名無し曰く、
16/09/05 22:57:45.19 UCpK0/yf.net
盧毓 子家 ロイク シカ (183年~257年)
統率:31 武力:26 知力:72 政治:78
幽州涿郡涿県の人。盧植の四男。魏の政治家。九歳で父や兄を亡くし、嫂と甥を養いつつ生計を立てた。
曹丕から召し出され、崔琰の推挙で冀州の主簿となる。その後、各地の太守を歴任した。
明帝は諸葛誕らの虚名を嫌い名士の不採用を命じたが、「常人は品行により名声が立つので忌むべきではありません」と答える。
また、盧毓は長く人材登用に携わったが人格、品行を重んじ、才能はその次という方針を採った。
249年の司馬懿の政変では裁判を担当し、謀反の疑いで曹爽らを処刑。毌丘倹の乱では司馬師の代わりに留守を取り仕切った。

151:名無し曰く、
16/09/06 22:58:19.06 cv2Jw6d/.net
王連 文儀 オウレン ブンギ (生没年不詳 没年は225年以前)
統率:28 武力:27 知力:64 政治:80
荊州南陽郡の人。蜀漢の政治家。劉璋の時代に蜀に移り、梓潼の県令を務める。
建安十八年(213年)、劉備の蜀攻めでは城門を閉ざし降伏しなかった。
劉備はその義心を評価して無理に攻撃せず、益州平定後は各地の県令を任せた。
その後、司塩校尉に昇進すると塩と鉄の市場を管理して利益を増し、国の収益を大幅に増やした。このとき、呂乂、杜祺、劉幹などを抜擢。
建興元年(223年)に屯騎校尉、丞相長史(幕僚長)を兼務し平陽亭侯に封じられる。
当時、南征を志す諸葛亮に対して危険すぎると幾度も諫言し、彼の存命中は南征は行われなかった。

152:名無し曰く、
16/10/18 19:52:05.55 R+rWoX5O.net
公仇称 コウキュウショウ (生没年不詳)
後漢の零陵太守。孫堅の長史。初平元年(190年)、魯陽城を拠点とした孫堅から、兵糧の督促のため荊州に派遣されることとなった。
送別の宴が東門の外で行われたが、董卓の軽騎兵に襲撃される。
しかし、孫堅が落ち着いて行動したため、兵も混乱せず無事入城でき、また董卓軍も動きを警戒して撤退した。
『古今姓氏書辯證』によると晋の文侯・姫仇の後裔とされる。

153:名無し曰く、
16/10/20 21:00:02.02 RSNS3sxZ.net
程畿 季然 テイキ キゼン (?~222年)
統率:57 武力:79 知力:67 政治:58
益州巴西郡閬中県の人。初め劉璋に仕え、漢昌の県長を勤めた。
巴西太守・龐羲は県内の異民族を警戒して私兵を集めたが、これを劉璋に讒訴する者がいて両者の関係は険悪となる。
龐羲は子の程郁を遣り懐柔を図ったが、程畿は拒絶し逆に説得して事態を収束させたため、江陽太守に昇進した。
劉備が益州を治めると従事祭酒に任命される。後に呉征討の軍に従い、夷陵で劉備が敗れると船で撤退する。
呉の追撃を受けると、自ら戟を持って奮戦。敵船の中には転覆するものもあったが、衆寡敵せず戦死した。
『演義』では呉兵に包囲されると自刎した。

154:名無し曰く、
16/10/21 19:50:16.17 YbxvFgnp.net
楊琁 機平 ヨウセン キヘイ (生没年不詳)
統率:62 武力:10 知力:82 政治:78
揚州会稽郡烏傷県の人。父は楊扶、兄は楊喬。初め孝廉に推挙され、霊帝期に零陵太守となる。
光和三年(180年)、蒼梧や桂陽の住民が反乱を起こし郡県の役所を攻撃した。
楊琁は、馬車に石灰を積んで煙幕を張り、次に馬の尾を繋いだ布に火をつけることで馬車を敵陣に突撃させ、
最後に戦車に乗った弓弩兵の攻撃によって賊軍に大勝し首領を討った。
一時、荊州刺史・趙凱の誣告で投獄されるも、血で記した訴えにより無実を勝ち取る。
議郎から勃海太守に遷ると業績を上げた。後に尚書僕射を拝するが、病気で隠居を乞い家で没した。

※補足 
先祖の楊茂は元々河東郡の人で、光武帝に従い烏傷に封じられたが罪を経て国は除かれた
父は有能な交趾刺史として名が知られた
兄は容儀偉麗で桓帝から才能と風貌を愛された 公主を妻にと詔が下ったが拒否し断食で死亡
賊の攻撃あったとき、賊は数が多く、楊琁は「力が弱いため」役人は恐れおののいた、とあり、なめられてた様なので、統率、武力の評価は低くした
戦功偽装の罪で投獄され、牢屋は警備が厳しく自由に訴えもできなかったため、
肘(?)を噛んでその血を使って服に詳しい戦況や趙凱の誣告の罪を書き連ね、密かに親族に渡してお上に訴えた。
張温が尚書令であるとき(184年以前)に尚書僕射に推薦された

155:名無し曰く、
16/10/22 19:36:57.03 +d5+Paws.net
公沙廬 コウサロ (?~196年以前)
青州北海郡膠東県の人。後漢の方士・公沙穆の同族か。
公沙氏は県下で有力な豪族で、自ら防備を固め租税を払わなかった。
しかし、膠東令に就いた王脩は数騎で屋敷に突入すると公沙廬兄弟を斬り、他の一族を慰撫したため県内は落ち着いた。

156:名無し曰く、
16/10/23 20:32:05.25 qaxz+6DG.net
裴潜 文行 ハイセン ブンコウ (?~244)
統率:70 武力:32 知力:68 政治:77
司隷河東郡聞喜県の人。裴茂の子。裴秀の父。魏の政治家。戦乱を避け荊州に避難していたとき、王粲や司馬芝と親しく劉備とも交流があった。
劉表の失敗を予期し長沙まで下っていたが、曹操により参丞相軍事に取り立てられる。
いくつか県令を経た後、烏丸と接する代郡太守を務めて地域を安定させた。その後は兗州刺史を勤める。
219年、合肥への援軍を命じられたが、温恢の忠告から不意の召集に備えたため、徐晃の援軍として関羽追討の部隊に参加する。
その後は曹丕、曹叡の時代を通じて地方や中央で要職を務め、太尉軍師・大司農に昇進した。

157:名無し曰く、
16/10/24 19:32:29.76 8jTl+/j8.net
裴儁 奉先 ハイシュン ホウセン (生没年不詳)
司隷河東郡聞喜県の人。裴茂の子。裴潜の弟。蜀漢の政治家。
裴儁が十余歳のとき、姉の夫が蜀中長史になったため任地まで送っていった。
しかし、そのとき天下が乱れ治安が悪化したため、蜀にそのまま留まった。成長すると評判を上げ周囲から重んじられる。
劉備政権では光禄勲に就き、孟光が煙たがられていたこともあって、彼より若年であったが位は高かった。

158:名無し曰く、
16/10/25 19:06:57.64 GlLbIsd2.net
裴徽 文季 ハイキ ブンキ (生没年不詳)
司隷河東郡聞喜県の人。裴茂の末子。裴松之の六世祖。魏の政治家。
高い才能と遠大な見識を持ち、よく玄妙の理について語った。
傅嘏と親しく、太和初年(227年)に傅嘏と荀粲が互いに重視する理論の違いから口論することがあると、裴徽は両者の間を取り持ち和合させた。
正始(240~249年)の頃は吏部郎を勤め、年少の王弼が訪ねて来ると一目で高く評価し「無」について質問をした。
冀州刺史の頃(244年)、趙孔曜の推挙により管輅を文学従事の官に招聘する。
実際に彼と会ってみると意気投合して友誼を結んだ。傅嘏の伝によると早世したとある。

159:名無し曰く、
16/10/26 21:01:00.31 KrQJqqiY.net
皇甫謐 士安 コウホヒツ シアン (215年~282年)
涼州安定郡朝那県の人。皇甫嵩の曾孫。皇甫叔侯の子。西晋の学者。
叔父の家で二十歳まで放蕩三昧を尽くしていたが、叔母の説得で発奮し勉学を始める。農業の合間に経典を読み、また著述に励んだ。
仕官はせず寝食を忘れて典籍に取り組む様子から、当時の人から「書淫」と言われる。
嘉平六年(254年)、生母の喪に服するため帰郷。その後は司馬炎などから度々招聘されたが、風痺を患っていたため皆断った。
著作は多岐にわたり『帝王世紀』、『年暦』、『高士伝』、『列女伝』などの他、当時の鍼灸の書を整理した『鍼灸甲乙経』などがある。

160:名無し曰く、
16/10/27 20:46:23.89 N92Sawwz.net
許允 士宗 キョイン シソウ (?~254年)
統率:61 武力:20 知力:57 政治:67
冀州高陽郡の人。妻に阮氏。魏の官吏。名門出身で李豊や夏侯玄と親しく、印鑑の鑑定法に長けた。
明帝の頃、尚書選曹郎であったが罪を犯し袁侃と投獄される。刑期を終えた後は出世して侍中・尚書・中領軍となる。
正始十年(249年)、司馬懿の政変では陳泰と共に曹爽に投降を進言する。
251年に司馬師が政権を握ると王基は「許允らは正直の士で政治に参画させるべき」と文書で推薦し用いられた。
しかし、李豊逮捕の件で慌てた様子から司馬師に怪しまれ、
また劉靖の後任で鎮北将軍となった送別の席で横領罪が告訴され、流刑の途上で死去した。

161:名無し曰く、
16/10/28 22:14:28.28 Gw0+4hY4.net
阮氏 ゲンシ (生没年不詳)
兗州陳留郡尉氏県の人。父は阮共、兄は阮侃。阮籍と同族か。魏の許允に嫁いだが、許允は阮氏が醜いため部屋に入らなかった。
許允が桓範の説得で仕方なく入室すると裾を掴んで引き止める。
そのときの問答で「色を重んじて徳を重んじない」と言われた許允は自らを恥じ、互いに尊敬する仲となった。
許允が官吏の推挙の件で詰問を受けると、弁明の助言して窮地を救った。
後に反司馬氏であった許允が流刑となり途上で没すると、阮氏は墓所に居を移す。
司馬師の意を受けた鍾会が許允の息子を偵察に来ると、息子たちに助言して誅殺を免れさせた。

※許允の死について裴松之やカン丘倹は司馬師に誅殺されたと言い 晋書の司馬炎の紀には司馬昭に殺されたとある

162:名無し曰く、
16/11/01 19:33:45.84 AieEVbOc.net
劉緯台 リュウイダイ
後漢の元占い師。公孫瓚から寵遇されたが、凡庸であった。
なかでも劉緯台、李移子、楽何当らは特に重んじられ義兄弟の契りを結ぶ。
公孫瓚は自ら長兄の「伯」と称して、劉緯台ら三人を「仲」「叔」「季」と呼んでいた。
また、三人とも巨万の富を持つ大金持ちであったことから、娘を公孫瓚の息子に嫁がせていた。
公孫瓚はつねずね彼らを(貧民や絹商人から功臣となった)前漢の酈商や灌嬰の仲間と喩えていたという。

李移子 リイシ
後漢の絹商人。以下略

楽何当 ガクカトウ 
後漢の商人。以下略

163:名無し曰く、
16/11/02 21:27:42.57 wIpSU2ar.net
張世平 チョウセイヘイ (生没年不詳)
冀州中山郡の大商人。184年の黄巾の乱以前のこと、
張世平は商人の蘇双と千金の資本を持って、馬を買うために涿郡を行き来していた。
そこで劉備を見ると傑物だと思い、彼に多くの金財を与えた。
その資金のおかげで劉備は手勢を集めることが出来た。『演義』でもほぼ同様。

164:名無し曰く、
16/11/04 21:02:35.37 F5GTeO2u.net
王烈 彦方 オウレツ ゲンホウ (141年~218年)
并州太原郡の人。後漢の名士。陳寔に師事し、邴原や管寧よりも名声があった。
郷里が飢饉の際には私財を投じ、また教育のために学校を建設した。
地元では悪事や諍いがあると王烈に知られるのを最も恐れ、みな正道を歩んだ。
孝廉や三公府から招聘を受けたが応じず、董卓の乱が起きると管寧と共に遼東に逃れる。
公孫度から兄弟の礼で遇され長史に求められたが、商人に身を落として拒絶した。
また、民が横暴や不正を働かないよう遼東の地を導いた。
曹操は何度も彼を招聘しようとしたが、公孫康は王烈に代わって言い訳をして彼を行かせなかった。

165:名無し曰く、
16/11/05 20:49:47.45 cDx7KWTY.net
秦論 シンロン (生没年不詳)
大秦(ローマ)の商人。大秦の行商は扶南(現在のタイやカンボジア)、日南、交趾といった経路を通って往来していた。
秦論は黄武五年(226年)に交趾に到着し、交趾太守・呉バクにより孫権の元へ送られる。
孫権からは土地の風俗について質問された。時に諸葛恪が丹陽郡への討伐から帰還すると、黒い矮人を捕らえてきた。
秦論が「大秦にも稀にこのような者を見かけます」と言ったところ、
孫権は秦論に男女各十人を与え、また劉咸に秦論を送らせた。
劉咸は途上で亡くなったが秦論は本国へ帰還できた。

※補足
秦論の本来の名は、月支国のローカクシェーマ=支婁迦讖=支讖の例から
「lun」に近い音のルーキウス・ロリウス・ロングスのような感じかも。
秦論の記述は『梁書』によるもの。『三國志』では、226年は士燮の死んだ年で、そのときの交趾太守は薛綜?

166:名無し曰く、
16/11/08 19:58:14.29 W8oCrv2h.net
13pkは100人追加らしいけどこの中の人物の誰かが追加されてればいいな

167:名無し曰く、
16/11/08 20:20:56.33 z3ZAeoXC.net
陳勰 太和 チンキョウ タイワ (生没年不詳) 
統率:80 武力:54 知力:74 政治:41
魏、晋の武官。才能と軍令への理解があったので、司馬昭が晋王の頃は兵事を任された。
蜀滅亡後、司馬昭の命で諸葛亮の軍法を修得し、旗信号の制度に精通したため殿中典兵中郎將、後に将軍に遷る。
太康五年(284年)、宣帝廟が損傷すると新たな廟の造営を任される。また、都水使者として洛陽の河南に千金堤を築いた。
司馬炎の出入りの際には白獣の旗を持って車に近侍した。
太康末年(289年頃)、司馬炎が雉狩りの帰路に、護衛を夜間用の陣形に変更させたが手間取った。
そこで陳勰に命じると素早く隊列を変更させたので司馬炎から信任された。
※おそらく『晋書』の陳勰が正しいが他書では陳協や陳狼とも表記される 
 白は晋国のシンボルカラー
>>166
この中から1割もくれば御の字だけど、過去作武将が優先されそう
でも蔡ヨウ復活は個人的に大評価

168:名無し曰く、
16/11/08 20:40:19.61 k8LXIiLb.net
蔡ヨウもそうだし、漢字が対応してない武将は特にコーエーに出してもらいたいね

169:名無し曰く、
16/11/08 21:15:53.20 Ze+F0ybm.net
わかる!漢字対応ないとがっかりする。
羌渠作ろうとしたらまさかの羌が無かった

170:名無し曰く、
16/11/09 21:35:24.41 raQA/egr.net
頼恭 ライキョウ (生没年不詳)
統率:25 武力:18 知力:61 政治:67
荊州零陵郡の人。蜀漢の太常。頼広の父。代々荊楚の名族で初めは劉表に仕える。
建安六年(201年)より後に交州刺史の張津が死亡するとその後任となる。
しかし、同時期に任命された蒼梧太守の呉巨と争って敗れ、零陵に逃走した。
建安十五年(210年)に交州刺史の歩隲が着任すると、呉巨は斬られ士燮は帰順する。
翌年には頼恭も越城(地名)で歩隲を出迎えた。
その後、219年までには劉備に所属し、同年秋に重臣と共に劉備を漢中王に推挙する。
劉備が即位すると太常に任じられた。薛綜からは「仁謹の先達だが、時事には疎かった」と評される。

※推挙時の順番は馬超、許靖、ホウ羲、射援、諸葛亮、関羽、張飛、黄忠、頼恭、法正、李厳と劉備政権では割と高位。
事跡が残っていなかったため立伝されていないが、何らかの名声か功績があったように思われる。

171:名無し曰く、
16/11/10 22:01:28.20 pm/rVbGO.net
董元 トウゲン (?~271年)
統率:63 武力:58 知力:59 政治:52
益州建寧郡の人。晋の武将。景耀六年(263年)に呂興が呉から離反し交趾郡を掌握した。
その後、呂興が死ぬと九真太守の董元は毛炅、孟幹らと共に交趾太守・楊稷に付き従って交州に着任。
泰始四年(268年)、呉は劉俊、脩則らを派遣したが楊稷らにより撃破される。
翌年、薛詡、陶璜が派遣されると一度は勝利を得たが、董元は陶璜の夜襲を受け宝物を奪われた。
271年に陶璜が虞汜をつれて交趾を急襲すると、陶璜を迎撃したが伏兵を見破られ敗北。
城内に籠るも陶璜の策略で配下の勇将・解系を処断してしまい、最後には虞汜に敗れて死んだ。

172:名無し曰く、
16/11/11 17:56:36.65 Y5+YgT8Z.net
僕の知ってるマイナー武将紹介はもういいから
ゲームに出てもおかしくないのにいまだ未登場のメジャーな人物をもっと挙げてってよ
截天夜叉とか馬元義とか張牛角みたいな

173:名無し曰く、
16/11/13 16:03:10.85 lRtQQtpV.net
そいつらも、マイナーじゃね?

174:名無し曰く、
16/11/15 19:31:42.20 zJ1vtuC4.net
新シナリオ追加よりここに挙げられてる武将を追加して欲しい件

175:名無し曰く、
16/11/24 10:35:42.45 3gEFdoOh.net
一ヵ月半も延長したんだから、さらに50名くらいは追加できるよな。

176:名無し曰く、
16/11/24 20:18:37.61 1PVWlKSv.net
>>175
中のデータを見ると無印は史実武将がNo.1から700までで古武将が851から900らしい
PKで100人追加だから701から800が埋まるとして、あと50人残ってるから追加くるかもね
DLC枠かもしれないが

177:名無し曰く、
16/11/25 06:33:41.76 BF3W7437.net
史実武将0~699、登録武将700~849、古武将850~898、吉川晃司899
その後はイベントデータや親データ、用途不明のものがゴチャゴチャしてて
空データは949~969、999~1019、1110~1299

178:名無し曰く、
16/11/26 19:04:44.93 nvfQP9jn.net
鄭泉 文淵 テイセン ブンエン (生没年不詳)
豫州陳郡の人。呉の太中大夫。広く学問を修め、特別な気質を持った。
また特別酒を好み、「船に酒を満たして中で遊び、疲れたらご馳走を食べる。こんな風に出来たら素晴らしいではなか」と常々言っていた。
鄭泉は主君にしばしば度を越した直言をしたため、孫権は彼を酒宴の席で役人に処罰させる振りをして怖がらせた。
黄武元年(222年)、夷陵の戦いの後に劉備への聘問の使者として派遣され、両国の友好を回復させる。
鄭泉は死期が迫ると仲間に「あるいは酒器に転生できるから」と陶器職人の家の側に埋めるように頼んだという。

179:名無し曰く、
16/12/01 21:00:55.75 Xvg71/tb.net
登録武将の顔グラが大幅に追加されたら、このスレの武将を登録しまくるんだ…。(死亡フラグか?)

180:名無し曰く、
16/12/26 14:06:58.60 ezt4F3K+.net
封諝
後漢の中常侍。
馬元義の調略に応じて蜂起を約束したが、唐周の密告により失敗した。
徐奉
後漢の中常侍。
馬元義の調略に応じて蜂起を約束したが、唐周の密告により失敗した。
唐周
張角の弟子。
馬元義が中常侍の封諝と徐奉を調略すると、宦官に計画を密告した。
甘洪
吉川英治版三国志に登場する馬元義の部下。
李朱氾
吉川英治版三国志に登場する馬元義つきの副頭目。
劉備から茶や剣を奪うが、張飛に投げ殺された。
丁峰
吉川英治版三国志に登場する李朱氾の部下。

181:名無し曰く、
16/12/26 14:08:28.34 ezt4F3K+.net
彭脱
豫州方面の黄巾の将。
184年6月、西華で皇甫嵩に討ち破られた。
黄邵
汝南・潁川に割拠した黄巾の将。
劉辟・何儀・何曼らと共に行動していたが、曹操に討伐されて戦死した。
何曼
汝南・潁川に割拠した黄巾の将。鉄棒の使い手で、刹天夜叉と称した。
黄邵・劉辟・何儀らと共に行動していたが、曹操に討伐されて降伏した。
孫夏
荊州方面の黄巾の将。韓忠が秦頡に討ち取られると大将になった。
184年10月、宛で朱儁に討ち破られ、南陽黄巾軍は壊滅した。
卜己
兗州方面の黄巾の将。
184年8月、東郡で皇甫嵩に討ち破られた。
王度
東阿の県丞。
黄巾の蜂起に同調したが城を維持できず外に駐屯し、県令を呼び戻した程昱によって退けられた。
司馬倶
済南・楽安に割拠した黄巾の将。
徐和と共に行動していたが、夏侯淵に討伐された。
徐和
済南・楽安に割拠した黄巾の将。
司馬倶と共に行動していたが、夏侯淵に討伐された。

182:名無し曰く、
16/12/26 14:09:09.06 ezt4F3K+.net
呉桓
会稽に割拠した黄巾の将。
留賛に討伐されて戦死した。
馬相
趙祗と共に緜竹に割拠した黄巾の将。
数千人の民衆を集めて県令の李升を殺し、軍勢は一万余りに膨れ上がった。
次いで、雒城を攻撃して刺史の郤倹を殺し、天子を自称した。
しかし、私兵を募った益州従事の賈龍に数日で討伐されてしまった。
趙祗
馬相と共に緜竹に割拠した黄巾の将。
数千人の民衆を集めて県令の李升を殺し、軍勢は一万余りに膨れ上がった。
次いで、雒城を攻撃して刺史の郤倹を殺した。
しかし、私兵を募った益州従事の賈龍に数日で討伐されてしまった。
杜遠
演義のみに登場する黄巾の将。
廖化と共に行動していたが、劉備の妻をさらおうとしたため、関羽を敬愛する廖化によって討たれた。
梁仲寧
黄巾の将。
傅燮によって討伐された。
張伯
黄巾の将。
傅燮によって討伐された。
呉覇
黄巾の将。
李通によって討伐された。
陳敗
万秉と共に割拠した黄巾の将。
朱治によって討伐された。
万秉
陳敗と共に割拠した黄巾の将。
朱治によって討伐された。

183:名無し曰く、
16/12/26 14:45:53.66 ezt4F3K+.net
張牛角
黄巾が蜂起すると張燕と共に黒山賊を結成し、その頭目となった。
張方
張燕の子。平北将軍。
孫軽
黒山賊の将。
張燕が勢力を拡大すると、王当と共に黒山賊に加わった。
王当
黒山賊の将。
張燕が勢力を拡大すると、孫軽と共に黒山賊に加わった。
杜長
黒山賊の将。
袁紹への援軍として派遣されたが、曹操に敗北した。

184:名無し曰く、
16/12/26 14:46:14.33 ezt4F3K+.net
于毒
黒山賊の将。
191年、眭固や白繞と共に東郡太守王肱を討ち破った。
192年春、曹操が頓丘に出陣した隙を狙って曹操の本拠である東武陽を攻撃するが、裏をかかれて逆に于毒の本拠を攻撃された。
于毒は引き返したが、曹操の伏兵にあって大敗した。
193年3月、袁紹に反乱した鄴の部隊と連携して鄴を陥落させ、魏郡太守の栗成を殺害した。
また、冀州牧の壺寿と同盟したが、陶升が袁紹に寝返ると劣勢になった。
193年6月、朝歌の鹿場山の蒼巌谷に追い込まれて5日間の包囲され降伏し、于毒は壺寿と共に斬られた。
白繞
黒山賊の将。
191年、眭固や于毒と共に東郡太守王肱を討ち破ったが、援軍に駆け付けた曹操に濮陽で討ち破られた。
壺寿
董卓に任命された冀州牧。
冀州牧を自称した袁紹が薄洛津において大宴会を催すと、隙をついて魏郡の兵を扇動し于毒と同盟して鄴を襲撃、太守の栗成を殺害した。
しかし、朝歌の鹿場山の蒼厳谷で袁紹に敗れて于毒と共に斬られた。
張白騎(張晟)
黒山賊の将。河内の人。
黄巾の蜂起に乗じて、一万余りの軍勢を集めた。
後に弘農の殽山・澠池に割拠し、劉表と通じていた。
205年8月、高幹が蜂起すると同調したが、杜畿に阻まれた。
劉石
黒山賊の将。
袁紹に討伐されるが、逃走には成功した。
于羝根
黒山賊の将。
袁紹に討伐され斬られた。
左髭丈八
黒山賊の将。
袁紹に討伐され戦死した。
青牛角
黒山賊の将。
袁紹に討伐され戦死した。
李大目
黒山賊の将。
袁紹に討伐され戦死した。
郭大賢
黒山賊の将。
袁紹に討伐された。
張雷公
黒山賊の将。
左校
黒山賊の将。
黄龍
黒山賊の将。

185:名無し曰く、
16/12/26 19:15:00.98 9usKzA2Z.net
黄龍とかいう名前負けも甚だしい将

186:名無し曰く、
17/01/12 20:38:38.19 Gu46vj5k.net
李衡 叔平 リコウ シュクヘイ (生没年不詳)
統率:56 武力:35 知力:59 政治:63
荊州襄陽郡の人。呉の丹陽太守。兵卒の家柄で漢末に武昌へ移住した。
羊衜から評価され、また呂壱の専横を嘆く羊衜らにより抜擢され、孫権に目通りすると呂壱の悪事を数千言にわたり訴えた。
数ヵ月後(238年ごろ)に呂壱が誅殺されると取り立てられる。
その後は諸葛恪の司馬を務め、建興二年(253年)には魏を東西で攻めるために姜維への使者となった。
諸葛恪が誅殺されると丹陽太守に移る。当時、丹陽郡いた孫休をしばしば法によって咎めたため、
孫休即位後はこのことを憂い魏への亡命を考えるが、妻の習氏の助言によって事なきを得た。

習氏 シュウシ  (生没年不詳)
李衡の妻。李衡が丹陽太守の頃、郡役所にいた孫休をしばしば法によって圧迫したが、習氏はそれをいつも諌めていた。
永安元年(258年)に孫休が即位すると、咎を心配した李衡が魏への亡命を相談すると
「謹んで出頭すれば逆に厚遇されます」と助言。言う通りにした李衡は罪を許され、
威遠将軍の加官や棨戟の使用を許可される。
また、李衡はつねづね家産の経営を目論んでいたが習氏は許さなかった。そこで密かに武陵に柑橘を植えさせた。
習氏は荘園のことを夫の死後に知ったが、小作人が減ったことや夫の口癖などから柑橘畑だろうと息子に語った。

187:名無し曰く、
17/02/05 21:28:48.52 UZICf404.net
>>177
なんで吉川晃司がwww
先祖の毛利元就ならまだいにしえ武将枠でわからないでもないが

188:名無し曰く、
17/02/07 09:52:48.31 va4MFcal.net
>>187
特典やぞ

189:名無し曰く、
17/02/07 18:52:06.38 bo8KCjwZ.net
スレチかもしれんが三國志13の吉川晃司で喜んでるユーザーがどれだけいるんだろう?
吉川晃司のファンは嬉しいのだろうけど、
長年肥の三國志シリーズを愛したファンや、正史・演義の三国志が好きな人にとってはアレ嬉しいの?
中には三国志も吉川晃司も好きな人はいるだろうけど、
個人的にはこんなの出すより、このスレに挙げられてる様なマイナー過ぎても
三国志に登場し、三国時代を生きた武将を一人でも多く出してあげる事の方が大事なんじゃないですかね?

190:名無し曰く、
17/02/08 00:34:44.98 avbLw5th.net
うむ、その通りだな。

191:名無し曰く、
17/02/08 11:38:54.77 8eLSj+lS.net
激しく同意

192:名無し曰く、
17/02/08 17:54:23.28 DwpPDH9U.net
van鶴ユーザーとしては
人数枠増えるだけでええわ吉川大歓迎やわ

193:名無し曰く、
17/02/08 18:54:42.65 LMB+QRUX.net
>>192
それって言い換えれば別に吉川じゃなくても良いってことだよね

194:名無し曰く、
17/02/15 21:05:49.90 BSsgf02B.net
pkの情報が出たので更新 (禰衡とかのイベント武将系はいるかも)
○過去作から未登場武将
管輅、許劭、蹇碩、黄承彦、禰衡、王悦 王桃 関寧 張世平 呂伯奢
王含、王買、夏侯咸、蔡貢、脩允、周浚(開林)、脩則、荀愷、鍾離斐、孫述、孫[雨單](莔)、張潁、張喬、張象
張尚、張節、張儼(子節)、陳元、陳俊、鄭沖(文和)、丁謐(彦靖)、田章、陶璜(世英)、鄧良、馬隆(孝興)
畢軌(昭先)、馮紞(少冑)、毛炅、楊稷、李球、李歆、陸景(士仁)、劉俊、劉寔(子真)
崔諒(士文)、士孫瑞(君栄)、成済、薛則、曹遵、宋揚、張温(伯慎)、張鈞、鄭玄(康成)、董禧、傅嬰、伏完、辺章
鮑忠、北宮玉、楊陵、劉永(公寿)、劉理(奉孝)
阿貴、烏延、王同、柯吾、蛾遮塞、去卑、骨進、千万、苻健、芒中、尤突
王子服、龔景、蔡陽、紫虚上人、杜遠、南華老仙、傅幹(彦材)
王真、杜瓊(白喩)、李鵬
晏明、韋康(元将)、尹楷、尹奉(次曾)、王楷、王垢、王昌、王植、王則、王方、和洽(陽士)、夏侯存、韓福、姜叙(伯奕)
許昌、孔秀、公孫修、伍瓊(徳瑜)、胡才、呉子蘭、呉碩、胡赤児、朱光、荀爽(慈明)、蒋奇、尚挙、尚弘、徐商、秦琪
辛明、秦良、薛悌(孝威)、薛蘭、薛礼、宋果、曹彦、宗宝、趙衢、趙昂(偉章)、趙岑、陳生、鄧義、馬延、馬漢、費観(賓伯)
孟坦、楊頎、楊齢、李楽、李珪、李暹、李別、李封、李蒙、劉延、劉晙、劉先(始宗)、柳甫、梁寛、呂公、呂常、路昭
張資(子議)、陳嬉、呂覇、梁紀

○新規武将
応劭、王必、管統、阮籍、朱績、秦宜禄、曹霖、孫賁、張羨、孟光、柳毅、雷叙、魏越、張粛、于毒、王商、嵆康、趙儼

195:名無し曰く、
17/02/15 21:13:41.74 scsCCj3U.net
>>194
サンクス助かる

196:名無し曰く、
17/02/16 17:18:38.27 N1KmnDx+k
PK新武将のフォルダ教えてくれ
読み出せなくて困ってるんだ・・・

197:名無し曰く、
17/02/16 18:01:51.06 N1KmnDx+k
解決したっスw

198:名無し曰く、
17/02/20 20:24:50.47 /we5Xx/a.net
殷礼 徳嗣 インレイ トクシ (生没年不詳 没年は241年以降)
統率:31 武力:12 知力:71 政治:52
揚州呉郡曲阿県の人。呉の零陵太守。若くして戯れを好まず、深い見識を備えて「奇才強記」と言われた。
微賤の身分から顧邵の抜擢によって身を起こし、十九歳で呉の県丞代行に就く。
220年には占いに優れるとして孫権に召されて郎中に任じられた。
黄武三年(224年)、張温と共に蜀漢に使者として向かうと諸葛亮から絶賛される。
呉に戻ると張温により尚書戸曹郎に転じた。
零陵太守であった頃(241年)、孫権に曹芳即位の隙を突き、蜀、呉の総力を動員した決戦を挑むべきで、
今まで通りでは国力差が広がるばかりだと説いたが容れられなかった。

199:名無し曰く、
17/02/22 22:56:02.98 3uL3ZHsF.net
呂壱 リョイツ (?~238年頃)
呉の中書、校事(監察官)。生来情け容赦の無い性格であった。
孫権に信任され、中書に就くと中央や地方の公文書の検査にあたったが、次第に職権を濫用して私服を肥やす。
また、罪の糾弾にあたっては些細な間違いも必ず上聞し、冤罪を着せて顧雍や朱拠、鄭胄など多くの臣下が被害にあった。
孫登がしばしば呂壱の排斥を説いたが退けられ、敢えて上言する者はいなくなってしまう。
事態を憂いた潘濬は呂壱暗殺を目論むも事前に察知され果せなかった。
しかし、歩隲や潘濬、李衡らが繰り返し孫権を諌めたため、ついに呂壱は処刑された。

200:名無し曰く、
17/02/23 21:20:18.63 MFUVRnLH.net
胡赤児 コセキジ (生没年不詳)
牛輔の側近。胡族か。初平三年(192年)の董卓の死後、陝に攻め寄せた李粛を牛輔が返り討ちにした後のこと。
夜に牛輔の陣営で反乱が起きると、牛輔は軍営全体が寝返ったと勘違いした。
そこで財宝を持って、日頃から厚遇していた胡赤児ら四、五人を連れて城の脱出を図る。
胡赤児は「城の北に馬を用意してある」と言って牛輔を城壁から縄で吊り下ろす振りをして途中で落としてしまう。
そうして怪我で動けなくなった牛輔を斬り、財宝を奪って首は長安に届けた。
『演義』では呂布に首を届けたところ、裏切りを嫌悪され処刑された。

201:蝗無双
17/03/21 22:09:39.96 4rPL9Fsv+
既出かもしれんが…

 劉秀・文叔 リュウシュウ・ブンシュク (紀元前6年~57年)

  統率:100、武力:95、知力:98、政治:97

  言うまでもないが「光武帝」。 後漢王朝の創始者。 中華史で一二を争う程の英君。
  「柔よく剛を制す」という言葉は、正しくこの人の為にある。 単純な実力ならばカエサルをも凌駕するとは思う。
  武においては、モンゴル軍顔負けの騎馬戦術、生半可な猛将では太刀打ちできない武勇を誇る。 ハッキリ言って項羽レベルかそれ以上。
  文においては、戦わずして異民族を服従させ、奴婢解放・屯田兵制・儒教奨励などにより徳治と法治のハイブリッド的な統治体制を実現した。
  適材適所・臨機応変な人材活用により、自然と部下の能力を引き出していた。 また、部下や民衆と親しい関係を築くことにも優れていた。

  絵に描いたような「完璧超人」、それが光武帝、劉秀文叔という人間である。

202:名無し曰く、
17/04/16 22:28:39.35 ke6PmwtF.net
顧邵(劭) 孝則 コショウ コウソク (生没年不詳 32歳で没 生年は顧雍の長男なので186年前後だろうか)
統率:34 武力:21 知力:54 政治:72
揚州呉郡呉県の人。呉の豫章太守。顧雍の長子、顧譚の父。妻に陸駿の娘、孫策の娘。
広く経書や注を読み、好んで人物評論をなした。
210年頃に龐統が西方へ戻ろうとすると陸績、全琮らと見送りに集まる。
その際に龐統から「鈍牛だが重荷を遠くまで運べる(歩みは遅いが大勢を教化できる)」と評された。
二十七歳ではじめて入朝し豫章太守を勤める。任地では淫祀を禁じ、学問に励む者の抜擢、善行の顕彰など行ったため政治教化が広まった。
また、卑賤な身分から殷礼・吾粲・張秉・丁諝ら多くの人材を見出した。太守であること五年目に死去。

203:名無し曰く、
17/04/18 19:34:24.01 SkCdMY+8.net
王表 オウヒョウ (生没年不詳)
揚州臨海郡羅陽県には神がいて自ら王表と名乗った。
民間をうろつき飲食する様は人と変わらなかったが、人前に姿を現すことはなかった。
太元元年(251年)五月、孫権は中書郎の李崇を派遣し、王表に輔国将軍・羅陽王の印綬を授け都に迎える。
道すがら李崇や郡主らと議論したが言い負かされることは無かった。
また、紡績をいう側仕えの女に途上の山河の神々に対して挨拶に向かわせた。
都に着くと建業の東門近くの屋敷に住み、日照りや水害など小さな予言をよく的中させた。
翌年、孫権が危篤になり群臣から福を請われると、逃亡した。

204:名無し曰く、
17/04/19 23:22:57.13 NtU41RY0.net
陳焦 チンショウ (生没年不詳)
揚州丹陽郡安呉県の平民。
永安四年(261年)に死去し埋められたが、六日後に復活し自ら穴を掘って生還した。

205:名無し曰く、
17/04/20 21:35:08.78 ZGT/bMev.net
孫邵 長緒 ソンショウ チョウショ (163年~225年)
統率:56 武力:36 知力:70 政治:86
青州北海郡の人。呉の初代丞相。身の丈八尺で、初めは孔融の功曹を務め、彼から「朝廷に立つ人物」と称された。
劉ヨウに従い江東へ移り、後に孫権に仕えると数々の献策をなす。漢の朝廷に献上品を送るよう提案すると孫権はすぐに実行した。
後に盧江太守を拝命し、建安十四年(209年)に孫権が車騎将軍となると長史に遷る。
その際に張昭や鄭札、滕胤らと呉の儀礼制度を制定した。黄武元年(222年)には丞相・威遠将軍・陽羨侯に封ぜられる。
一時は張温や曁艶らの讒言で自ら辞職を求めたが、孫権はそれを許した。張温と不仲が原因か呉書に伝は無い

206:名無し曰く、
17/06/13 00:10:08.74 Ljxmgtxh.net
>>203
おひょっ!

207:名無し曰く、
17/06/16 21:37:14.02 7KZtEGtE.net
孔融に評価されるって、あまり良い印象ないよねw

208:名無し曰く、
17/08/22 05:31:00.29 +IWbpEET.net
人物紹介がないよ、何やってんの?

209:名無し曰く、
17/11/13 19:03:35.31 PQ3RJGha.net
人いないです

210:名無し曰く、
17/11/13 19:57:07.06 Uzn1ZCSA.net
おまえはクレタ人か

211:名無し曰く、
17/11/16 20:54:39.46 b72/Rh81.net
☆ 私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。現在、
衆議員と参議院の両院で、改憲議員が3分の2を超えております。
総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググってみてください。
国会の発議は可能です。お願い致します。☆☆

212:名無し曰く、
17/12/22 08:15:43.35 nrPpIVFg.net
どうした?ネタギレか?続けたまえ!

213:名無し曰く、
18/02/27 22:39:01.12 0ehYdg8A.net
URLリンク(www4.atwiki.jp)
これも参考にしとけ

214:名無し曰く、
18/02/27 23:54:06.08 5xrfXux8.net
うむ、続けたまえ!

215:名無し曰く、
18/03/07 03:43:34.69 O3/GY+oq.net
知り合いから教えてもらったPCさえあれば幸せ小金持ちになれるノウハウ
知りたい方だけみるといいかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
CSNF5

216:名無し曰く、
18/03/18 16:14:21.91 KYMSC7CO.net
実に怠惰デスネ!

217:名無し曰く、
18/04/18 20:35:07.50 8plxnf9/.net
顧承 子直 コショウ シチョク (生没年不詳 ただし下記の記述から210年~245年付近と思われる)
統率:65 武力:60 知力:41 政治:33
揚州呉郡呉県の人。呉の奮威將軍。顧邵の次男。
嘉禾年間(232年~237年)おじの陸瑁と共に孫権に仕え、騎都尉として近衛兵を率いた。
後に呉郡西部都尉に移ると、諸葛恪と共に山越を討伐し精鋭八千を得る。
また、赤烏年間(238年~251年)に陳表と共に毗陵で屯田を行った。
241年の芍陂の戦いでは張休と共に奮戦して、優勢の魏軍を押し返した功で奮威将軍に昇進、京下督(京城の守備長)に転じる。
しかし、このときの論功行賞に不満を持った全氏の訴えで投獄され、
後の245年に兄・顧譚や張休らと交州に流罪となり三十六歳で没した。

218:名無し曰く、
18/04/19 18:19:03.45 IJ4QWCp7.net
趙昂 偉章(璋) チョウコウ イショウ (生没年不詳 あるいは没年219年)
統率:63 武力:36 知力:67 政治:53
涼州天水郡の人。漢の益州刺史。王異の夫。息子に趙月。若い頃に楊阜、尹奉と名を挙げ、羌道令や、涼州の参軍事を務めた。
212年ごろ馬超が冀城に来襲し包囲が八ヵ月に渡ると、趙昂らの反対を押し切って涼州刺史・韋康が和議を結ぶ。
しかし韋康が斬られると、楊阜らと計り、鹵城の決起を囮にして馬超を冀城から締め出すことに成功。
その後は祁山を守護し、再来した馬超の攻勢に耐え、援軍を得て追い返した。
生涯に九度の奇計を用いたが全てに妻が参画したという。
趙顒と同一人物ならば219年の定軍山の戦いで黄忠に討ち取られた。

219:名無し曰く、
18/04/19 20:03:38.42 IYPxmMMm.net
三国時代にも山内一豊、京極高次みたいな蛍野郎がいたのか

220:名無し曰く、
18/04/19 20:39:50.06 bgvLX/7w.net
蛍野郎とは何かね?答えたまえ

221:名無し曰く、
18/04/19 21:23:54.51 IYPxmMMm.net
女の尻のおかげ(七光り)で出世したヤツって意味だよ

222:名無し曰く、
18/04/19 21:50:19.39 bgvLX/7w.net
ラ、ラインハルトかな?

223:名無し曰く、
18/04/19 22:42:58.73 PneVTgpX.net
嫁さんの家柄なら七光だろうけど嫁さんに才覚あるエピソードあるだけで七光はどうかと

224:名無し曰く、
18/04/20 17:57:39.11 uFDM9rmE.net
趙昂は脳筋タイプじゃない?

225:名無し曰く、
18/04/20 18:54:38.55 jzUyJsO7.net
呉範 文則 ゴハン ブンソク (?~226年)
統率:32 武力:12 知力:69 政治:55
揚州会稽郡上虞県の人。呉の八絶の一人。暦法や風占いに長けた。
揚州従事の頃、陶謙の命で趙昱を招聘するも果たせなかった。
孫権に仕えると、黄祖討伐の成否、劉備入蜀の成功、関羽襲撃の成功、魏蜀との友好などを的確に予言し名が知られる。
騎都尉や太史令を拝したが、今の地位は占術によるものと考え、術の要点は秘密にした。
そのため孫権から疎まれ、都亭侯の沙汰があっても直前で取り消された。
また、自尊心が高く義心に厚く、友人の魏騰の死罪を命懸けで助命したため許された。
黄武五年に病没すると、占いの技術は断絶した。

226:名無し曰く、
18/04/21 19:57:25.25 p1QYywFn.net
劉惇 子仁 リュウトン シジン (生没年不詳)
統率:15 武力:8 知力:74 政治:32
青州平原郡の人。呉の八絶の一人。天文や太乙の術に明るく、占いに通じた。
世の混乱から揚州廬陵郡に避難し、200年頃から太守の孫輔に仕えた。
孫輔の元では災害や賊の侵入などを予知したため軍師に任じられ、将兵からも「神明」と尊称された。
建安年間(196年~220年)に豫章にいた頃、星の予兆から丹陽における異変を察知し孫権に告げた。
果たして建安八年(204年)に孫翊が部下の辺鴻に殺害される事件の知らせが届いた。
著書百余篇、呉の侍中で儒者の刁玄からも賞賛を受けた。劉惇は自らの術を秘したため世間には知る者はいなかった。

227:名無し曰く、
18/04/22 10:10:19.48 9qbHFTRD.net
次のチェック項目に当てはまるものがいくつもあるようなら、できるだけ早めに専門機関に相談しましょう。
幻覚や妄想
□常に妄想に浸っており、その妄想を他者に披露せずにはいられない。
□妄想を長々と書き込んでいるだけにもかかわらず、それが実際のゲームの話であると錯覚している。
□自分の妄想をテンプレートであると錯覚している。
□武将の字を捏造し、それをさも真実であるかのごとく語りだす。
□武器の読み方も捏造し、真・三國無双の絶対適正などと意味不明の発言を繰り返す。
□この書き込みは誰の阻止行為も受けないと自己陶酔に陥っている。
□誰かがフェイクと検出させていると訴えるが、実は自分の妄想がフェイクであることに気付いていない。
□その存在自体を黙殺されているにもかかわらず、言葉のキャッチボールができていると勘違いしている。
□自分を否定する人物が全て同一であると信じて疑わない。
□自分の書き込みは何かの規定に基づく行為だと思い込んでいる。

228:名無し曰く、
18/04/22 18:10:42.15 ev2KQEBe.net
趙達 チョウタツ (生没年不詳)
統率:7 武力:14 知力:68 政治:20
司隸河南郡の人。呉の八絶の一人。「九宮一算」という算術を用いた占いを得意とした。
はじめ漢の侍中・単甫に学問を受け、中原が戦乱となると王者の気がある東南に身一つで避難した。
闞沢や殷礼などの学者が彼の術を学ぼうとしたが明かさず、孫権は征伐の成否や自身の在位年数などを占わせていたが、
彼が術を秘匿したため疎んじて俸禄や官位をあまり上げなかった。また、己の命日を占うと違わずその日に死去した。
孫権は彼が占術の書物を持っていたと知ると娘に聞き出したり、棺を開けたりしたが何も得られなかった。

229:名無し曰く、
18/04/22 20:05:04.00 dHATqvvy.net
一応王や皇帝にはなったとは言え占星術者として有能と言って良いんだろうか

230:名無し曰く、
18/04/23 19:30:08.09 lIs2Du1x.net
趙夫人 チョウフジン (生没年不詳)
司隸河南郡の人。孫権の夫人。趙達の妹。『歴代名画記』『拾遺記』に名が見える。
書画や裁縫に優れた。孫権は常々「魏や蜀の山河の地形図を得たいものだ」と嘆いていたため、
夫人は絹の上に五岳や列国の地形を見事に縫取り、献上した。
また、紫糸の帷を裁断し「神膠」で繋ぐことで、涼しくまた中から視界が通るように作り直した。
孫権はこれを気に入って常用した。これらの事から宮中では「針絶」や「絲絶」と賞賛された。
後に、孫権の寵愛者の讒言で宮中を去ったが、評判が落ちたといえども彼女の技芸の記録は残ったという。

※ただし、『歴代名画記』などの記述は、身一つで来たはずの趙達の元になぜが妹いたり、趙達が丞相位に就いていたりするるなど『三國志』との記述に乖離があり信憑性に難がある。

231:名無し曰く、
18/04/24 20:01:23.29 2W1aojKx.net
皇象 休明 コウショウ キュウメイ (生没年不詳 張温より一回り年上か)
統率:43 武力:15 知力:70 政治:64
徐州広陵郡江都の人。呉の八絶の一人。草書に巧みであった。『梁書』や『書断』によると青州刺史を務め侍中に昇った。
後漢の杜度に師事し、また張超と陳梁甫の書風をうまく取捨して書法を窮め、中原一の書家となる。
彼の書風は「梁をめぐる歌声、琴の奏者の如く」と評され、後世に「書聖」の名で知られた。
会稽の山陰県にいた頃、張温が皇象から学問を授かろうとした逸話が残る。『文武帖』『急就章』『文武将隊帖』などの作品が現存。
天璽元年(276年)以降に建てられた「天発神讖碑」の筆者という真偽不明の説がある。

232:名無し曰く、
18/04/25 19:31:52.30 NALKyu4U.net
曹不興 ソウフコウ (曹弗興とも) (生没年不詳)
揚州呉興郡の人。呉の八絶の一人。画に優れた。
赤烏元年(238年)の冬、清渓より立ち昇った赤龍を見ると、その場面を描いた絵を孫権に献上した。
後の宋代では、旱魃時にその絵を水上に置くと雨の日が続いた。
また、屏風に落とした筆の汚れを蝿に書き直すと、孫権は献上された屏風の蝿を本物と思って手で払ったという。
五千尺の絹に描いた際は、筆は素早く、人物の部位の尺度も誤らなかった。
北宋の『見聞志』によれば仏僧・康僧会のもたらした仏像の模写を行い、『名画記』によれば中国で始めて仏教図像を創ったと言われる。

233:名無し曰く、
18/04/26 20:19:25.16 FTz98fhx.net
厳武 子卿 ゲンブ シキョウ (生没年不詳)
徐州彭城郡の人。呉の八絶の一人。囲碁に巧みであった。衛尉の厳畯から見て従兄弟の子に当たる。
晋の葛洪はその著書『抱朴子』の中で、「厳武と馬綏明は囲碁における最上位の「棋聖」として名が知られている」と紹介している。

宗寿 ソウジュ (生没年不詳)
呉の八絶の一人。夢占いに優れ、十に一つも外さなかった。

鄭嫗 テイウ (生没年不詳)
揚州呉郡烏程(菰城)県の人。呉の八絶の一人。人相見占いに長けた。
同郷で年少の吾粲の人相を見て、その母に「九卿・宰相の骨相」があると告げた。
※もしかしたら女性で、「嫗」は名前ではなく、「鄭おばさん」ぐらいの意味かもしれない。

234:名無し曰く、
18/04/27 20:58:34.08 GIctukxZ.net
楊戯 文然 ヨウギ ブンゼン (?~261年)
統率:54 武力:21 知力:65 政治:74
益州犍為郡武陽県の人。蜀漢の梓潼太守。仕事には怠惰であったが公正簡潔で、旧知の友には変わらぬ情を尽くした。
若くして名声があり、州の書佐から二十代で督軍従事として裁判を司った。
丞相府に召されると主簿となり、諸葛亮死後は蒋琬のもとで東曹掾として事務や人事を受け持った。
その後、昇進して地方や中央に移り、建寧、梓潼太守、護軍監軍、射声校尉を勤め、241年には『季漢輔臣賛』を著す。
257年、姜維に従って芒水まで出陣した。しかし、姜維を軽んじて酒の席では侮辱する発言があったため、帰還後は庶民に落とされた。

※長くなるので省いたが、梓潼太守のときに庲降都督の副将も務めているが、その時の都督は馬忠か張表。張表は若い頃に一緒に名声を立てた一人で旧知の仲であった。

235:名無し曰く、
18/04/28 20:59:42.69 zrSHZniq.net
魯芝 世英 ロシ セイエイ (190年~273年)
統率:69 武力:48 知力:74 政治:71
司隷扶風郡郿県の人。晋の光禄大夫。豪族であったが親を郭汜に殺され、幼くして流離する。
十七の時に雍州に移住し父の喪を果たすと、郡や州に召され、228年の蜀の第一次北伐時には郭淮に請われて別駕となる。
後に曹真の掾に移り、蜀征伐では大司馬の軍事に参じた。天水太守に転じると蜀の侵攻を防ぎ城市を復興した。
曹爽の司馬の際、司馬懿が決起すると残された軍を率いて城門を突破、曹爽の元に馳せ参じる。
曹爽が出頭すると連座し、獄で死に掛けるが、その忠義を認められ晋朝で重用される。諸葛誕の乱では荊州軍を率いて先鋒を務めた。

236:名無し曰く、
18/04/29 22:06:02.88 IE9WyMlj.net
劉先 始宗 リュウセン シソウ (生没年不詳)
統率:31 武力:14 知力:70 政治:78
荊州零陵郡の人。漢の荊州別駕、魏の尚書令。周不疑は外甥。
博学強記で黄老の学を好のみ、漢の故事に明るかった。始め荊州別駕として劉表に仕える。
建安五年(200年)、劉表が官渡の戦いに際して傍観の姿勢を示すと蒯越、韓嵩らと曹操への降伏を説くが容れられなかった。
その後、許都に派遣され劉表の天子の如き振る舞いを咎められたが、曹操の武威に屈せず平然と受け答えをし、武陵太守に任じられた。
建安十三年(208年)に荊州が平定されると尚書となり、後に魏国の尚書令に任じられた。

237:名無し曰く、
18/04/30 21:36:31.61 FQAjV2fr.net
谷利 コクリ (生没年不詳)
呉の親近監。孫権の側仕えの一人で、忠義に厚く実直な言動から信頼された。
建安二十年(215年)合肥の戦いの撤退戦で、橋板が外されているのを見ると、谷利は孫権の乗馬を強く鞭打って河を跳び越えさせた。
この功で都亭侯を拝す。後の226年、武昌で行われた大型船の進水式で天候が悪化すると、
孫権の「航行続行」の命を無視して樊口に停泊させた。
孫権が「阿利は臆病だな」と揶揄すると、「大王の身と社稷の為、死を覚悟して引き止めました」と答えたため、
孫権から特に大事にされ、それ以後は「谷」と呼ばれた。『演義』では牙将。

238:名無し曰く、
18/05/01 02:45:58.23 .net
>>211
>>215
>>227
歴ゲ板の大罪人
本日の中傷行為大好き荒しの回線工作IPアドレスとワッチョイ、ID
千葉船橋 123.216.108.163 ホスト名p2129163-ipbf2607funabasi.chiba.ocn.ne.jp
(ワッチョイ a2b2-XMtE [123.216.108.163])ID:3wr68+df0 ID:3wr68+df
正義の味方気取りスレリンク(gamehis板:290番)の荒らし船橋OCNの正体
異常な長文反対だの埋め荒らし反対などと言ってる奴がやっていた所業
スレリンク(gamehis板:900番)-1000
誹謗中傷反対などと言ってる奴がやっていた数々の所業
スレリンク(tubo板:117番)-120
スレリンク(tubo板:134番)
スレリンク(tubo板:136番)
以上、全くのダブルスタンダードというみっともない実態

239:名無し曰く、
18/05/01 22:30:18.48 TvxaOpoJ.net
孫恩 ソンオン (?~259年 生年は232年以後)
統率:55 武力:42 知力:54 政治:65
揚州呉郡富春県の人。呉の武衛将軍。孫綝の弟。
257年の諸葛誕の乱で、処断された朱異に代わりに援軍を率いたが間に合わなかった。
その後、立場を悪くした孫綝が朝廷に圧力をかけるため、孫恩は兄弟らと都周辺に軍勢を率いて駐屯する。
孫亮による暗殺計画が露呈すると、孫綝の命で首謀者の一人の劉承を青龍門外で殺害した。
孫亮廃位後、新帝・孫休を丞相代行として百官を率いて永昌亭まで出迎え、衛将軍・御史大夫、県侯に封じられる。
後に侍中を加官され丞相・孫綝と分担して公文書の決裁に当たった。孫綝が誅殺されると連座して処刑された。

240:名無し曰く、
18/05/02 22:37:12.46 d3S4JlKN.net
楊曁 休先 ヨウキ キュウセン (生没年不詳)
統率:51 武力:20 知力:69 政治:65
司隷河南尹滎陽県の人。魏の中領軍。楊肇の父。楊氏は戦国時代の晋の公子・伯喬の傍流といわれる。
率直な性格で曹叡に重んじられ、また劉曄と親交があった。
太和二年(228年)の頃は屯騎校尉を務め、魏帝・曹叡の命で、石亭の戦いで敗れた曹休の元へ慰撫の使者として向かう。
太和の末(233年頃)に公孫淵が反乱を起こすと、征討の適任者に悩む曹叡に田豫を推薦した。
蜀討伐の議論では常に強固に反対していたが、いつも相談していた劉曄が機密のため反対派を演じていたと気付かず、
迂闊な言動をして叱られた。諡号は肅侯。

241:名無し曰く、
18/05/03 09:57:50.36 /K1rDVom.net
みんな頑張ってんな

242:名無し曰く、
18/05/03 21:56:35.16 zIZW75xs.net
彭羕 永年 ホウヨウ エイネン (生没年不詳 享年36歳)
統率:25 武力:32 知力:71 政治:78
益州広漢郡の人。劉備の治中従事。
身の丈八尺、容貌魁偉にして驕慢な性格だが、秦宓には敬意を持ち、太守の許靖に推薦した。
後に州の書佐となるも讒言で髠刑を受ける。劉備が入蜀すると、葭萌の陣営を訪れ、龐統と既知の法正の推薦で劉備に仕える。
彭羕の知遇は徐々に増し、益州平定時には治中從事となった。
しかし、一躍大身となり傲慢に振舞ったことと、諸葛亮からの進言で疎まれ、江陽太守に左遷となる。
不快に思った彭羕が、馬超に「老兵が耄碌した」「貴方と内外を受け持てば天下を定められる」と不遜な言動をしたため処刑された。

※馬超訪問時に法正は生きていたので没年は217年ぐらいだろうか。『演義』では字が「永言」。孟達と親しく、関羽の救援に行かなかった孟達の立場が悪くなると、不安を覚え孟達に使者を出し、以下正史と同様の展開となる。『演義』の没年は220年。

243:名無し曰く、
18/05/03 22:07:00.17 fZls9p7U.net
荒らしを駆除するために、ワッチョイ隠し、ID隠しをNGしたら、このスレの人物紹介が全部消えたわ…

244:名無し曰く、
18/05/04 21:34:10.22 f+nQgKZK.net
慈童 ジドウ (紀元前10世紀頃~220年代頃)
周の穆王に寵愛された童子。ある時、王の枕の上を誤って越えた罪で南陽郡の酈縣山に流罪となる。
哀れんだ王は、釈尊より賜った法華経の妙文を授けた。
慈童は忘れないように菊の葉にその文言を記すと、葉を流れる露が霊薬へと変化し、それを飲んだため年も取らず千年以上の長寿を得た。
時は流れ魏の文帝の時代に、酈縣山の麓で霊水が湧き出たとの報告が入る。
曹丕が調べさせると、「彭祖」と名を変えた慈童がおり、帝の聖徳を讃えて長寿の術を捧げたという。
このことは「重陽の節句」の由来といわれ、日本では能の『菊慈童』として知られる。

※以上は日本の『太平記』などに由来する話。神仙「彭祖」が700年生きた伝説と、
『魏文帝與鍾繇書』に曹丕が鍾繇に「彭祖の術(長命の術)」として重陽の日に菊一束を贈った、という話と、
さらに仏教をアレンジして出来たと思われる。

245:名無し曰く、
18/05/04 23:55:40.62 5hjYtvwm.net
長命の術貰ったとは思えない短命さだし
曹丕は信じてなくて鍾ヨウで試したのかなw

246:名無し曰く、
18/05/05 12:50:33.41 2bDkF7t0.net
周代に法華経とか滅茶苦茶だな

247:名無し曰く、
18/05/05 13:21:53.09 ZSjfYziG.net
漢末覇業の武将(総勢1100人)を調べたら結構レスが埋まりそうだな
まあ今は列伝が中国語だけど
そのうち日本語になりそうだし

248:名無し曰く、
18/05/05 14:12:32.09 .net
歴ゲ板の大罪人
10年以上に渡って中傷による個人攻撃で人をコケにし続けて来た人間に一切の正当性は無い
最後に更新のあった、中傷行為大好き荒しの回線工作IPアドレスとワッチョイ、ID
千葉千葉 123.218.222.136 ホスト名p1749136-ipbf1307funabasi.chiba.ocn.ne.jp担当人格の発作タイムは夜8時~0時。朝8時~夜8時のガラプー人格(最近はキャラを保てなくて虫の息)とは交代制の模様
(ワッチョイ 12b2-UBB+ [123.218.222.136])→木曜前に書き換え (ワッチョイ 0ab2-UBB+) ID:XFw2qlJLd ID:eESfjMrh
やはり福島県相馬市アカウントも荒らし用予備回線悪用だった模様。粘着の仕方が同一 時間外での対応ではこのアカウントを遊撃手として悪用する模様
福島相馬 219.107.32.147 ホスト名FL1-219-107-32-147.fks.mesh.ad.jp  
(ワッチョイ 8a32-HSUF [219.107.32.147])ID:RqK0cSia0 ID:RqK0cSia
現在は船橋OCNを暴かれるのについに音を上げて、必死にスプ=ドコモ携帯電話使い捨て回線悪用に逃げ込むという有様
(スッップ Sdb2-tsUv [49.98.144.63]) ID:djQOtrOld
IDワッチョイ等で抽出するとわかるが、本スレで全くゲームの話をするつもりがないことが確定
正義の味方気取りスレリンク(gamehis板:290番)の荒らし船橋OCNの正体
異常な長文反対だの埋め荒らし反対などと言ってる奴がやっていた所業
スレリンク(gamehis板:900番)-1000
誹謗中傷反対だの卑怯者などと言ってる奴がやっていた中傷行為等の卑怯な数々の所業
スレリンク(gamehis板:420番)-423
以上、全くのダブルスタンダードというみっともない実態

249:名無し曰く、
18/05/05 19:14:49.12 eESfjMrh.net
この悪質中傷荒らし野郎がw

250:名無し曰く、
18/05/05 19:54:47.03 .net
>>249
歴ゲ板の大罪人
10年以上に渡って中傷による個人攻撃で人をコケにし続けて来た人間に一切の正当性は無い
最後に更新のあった、中傷行為大好き荒しの回線工作IPアドレスとワッチョイ、ID
千葉千葉 123.218.222.136 ホスト名p1749136-ipbf1307funabasi.chiba.ocn.ne.jp担当人格の発作タイムは夜8時~0時。朝8時~夜8時のガラプー人格(最近はキャラを保てなくて虫の息)とは交代制の模様
(ワッチョイ 12b2-UBB+ [123.218.222.136])→木曜前に書き換え (ワッチョイ 0ab2-UBB+) ID:XFw2qlJLd ID:eESfjMrh ID:1TLL5Ed20
やはり福島県相馬市アカウントも荒らし用予備回線悪用だった模様。粘着の仕方が同一 時間外での対応ではこのアカウントを遊撃手として悪用する模様
福島相馬 219.107.32.147 ホスト名FL1-219-107-32-147.fks.mesh.ad.jp  
(ワッチョイ 8a32-HSUF [219.107.32.147])ID:RqK0cSia0 ID:RqK0cSia
現在は船橋OCNを暴かれるのについに音を上げて、必死にスプ=ドコモ携帯電話使い捨て回線悪用に逃げ込むという有様
(スッップ Sdb2-tsUv [49.98.144.63]) ID:djQOtrOld
IDワッチョイ等で抽出するとわかるが、本スレで全くゲームの話をするつもりがないことが確定
正義の味方気取りスレリンク(gamehis板:290番)の荒らし船橋OCNの正体
異常な長文反対だの埋め荒らし反対などと言ってる奴がやっていた所業
スレリンク(gamehis板:900番)-1000
誹謗中傷反対だの卑怯者などと言ってる奴がやっていた中傷行為等の卑怯な数々の所業
スレリンク(gamehis板:420番)-423
以上、全くのダブルスタンダードというみっともない実態

251:名無し曰く、
18/05/05 21:43:59.39 eESfjMrh.net
この悪質粘着中傷荒らし野郎がw

252:名無し曰く、
18/05/05 21:56:21.31 .net
>>251
歴ゲ板の大罪人
10年以上に渡って中傷による個人攻撃で人をコケにし続けて来た人間に一切の正当性は無い
最後に更新のあった、中傷行為大好き荒しの回線工作IPアドレスとワッチョイ、ID
千葉千葉 123.218.222.136 ホスト名p1749136-ipbf1307funabasi.chiba.ocn.ne.jp担当人格の発作タイムは夜8時~0時。朝8時~夜8時のガラプー人格(最近はキャラを保てなくて虫の息)とは交代制の模様
(ワッチョイ 12b2-UBB+ [123.218.222.136])→木曜前に書き換え (ワッチョイ 0ab2-UBB+) ID:XFw2qlJLd ID:eESfjMrh ID:1TLL5Ed20
やはり福島県相馬市アカウントも荒らし用予備回線悪用だった模様。粘着の仕方が同一 時間外での対応ではこのアカウントを遊撃手として悪用する模様
福島相馬 219.107.32.147 ホスト名FL1-219-107-32-147.fks.mesh.ad.jp  
(ワッチョイ 8a32-HSUF [219.107.32.147])ID:RqK0cSia0 ID:RqK0cSia
現在は船橋OCNを暴かれるのについに音を上げて、必死にスプ=ドコモ携帯電話使い捨て回線悪用に逃げ込むという有様
(スッップ Sdb2-tsUv [49.98.144.63]) ID:djQOtrOld
IDワッチョイ等で抽出するとわかるが、本スレで全くゲームの話をするつもりがないことが確定
正義の味方気取りスレリンク(gamehis板:290番)の荒らし船橋OCNの正体
異常な長文反対だの埋め荒らし反対などと言ってる奴がやっていた所業
スレリンク(gamehis板:900番)-1000
誹謗中傷反対だの卑怯者などと言ってる奴がやっていた中傷行為等の卑怯な数々の所業
スレリンク(gamehis板:420番)-423
以上、全くのダブルスタンダードというみっともない実態

253:名無し曰く、
18/05/05 22:10:06.63 gZH3SptE.net
馮紞 少冑 フウタン ショウチュウ (?~286年)
統率:66 武力:45 知力:76 政治:67
冀州安平国の人。晋の侍中。祖父に李孚。兄に馮恢。若くして広く経書、史書を学び、知力と弁舌に長けた。
魏郡太守を務めた後は歩兵校尉など近衛軍を率い、武帝・司馬炎から寵愛される。
賈充、荀勗らと親しく、賈南風の皇太子妃擁立には尽力した。
呉征伐の際は汝南太守として郡兵を率いて、王濬のもと秣陵に入城。後に御史中丞、侍中に遷った。
呉征伐には元々反対であったため、功を立てた張華の権勢を妬み「鍾会の再来」と讒言し、免官に追いやる。
太康三年(282年)から始まる司馬攸帰藩騒動では、司馬攸の声望を恐れて司馬炎に出鎮を勧めた。

※李孚との関係は資料で明言されていないが、『魏略』と『晋書』をあわせるとほぼ間違いないと思う。
ただし、李孚の本籍は鉅鹿郡で、孫の代に本姓の馮氏に戻っているあたり、乱世のごたごたで何かあったようだ。
また司馬攸帰藩騒動に関して『晋書』自伝に主犯のように書かれるが、要素の一つ程度の影響力だと個人的に思う。


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