三國志の新武将作成用に人物を紹介していくスレat GAMEHIS
三國志の新武将作成用に人物を紹介していくスレ - 暇つぶし2ch500:名無し曰く、
19/10/10 20:22:09.02 a9uYJSV/.net
普浄 フジョウ (生没年不詳)
司隷河東郡蒲東県の人。『演義』に登場する鎮国寺の僧。鎮国寺は沂水関付近にある漢の明帝の香火院であった。
建安六年(201年)頃、卞喜は劉備の元へ戻ろうとする関羽を鎮国寺に誘い出し、伏兵をもって襲撃しようとする。
関羽と同郷の普浄はそれとなく合図をしたため、関羽も警戒して卞喜らを返り討ちにした。
その後は全国を雲遊したが、普静と名を改めて、荊州当陽県の玉泉山の草庵で暮らす。
220年頃、黙座する彼の前に「我が首、返しに来たれ」と関羽の霊が現れたが、惑う関羽を教え諭し成仏させた。

501:
19/10/11 20:37:01 BAz0wX61.net
聶友 文悌 ジョウユウ ブンテイ (生没年不詳)

揚州豫章郡新淦県の人。呉の丹陽太守。弁舌の才があり若くして県の役人になる。
虞翻を見送った際に高く評価されて、豫章の功曹に推薦された。
都に使者として向かうと、諸葛恪と友好を結び名が知られるようになる。
後に将軍に任じられ、242年に校尉の陸凱と共に三万の兵で珠崖郡と儋耳郡を討伐し、丹楊太守に遷った。
253年、東興の戦いで大勝した諸葛恪が再出兵を計画すると、これを諫めたが止められなかった。
諸葛恪誅殺後は孫峻から警戒され、鬱林太守に左遷される前に病死した。
若い頃、血を流す樹から吉凶を示す二枚の板を得たという。

※珠崖郡などは現在の雷州半島や海南島にあった。(14では行けそうになさそう)
 享年33歳と記されるが年代が合わない。

502:
19/10/12 21:11:55 Jq6cBDMS.net
成公綏 子安 セイコウ スイ シアン (231年~273年)

兗州東郡白馬県の人。晋の中書郎。幼くして広く経書などを読み、口下手であったが詩賦や音律に優れた。
また寡欲で資産を営まず、家は貧しかったが常に穏やかだった。
評判を求めなかったが、成公綏が二十四歳の頃、張華からその才を絶賛され、太常に薦められて博士に徴される。
朝廷では秘書郎、轉丞、中書郎、騎都尉を歴任し、たびたび詔勅により張華と詩賦を献じた。
咸熙元年(264年)に司馬昭が晋王となると、賈充らと晋の法律制定に携わる。
著作に詩賦や雑筆が十数巻のほか、『正旦大会行礼歌』など。

※同郡の成公簡と同族かも

503:
19/10/13 19:28:18 tTaIyh5J.net
高納 孝才 コウノウ コウサイ (生没年不詳)

冀州勃海郡蓨県の人。魏の尚書郎や東莞太守を務めた。
高氏は遠祖・高洪が勃海太守となった頃から蓨県に住むようになる。
高納は後漢の太子太傅・高褒の五世孫で、父に漢中太守・高延、息子に江夏太守・高達。
後に勃海高氏は南北朝で活躍し、北斉を建てた。

※後世の『唐書宰相世系表』によるので信憑性は不明。

504:
19/10/16 23:34:52 gZLYecqw.net
上官雝 ジョウカンヨウ (生没年不詳)

蜀漢の行中典軍・討虜将軍。
建興九年(231年)、李厳は長雨によって北伐の兵糧輸送が滞り、その件に関して責任逃れの発言を繰り返した。
そのため諸葛亮は劉琰、魏延、袁綝、呉壱、高翔、呉班、楊儀、?芝、劉巴、費禕、許允、丁咸、
劉敏、姜維、上官雝、胡済、閻晏、爨習、杜義、杜祺、盛勃、樊岐らと協議して李厳を解任した。


上官勝 ジョウカンショウ (生没年不詳)

涼州隴西郡上邽県の人。蜀漢の太尉。
先祖は戦国時代の楚・懐王の子である子蘭で、彼が上官邑の大夫となったことから上官を姓とした。
前漢の左将軍・上官桀の末裔でもある。子に上官茂、上官先。

505:
19/10/17 19:13:09 UexNMFUa.net
上官顕 ジョウカンケン (生没年不詳)

来敏が愚痴を言った相手。(筑摩だと「上官に対してあからさまに~」と訳しているが人名だと思う。)


上官子脩 ジョウカンシシュウ (生没年不詳)

魏の天水郡の官吏。建興六年(228年)、諸葛亮北伐の報がもたらされると、
天水太守・馬遵は郡治の冀県を放棄して雍州刺史・郭淮のもとに去った。
上官子脩や姜維は馬遵を制止できず、しかたなく冀県に戻ると、吏民らによって諸葛亮への使者役を押し付けられる。
二人はしかたなく出向くと諸葛亮に気に入られ、また馬謖が敗れたためそのまま蜀へと随行した。


※「子脩」がアザナっぽいので蜀の上官性の誰かと同一人物かも。
  とくに上官雝は、諸葛亮の上表で姜維の次に名が挙がるので怪しい。

506:
19/10/20 21:33:10 tWSpD//Q.net
薛霊芸 セツ レイウン (生没年不詳)

冀州常山郡の人。曹丕の美人。父は薛鄴、母は陳氏。
十五にして絶世の美女となり、曹丕が良家の子女を選出すると、谷習が貧しい薛家から買い取って献じた。
別れを悲しむ霊芸は豪華に飾られた車で丁重に迎えられ、
車の巻き上げた塵が星月を覆ったためその様子は「塵宵」と呼ばれる。
曹丕はこれを遠望し「故人は『朝には雲に、暮れには雨に(なって訪れる)』と言うが、
今は雲、雨、朝、暮れにあらず」と言い名前を「夜来」と改めさせた。
霊芸は裁縫が得意で暗くても仕立てができ、曹丕も彼女の服でなければ着ず、宮中で「針神」と呼ばれた。

※『朝為行雲,暮為行雨』は宋玉「高唐賦」に見える楚の懐王と神女との逢瀬の話が元。
 「神女が来たけど、なんか暗いし故事と違うな」という感じ。
 また原文で「靈藝」ではなく「靈芸」表記なのでレイウン読み。

507:名無し曰く、
19/10/22 21:12:00.77 0hkaSzwM.net
曹泰 ソウタイ (生没年不詳)
豫州沛国譙県の人。魏の鎮東將軍。父は曹仁、弟に曹楷、曹範、子に曹初。
黄初三年(222年)九月、曹丕は洞口、濡須、南郡の三方に派兵し、曹仁は濡須を担当する。
翌年三月、曹仁は羨渓を攻撃すると宣伝する一方で、部将の常彫に五千と諸葛虔、王双を預けて中洲に渡らせ、
そこを足場にして曹泰に濡須城を攻撃させた。
濡須督の朱桓は羨渓に兵を分け少数であったが、曹泰の陣営に焼き討ちをかけ、
常彫も呉将・厳圭、駱統らに敗れて斬首、王双は捕虜となり、魏軍は撤退した。
その後同月に父が没すると陳侯を継ぎ、後に寗陵侯に国替えされた。

508:名無し曰く、
19/10/27 18:43:10 8E3TCXey.net
孫泰 ソンタイ (?~234年)

揚州呉郡冨春県の人。呉の長水校尉。孫匡の子、母は曹操の姪(『演義』では曹仁の娘)、息子に孫秀。
嘉禾三年(234年)、合肥新城の包囲作戦に従事したが、満寵の襲撃で流れ矢にあたり死去した。

509:名無し曰く、
19/10/30 19:51:28 27oEJxK6.net
姚信 元直(あるいは徳祐) ヨウシン ゲンチョク(トクユウ) (生没年不詳)

揚州呉郡永安県の人。呉の太常。父は媯敷で後に姚氏に改姓した。
陸遜の外甥にあたる(陸遜の姉妹が母か)。呉に出仕し選曹尚書を務め、陸鬱生の節義を称賛する上表を行った。
赤烏八年(245年)、二宮事件では太子・孫和派であったため顧譚、顧承、張休らと流刑に処される。
(孫皓が即位したからか)宝鼎二年(267年)には太常として名が見え、
丞相代行の孟仁とともに孫和の魂を明陵から都の清廟へ迎えた。
建衡元年(269年)、今際の陸凱の上陳に、社稷の根幹の臣として筆頭に名が挙がる。
著作に『士緯十巻』『?天論』『周易注』など。

※後漢の媯皓は呉郡餘杭県なのでたぶん同族。媯覽も呉郡太守・盛憲によって孝廉に挙げられたので同郡の同族だろう。
もしかしたら孫翊事件が切っ掛けで改姓したのかも。

510:名無し曰く、
19/11/13 20:02:15.06 XXvj6o6d.net
虞忠 世方 グチュウ セイホウ (?~280年)
揚州会稽郡余姚県の人。呉の宜都太守。虞翻の五男で、兄に虞汜、息子に虞譚。
節操を守り、行動力と人物眼に優れた。
幼い陸機の才を見抜き、また無名であった上虞の魏遷を高く評価して、二人とも評判の士となる。
同県出身の王岐は官界に後ろ盾のいるような家柄ではなかったが、親しく交際した。
そうして王岐が先に宜都太守になって、虞忠はそれを継いだ。
太康元年(280年)の二月、王濬ら晋の軍勢が攻め寄せると、
監軍の陸晏、水軍督の陸景らと宜都城に立て籠もって抵抗し殺害された。

511:名無し曰く、
19/11/23 16:43:37 2tMPPfl6.net
劉碩 リュウセキ (生没年不詳 生年は138年以降で没年は206年か)

後漢の平原王。蠡吾侯・劉翼の子で桓帝の弟にあたる。兄弟に勃海王劉悝や姉妹が数人。
父の劉翼は讒言により平原王から廃されたが、146年に劉志(桓帝)が即位すると、
弟の劉碩は建和二年(148年)に平原王に建てられ、父の祭祀を奉じた。
元嘉二年(152年)、桓帝の生母である孝崇皇后・匽明が崩じるとその喪主を務める。
没年は不明だが206年に国が除かれるまで史弼、陽球、陳紀、荀爽、劉備、劉琬らが平原相として補佐した。

※仮に139年生まれでも206年まで68歳だからずっと現役だったか、あるいは途中で息子に代替わりしたか。

512:名無し曰く、
19/12/03 18:56:12 4ntBqvUC.net
令狐邵 孔叔 レイコショウ コウシュク (生没年不詳 220年頃から3年後に死去)

并州太原郡の人。魏の弘農太守。子に令狐華、族子に令狐愚。
建安の初め頃(196年頃)、袁紹が冀州を支配すると鄴に移り住む。
204年には武安県の毛城にいたが、四月に曹操が城を落とした際に捕縛される。
しかし曹操が令狐劭の父と面識があったため、処刑を許され軍謀掾に任じられた。
その後は郡太守を歴任し、丞相主簿の後に弘農太守を務める。
彼の政務は「氷雪の如く清潔」と評され、人を思いやり学業を推進した。
黄初の始めに中央に戻り羽林郎や虎賁中郎将に任じられる。
族子の令狐愚については「一族を滅ぼすだろう」と予見していた。

513:名無し曰く、
19/12/16 22:09:05.03 Wzzr9p0m.net
張奮 チョウフン (生没年不詳)
徐州彭城郡の人。呉の半州都督。張昭の甥にあたる。
十九歳の頃に攻城兵器の「大攻車(巨大な衝車か)」を造り、歩隲から軍属へ推薦される。
張昭はこの件に反対で「お前は若いのになぜ自ら軍旅に赴くのか?」と問うと、
「童子の汪錡は国難に殉じ、子奇は若くして阿を統治しました。私は不才ですが年は不足しておりません」と答えた。
その後、兵を預かって将軍になり、続けて功績をあげて半州都督に就任し、楽郷亭侯に封じられた。
※半州は蘄春郡尋陽県にある長江中流の重要拠点で、濡須や西陵と同じく都督が置かれた。
潘璋、甘寧、孫慮などが駐屯。また、張承は長子なのに字が仲嗣なので、従兄弟の張奮の字が伯嗣かもしれない。

514:名無し曰く、
19/12/17 20:29:56 29cfZZ07.net
13PKから14にかけて増えた人 分類は適当

●魏、晋
殷署、隠蕃、衛臻、王観、王思、夏侯栄、夏侯献、夏侯儒、賈信、韓曁、カン丘興、環氏、邯鄲淳、許定、崔氏、
司馬芝、朱蓋、朱光、荀粲、上官子脩、常林、徐奕、徐キュウ、徐商、徐宣、石鑒、薛悌、鮮于輔、曹華、曹憲、
倉慈、曹彪、蘇則、孫資、仲長統、張承、張昌蒲、張泉、張範、鄭渾、丁斐、裴潜、馬隆、畢軌、馮楷、
ホウイク、鮑?、鮑韜、游楚、羊徽瑜、劉延、劉靖、劉放、涼茂、呂建、令狐愚、盧毓、路招、

●呉
殷礼、賀達、韓綜、谷利、顧承、顧邵、胡綜、呉範、是儀、謝景、脩允、周胤、周邵、脩則、聶友、諸葛融、
徐コン、徐詳、秦松、鮮于丹、孫壱、孫河、孫奐、孫弘、孫邵、孫松、孫奮、孫輔、孫慮、趙咨、趙達、
陳化、丁固、程咨、鄭泉、鄭冑、陶コウ、潘氏、傅嬰、羊ドウ、陸胤、陸瑁、李衡、劉基、呂壱、

●蜀
殷観、王嗣、王謀、王連、カク普、何宗、許慈、句扶、射援、射堅、周羣、習珍、習禎、張裔、趙正、程畿、
?方、杜瓊、費観、ホウ林、輔匡、楊戯、姚チュウ、楊敏、頼恭、来敏、李キン、李邵、李朝、李福、李密、
柳隠、劉永、劉敏、劉理、

●漢
韋康、閻温、衛茲、何苗、姜叙、趙昂、金尚、呉匡、伍孚、士孫瑞、周グ、荀爽、全柔、王子服、趙?、
張エン、鄭泰、

●群雄

・袁
尹楷、陰キ、袁春卿、韓コウ、韓範、恵衢、高蕃、荀正、馬延、馮氏、

・公孫
韓起、韓忠、侯氏、公孫晃、范方、文則、

・他
王方、王楷、管承、桓鄰、麹演、厳氏、黄射、士キン、昌キ、薛蘭、薛礼、段ワイ、陳脩、?義、董扶、傅幹、
楊定、雷緒、李楽、李封、李蒙、劉先、劉瑁、呂公、

●異民族
阿貴、泄帰泥、千万、趙氏貞、尤突、

515:名無し曰く、
19/12/22 00:27:44.43 7kk3iQKo.net
そういやファミコンのナムコの三国志にギランって体力の高いのがいたけどコーエーのには出てなかったよな

516:名無し曰く、
19/12/22 05:24:38.97 XV347abl.net
媯覧なら載員と一緒に大リストラのあった12から登場してる

517:名無し曰く、
19/12/26 18:11:29 KK6v6kUa.net
劉纂 リュウサン (生没年不詳)

呉の驃騎将軍。前妻に孫氏、後妻に孫魯育。235年、盧陵、会稽、南海郡の賊徒が蜂起すると、
孫権は呂岱に命じて劉纂と唐咨を率いて反乱を討伐させた。250年に朱拠が亡くなると孫魯育を継室とする。
256年に文欽の進言で孫峻は文欽、呂拠、劉纂、朱異、唐咨らに淮水、泗水流域に進出させたが、孫峻が病没し帰還した。
その後、孫綝が実権を握ると呂拠の討伐に出動した。
266年、司馬昭の弔問から戻った丁忠が防備の隙を報告すると、晋への侵攻を進言する。
書家としても著名で皇象、岑伯然、朱季平らと一代の絶手と呼ばれた。

※続けて孫権の娘が与えられたり、妙に官位が高いことから劉基の息子説がある

518:名無し曰く、
19/12/28 20:06:22.61 zXHEvIs/.net
>>511
追記 酒癖が悪く過失が多かったため、帝が父の正室の馬貴人に平原王の家事を任せた、とある
また206年には済北国や清河国も除かれているため、その頃の生死は不明

519:名無し曰く、
20/01/09 19:54:45 sMo5jDsg.net
賈南風 カナンプウ (257年~300年)

司隷河東郡襄陵県の人。司馬衷の皇后。父は賈充、母は郭槐。
271年、樹機能の乱で賈充は長安鎮護を命じられると、洛陽に留まるべく皇太子妃に娘の南風を立てるよう画策する。
楊艶、荀勗、馮紞、荀?らの進言により司馬炎が折れて、翌年には賈南風が正式に皇太子妃となる。
その後、妬心からの離縁や、皇太子廃嫡の危機を免れ、290年に恵帝が即位すると皇后に立てられた。
翌年、楊駿一族を誅殺し、東安王を罷免、司馬亮、衛瓘を誅殺して朝政を掌握する。
そうして専横を極めたが、300年の司馬倫らの決起により、幽閉後に自害させられた。

520:名無し曰く、
20/01/15 19:16:56 YonW2BMY.net
呉氏 ゴシ (生没年不詳 生年は呉質が元城令の頃 217年ごろ?)

兗州済陰郡鄄城県の人。呉質の娘で、兄弟に呉応や呉夫人。父が元城の県令の頃に生まれ、平陵県の劉瑤に嫁ぐ。
しかし夫が罪を得て帰らず、寡婦として平原郡の長白山の西に葬られた。
時は流れて北斉の孝昭帝の頃(560年頃)、崔羅什という才子が州に召され呉氏の墓を通りかかると、
たちまちに目の前に朱門や楼閣が現れ、侍女から女主人の話し相手になって欲しいと彼を招き入れる。
崔羅什は人外と怪しみつつも語らいあい、十年後の再会を約して別れた。
そして十年後、堤防工事の最中に杏を食べながら「約束を果たす」と言うとそのまま死去した。

※志怪小説の類の《酉陽雜俎》が出典。

521:名無し曰く、
20/02/02 19:29:45 dnE7+Sbs.net
高通 コウツウ (生没年不詳)

呉の宦官。陸凱の二十の上表文(本人作かは真偽不明)によると、
孫皓の時代に高通、?廉(センレン)、羊度らは宦官であったが、孫皓に寵愛され高い位と兵権を握ったという。
そのためで陸凱は有事の際に役に立たたず、桓帝、霊帝の愚を犯していると批判した。
ただし、征呉の際に宦官が兵を率いたという記録はない。

※孫皓が考えを改めたか、上表文が偽物でそうした事実は無かったかどっちか

522:名無し曰く、
20/02/02 21:22:54 GW/PwAwv.net
14で追加された列伝の武将がわかるので参考に…
URLリンク(sangokushi-fun.com)

523:名無し曰く、
20/02/07 20:20:58 u2inRjX4.net
陳祗 奉宗 チンシ ホウソウ  (?~258)

蜀漢の政治家
費?の死後、蜀の国政を取り仕切り、劉禅に寵愛された
費?の後任であるにも関わらず、姜維の北伐を支えた
?周の「仇国論」は、陳祗の論戦を元に作られたものである

統率:14 武力:25 知力:71 政治:86 魅力:38

524:名無し曰く、
20/02/17 19:25:51.58 ypQvl4RL.net
孫慎 ソンシン (生没年不詳)
揚州呉郡の人。呉の鎮南将軍。祖父は孫河、父は孫俊、伯父に孫桓、兄に孫建、子に孫丞。
赤烏十三年(250年)に父が死去すると、爵位は長子の孫建が継いだ。
鳳凰三年(274年)に夏口督・魯淑が死去すると、後任として夏口督に就任する。
その後、天紀元年(277年)の夏、孫慎は江夏郡や汝南(弋陽)郡に侵攻して、千余家の住民を略奪した。
280年の征呉の役での動向は不明だが、王濬や胡奮、王戎らによって夏口は攻め落とされている。
※『晋書』では江夏への侵攻は12月とする。またこの件で羊コは司馬炎から詰問されている。

525:名無し曰く、
20/02/19 21:32:35 SN5RXWdD.net
袁覇 エンハ (生没年不詳)

豫州陳郡扶楽県の人。魏の大司農。弟に袁徽、袁敏、子に袁亮、従兄に袁渙。
公正厳格な人物で、同郡の何夔と並んで名声があった。曹操の魏公就任を勧める群臣の中に長史として名がみえる。
そうした功績からか、魏の建国初期に大司農に就任した。

526:名無し曰く、
20/02/25 21:38:12 08jK09XJ.net
袁徽 エンキ (生没年不詳)

豫州陳郡扶楽県の人。後漢の隠士。兄弟に袁覇、袁敏、従兄に袁渙。
天下が乱れ動乱の兆しが見えると、袁渙は「道義と礼節を守れば、災いを避けられるだろうか」と嘆くと
「混乱を避けるためには、遠方に逃げるべき」と答え、交州に避難した。その後、司徒から召されたが行かなかった。
また、荀?に交趾太守の士燮や、避難してきた許靖を称賛する手紙を送っている。

527:名無し曰く、
20/02/26 23:17:41 3tsg6hei.net
>>482
唐の『開元占経』によると後将軍・エン州刺史の黄華は嘉平5年(253年)に死んだようだ
なお、杜恕は刺史が武官を兼任すると軍事を重視して農業を疎かにすると批判している

528:名無し曰く、
20/03/03 21:54:12 kI5NOJS+.net
袁敏 エンビン (生没年不詳)

豫州陳郡扶楽県の人。魏の河堤謁者。兄に袁覇、袁徽、従兄に袁渙。曹丕の武芸の師の一人。
若き日の曹丕は二刀流こそ最も強いと考えていたが、
袁敏の片手武器で複数武器を攻撃する神業を見て、考えを改めたという。
また「武芸者が不意に隘路で袁敏と出会ったなら、即座に攻めるしか勝ち目がない」と言われた。
袁渙の死後、曹丕から袁渙の勇気のほどを問われると
「顔は柔和だが、危難に臨むと孟賁や夏育以上だった」と答える。
袁敏は武芸以外に、治水に精通し、河堤謁者を務めた。

※河堤謁者は7品、定員5人、主に池の灌漑と河渠の保全が任務

529:名無し曰く、
20/03/18 22:06:23.17 1hNQOFNc.net
陳瑀 公瑋 チンウ コウイ (生没年不詳)
徐州下邳国淮浦県の人。後漢の揚州刺史。父に陳球、弟に陳琮、従弟に陳珪。
孝廉に挙げられ洛陽市長を務めたのち、189年に議郎となる。
初平三年(192年)、揚州刺史・陳温が病没すると袁術の命で後任となり、袁紹の送った袁遺を敗走させた。
翌年、曹操に敗れた袁術を寿春で拒絶したが、陰陵で兵を糾合した袁術軍が城に迫ると、怯えて下邳に逃亡する。
その後は広陵郡に駐屯し、孫策の背後を襲うべく、配下の万演を密かに遣わして、丹楊の賊や祖郎、焦已、厳白虎を扇動した。
しかし呂範らに大敗したため、袁紹のもとに逃れ、故安都尉に任じられた。
※洛陽市長は市場の長官のこと。

530:名無し曰く、
20/04/10 20:33:59 AimVXklJ.net
卞蘭 ベンラン (生没年不詳 233年頃までは生存)

徐州琅邪郡開陽県の人。魏の奉車都尉。卞秉の子で曹操の夫人・卞氏は伯母。子に卞暉と卞隆。
若い頃から才能と学問があり、奉車都尉・遊撃将軍に散騎常侍を加えられた。父の死後に開陽侯の爵位を継ぐ。
太子・曹丕の美徳を賛美する賦を献上すると、「内容が美化に過ぎるが、その行為は評価する」と牛一頭を送られた。
高堂隆が曹叡の大鐘の移送を諫言した際に、帝に変わって非難したが論破される。
卞蘭も明帝の奢侈を度々諫言したが、最期は酒精中毒と糖尿病で亡くなった。
人々は卞蘭が直言の士であったため、帝の面詰から自害したと噂した。

※『魏卞蘭贊述太子賦』などが現存。巫女とか迷信は信じなかった。

531:名無し曰く、
20/04/10 20:50:49 AimVXklJ.net
>>530
青龍三年に寿春の農婦が巫女の真似事して、水を与えたものを治癒することがあり、明帝はこれを厚遇した。
『集解』によると卞蘭の病床に送られた巫女の水は彼女のものとのこと。

532:名無し曰く、
20/04/24 01:23:33 mZH8wn9g.net
>>522
このスレに出てる人物も追加されてるんだな
1000人も出せばネタ切れするのかと思うが出そうと思えば出せるんだな

533:名無し曰く、
20/04/24 23:11:33 fA4iwu0D.net
しかし後期武将があんま増えなかったなあ

534:名無し曰く、
20/04/25 01:42:27 IT+9kvaC.net
魯芝が欲しかったなあ

535:名無し曰く、
20/04/25 01:48:50 eBfms1O4.net
周循はいないよね
ろくでなしの弟はいるのに

536:名無し曰く、
20/04/25 14:48:39 YLgbma/I.net
後期武将とか時代的にどこまで出せるんだろう
西晋の重臣や劉淵とか東晋の陶侃は作ったことはあるけど…
実際作成してる人はどこら辺まで作成してるのか気になる

537:名無し曰く、
20/04/25 18:15:57 IT+9kvaC.net
>>536
陶侃は流石に後すぎるなぁ
顧栄ぐらいがギリギリだと思う

538:名無し曰く、
20/04/25 18:19:21 IT+9kvaC.net
顧承は14にいるけど顧栄の方が欲しかったな

539:名無し曰く、
20/04/25 21:32:43 9N9txhPE.net
公式シナリオにしろ有志のシナリオにしろ、
260年代が最後なことが多いから
作るとしても260年代~270年代初頭には登場する武将かなー

自分は作品に登場したことある武将を除くと司馬衷とカナンプウが一番生年が遅かった

あとは楊駿とか司馬?みたいな西晋の混乱期の中心人物は作ってる

540:名無し曰く、
20/04/25 21:36:23 9N9txhPE.net
文字化けした。「?」はにんべんに「由」の方の司馬チュウね。

541:名無し曰く、
20/04/25 22:06:33 9N9txhPE.net
>>536
匈奴の劉淵とか、蜀の地で独立した李特とか、
西晋末期の将・孟観とかだとギリギリ蜀滅亡シナリオとか西蜀動乱で出せるけど、
能力的には末期の三国志武将より上(に査定しちゃう)から
なんか違うゲームになっちゃう気がして、
有能すぎる武将は出さなかったりする

542:名無し曰く、
20/04/25 22:29:53 YLgbma/I.net
533だけど
西晋混乱(八王の乱)ぐらい限界か…
まぁ出してもお前誰?って言われるのが見える…
それこそ陸幾・陸雲みたいな有名武将の子孫が限界か

543:名無し曰く、
20/04/26 02:03:36 3BACISnB.net
個人的な末期武将の登場基準は魏呉蜀どれかに仕えたことがあるか、かなぁ
既存の登場人物もそんな感じで選ばれてるように思う
顧栄、陸機、陸雲、周処あたりは大物の子孫だし、一応呉に仕えた記録があるからセーフ
仕えたのが西晋だけの人物はアウトだから、魏晋のボーダーラインは自ずと245年生まれあたりになる

544:名無し曰く、
20/04/26 08:55:59 /zX2D2KH.net
>>543
あー、それはわかるわ。
呉は後期は有能な武官が丁奉以外いないから周処あたりはそろそろ欲しい

545:名無し曰く、
20/04/27 09:39:19 y8npkYzV.net
火星 カセイ (?)

『捜神記』に記されている話。260年3月に呉に出現した、青い着物を着た子供の怪異。
軍の人質として送られた「保質童子」と呼ばれる子供の前に現れた。
自分は火星人だと名乗り、三国が司馬氏のものになる事を予言して空へ飛び去っていったという。

546:名無し曰く、
20/04/27 23:05:48 B0mjCAKl.net
甄像 シンゾウ (?~235年 生年は190年ぐらいか)

冀州中山郡無極県の人。魏の伏波将軍。父に甄儼、母は劉氏、子に甄暢ら四人、叔母に甄氏。
196年に父を亡くすと、甄像の養育を甄氏が手伝った。
太和元年(227年)、甄氏の故父が追封されるとその爵位を継ぎ、虎賁中郎将に任じられる。
230年に太常を兼任して甄氏の改葬を后土神に報告し、戻ると散騎常侍に昇進した。
青龍二年(234年)の春に亡父が安城郷穆侯の諡を受ける。
同年夏、呉が合肥、襄陽、広陵などに侵攻すると、曹叡は甄像を伏波將軍に任じ、節を持たせて東征する諸将を監督させた。
帰還すると射声校尉となるも翌年死去。諡に貞侯。

547:名無し曰く、
20/05/03 22:02:26 AOTeuErc.net
朱熊 シュユウ (?~256年頃)

揚州呉郡呉県の人。呉の虎林督。父に朱拠、兄弟に朱損、朱氏(孫休の皇后)、子に朱宣、孫魯育が生母かは不明。
五鳳年間(254-256年)に孫魯班の讒言で、孫峻によって孫魯育が殺害される。
その後、孫亮が魯育殺害の事件を調査すると、詰問された魯班は朱熊兄弟に罪を擦り付けた。
朱損の妻は孫峻の妹であり、また孫綝の専横を疎んでいた孫亮は、
孫峻を矯正出来なかったとして朱熊兄弟の誅殺を丁奉に命じる。
孫綝の助命嘆願があったが朱熊は虎林で、朱損は建業で殺害された。

※虎林は建業と柴桑の中間で、長江の東岸あたり。

548:名無し曰く、
20/05/07 14:35:52 jebVo2og.net
正史にも演技にも出ない勝手に作られた連中
URLリンク(naduke.s201.xrea.com)

549:名無し曰く、
20/05/09 20:21:32 AVWQjg/j.net
朱宣 シュセン (生没年不詳)

揚州呉郡呉県の人。呉の驃騎将軍。祖父に朱拠、父に朱熊、叔父に朱損。
太平年間(256年頃)、孫亮は孫魯育の死を、孫峻の側近であった朱熊、朱損の責任として彼ら兄弟を誅殺した。
しかし孫休の時代に名誉回復がなされ、朱宣は朱拠以来の爵位である雲陽侯を継承し、公主を娶る。
後の孫皓の時代には驃騎将軍まで登った。

550:名無し曰く、
20/05/16 21:07:08.99 xxrJQ0iz.net
趙五娘 チョウゴジョウ (生没年不詳)
『琵琶記』における蔡邕の妻。蔡邕と趙五娘は新婚夫婦であったが、両親の勧めで夫は科挙を受けるため上京する。
しかし、蔡邕は合格するも牛丞相に気に入られ、娘の牛氏を妻にと押し付けられてしまう。
一方、故郷の趙五娘は貧困の中で両親と死別したため、戻らぬ夫を探して都に向かった。
同じころ、境遇を嘆いていた蔡邕も牛夫人の働きかけで趙五娘と再会し、
天子から中郎将を、趙五娘は陳留郡夫人、牛氏は河南郡夫人にそれぞれ封じられた。
明代に完成した元曲『琵琶記』より。元々、夫の名は「蔡二郎」といったが、後に実在人物の「蔡邕」と結びつけられたという。

551:名無し曰く、
20/05/23 21:29:07 CFWkjyf2.net
牛亶 ギュウタン (生没年不詳)

後漢の五官中郎将。建安六年(201年)の趙韙の反乱で益州が乱れると、
許昌の朝廷は劉璋を召還して九卿につけ、その後任に五官中郎将・牛亶を益州刺史として派遣したが応じなかった。

552:名無し曰く、
20/06/05 00:08:37.11 sSbjxSA6.net
高拔奇 コウバツキ (生没年不詳)
高句麗の王子。新大王・高伯固の長子で、弟に男武、延優、罽須、子に駮位居。
新大王の没後(179年)、長男であったが不肖として、次男の男武が王(故国川王)に即位する。
建安年間に公孫康が高句麗の集落を焼き払うと、王位に不服であった拔奇は
涓奴部の部族長や三万戸を率いて降伏し、沸流水の上流に居住した。
高句麗では拔奇らの離反や胡族の反乱もあったため、王は別の場所に国を建て直すことになる。
その後、拔奇は遼東に居住したが、息子は高句麗に置き影響力を残した。
『三国史記』の記述では故国川王の死後の争いで敗れて自害した。

553:名無し曰く、
20/06/11 22:58:44.37 ts9uvb34.net
皇甫隆 コウホリュウ (生没年不詳)
涼州安定郡の人。嘉平年間(249年~254年)に趙基の後任として敦煌太守に任じられる。
皇甫隆は着任すると樓犂(牛犂に播種器を付けた農具)の作成や灌漑の方法を教授して収入を五倍に増やし、
また婦人の裾への贅沢な装飾を禁じた。こうしたことから現地民から倉慈に次ぐ評価を受ける。
他に『神仙伝』などに劉京から仙薬を教わり三百歳まで生きた、
道士・封君達から病気や諸毒、凶害を避けられる仙薬を伝えられ、曹操に与えた等の逸話が残る。
※おそらく皇甫嵩と同族

554:名無し曰く、
20/06/28 21:53:38 zniLSugn.net
関良 カンリョウ (?~200年?)

日本の人形浄瑠璃『諸葛孔明鼎軍談』に登場する関羽の弟。
関羽と共に下邳を守備していたが、劉備の逃亡から曹操軍百万騎の攻囲を受けた。
搦手を固めていた関良は敵軍が攻撃の気配なく、
自軍の士卒や兵糧も僅かであったため突撃を進言するも、そうした短慮を関羽に窘められる。
その後、張遼の説得で関羽が苦渋の末に降伏しようとすると、兄の心情を理解できず張遼に撃ちかかった。
しかし、関羽に組み伏せられ、涙ながらに降伏の証として刺し殺された。

※実際の関羽投降は200年の出来事だが、物語の筋が、霊帝不慮の死→曹操即位→劉備脱出とかいう急展開なので死亡年は?付き。

555:名無し曰く、
20/07/05 20:17:51 CQ6mK2+Q.net
繁欽 休伯 バキン キュウハク (?~218年)

豫州潁川郡の人。後漢の丞相主簿。若くして文才と機転の利いた弁舌に優れ、汝南、潁川で名を知られる。
同郷の杜襲、趙儼と荊州へ避難し、襄陽郡で生計をともに暮らした。荊州では劉表から目をかけられたが、
杜襲の意見で長沙へ移り、曹操が献帝を許に迎えると移住する。
繁欽は書や詩・賦を作ることに長け、建安七子に次ぐ名声を得た。『征天山賦』『定情詩』など多くの作品が現存する。
後に魚豢は、繁欽が重用されなかった理由を韋誕に問うと、
「慎みがまるで無かったためであったが、その才能は評価できる」と評した。

556:名無し曰く、
20/07/12 22:13:15 2bIqYyKg.net
車浚 シャシュン (?~276年)

荊州武陵郡の人。呉の会稽太守。公務に清廉で忠義に厚かった。
名声を聞きいて引見した陸遜との問答から、呉人の賓客らは「蛮郡に奇人がいたものだ」と言い合う。
すると「呉郡も太伯が蛮習を改めた結果、聖主や賢人が集いました」と答え、陸遜に称賛された。
天璽元年(276年)、会稽郡が旱魃の被害にあうと民衆に食料を貸し与えることを上表する。
しかし、孫皓は車浚が民と私的に恩義を結ぼうとしていると疑う。
また、車浚と湘東太守の張詠らは算緡(税の一種)を上納しなかったため、
役人が遣わされて斬首となり、首が諸郡に晒された。

※出身地は「武陵蠻夷郡,乃有此奇人也。」から。曾孫に「蛍雪の功」で有名な車胤がいる。こっちは南郡出身。

557:名無し曰く、
20/07/20 19:07:31 5Oi2lvcU.net
黄元 コウゲン (?~223年)

蜀漢の漢嘉太守。章武二年(222年)十二月、夷陵で敗れた劉備が病になると、諸葛亮は永安まで見舞いに向かう。
漢嘉太守の黄元は諸葛亮と不仲であり、将来を憂いて郡をあげて反乱を起こした。
そうして黄元は漢嘉郡と成都の間にある臨邛城を焼き、手薄な成都に攻め入る様子を見せる。
しかし、楊洪の進言で派遣された将軍の陳曶、鄭綽によって軍は敗北。
その後、東に逃亡するも、楊洪の策で東方に通じる南安峡を封鎖されたため捕縛され、成都で斬られた。

558:名無し曰く、
20/07/21 18:16:34 E5qannby.net
栗成 リツセイ (栗攀とも) (?~193年)

漢の魏郡太守。袁紹によって魏郡の太守に据えられる。
初平四年(193年)、袁紹が公孫瓚討伐の帰路の薄洛津で大宴会を開いていたころ、
魏郡の兵士たちが反乱を起こした。
彼らは黒山賊の于毒らと手を結んで数万で鄴城を攻撃したため、太守の栗成は殺害された。

559:名無し曰く、
20/07/22 20:31:27 DTi3XuWH.net
虞松 叔茂 グショウ シュクボウ (生没年不詳)

兗州陳留郡の人。魏の中書令。辺譲の外孫で子に虞濬。若くして才能があり、
238年の司馬懿の遼東遠征に従軍して檄文や布告文を作成し、帰還すると司馬懿の掾に召された。
二十四歳で中書郎に、後には中書令や太守を務め、司馬懿亡き後は傅嘏と共に司馬師の参謀として活躍する。
253年に諸葛恪と姜維が同時に魏に侵攻してくると、双方の目論見を見抜いて堅守と急襲をそれぞれ献策した。
甘露元年(256年)に曹髦の宴の席で、荀?、崔賛、袁亮、鍾毓らといにしえの皇帝の優劣を議論する。
官位は大司農まで登り、書家としても有名だった。

560:名無し曰く、
20/07/25 18:58:12 4m0FkecD.net
陸敬叔 リクケイシュク (生没年不詳)

呉の孫権の頃の建安太守。ある時、彼が大きな樟を伐らせると幹から血が噴き出し、
木が切断されると中から人面犬が出てきた。
『白澤図』によると「木精の名は彭侯といい、黒犬の姿で尾は無く、煮て食べられる」とある。
陸敬叔はそのことを知っており、煮て食べてしまった。

※字と思われる「敬叔」が、陸凱(敬風)、陸胤(敬宗)の兄弟と近しいため彼らの弟かもしれない。

561:名無し曰く、
20/07/30 00:50:49.69 66AuUzO0.net
岑述 元倹 シンジュツ ゲンケン (生没年不詳)
蜀漢の司塩校尉。諸葛亮に取り立てられて司塩校尉となる。
張裔とは不仲であり、諸葛亮は張裔にその件を窘めた。
建興九年(231年)、督運領として李厳のもとで北伐軍への兵糧輸送の任に就く。
しかし、長雨で輸送が果たせず諸葛亮が帰還すると、
問責を恐れた李厳は岑述に罪をかぶせ殺そうとしたという。その後の事績は不明。

562:名無し曰く、
20/08/03 22:26:34 oGuv/bhj.net
路蕃 ロバン (生没年不詳)

諸葛誕の騎督。甘露二年(257年)に諸葛誕が反乱を起こすと、
偏将軍の路蕃と平寇將軍の龐会は共に脱出を図り反乱に加わらなかった。
こうした功績から曹髦より亭侯に封じられる。
泰始七年(271年)、匈奴の劉猛が反乱を起こすと、胡奮を監軍として路蕃は先鋒となり敵軍を打ち破った。

563:名無し曰く、
20/08/10 21:59:30 nsWjWyjM.net
蒋子文 ショウシブン (生没年不詳 没年は190年あたり)

徐州広陵郡の人。後漢の秣陵郡の尉。酒好きの好色で、自ら「青骨」であり死後に神になると言っていた。
彼は鍾山の麓で賊軍と戦って戦死したが、孫権の初期、白馬に白羽扇を持って出現する。
蒋子文は「我は土地神なり。祠を建てなくば災禍を起こす」と言った。
報告を受けた孫権は妖言と取り合わなかったが、
災いが続いたため都中侯に封じ彼の廟堂を建てて、弟の蒋子緒を長水校尉に任じる。
彼の戦死した鍾山は蒋山と呼ばれ、霊地とされた。

564:名無し曰く、
20/08/17 23:32:57.69 K+SIcoy9.net
夏侯纂 カコウサン (生没年不詳)
蜀漢の広漢太守。劉備が益州を治めると、秦宓を招聘して師友祭酒、五官掾に取り立てた。
夏侯纂は平素より秦宓を尊敬しており、彼を仲父(管仲のこと、後に偉人を指す)と呼んだり、
三度邸宅を訪問したりするなどの逸話が残る。
ある時、秦宓が病と称して臥せっていると、功曹の古朴と主簿の王普を連れて食膳などを持ち込んで見舞いに訪問した。
その際に益州について尋ねると、水流、人物、天文を絡めた秦宓の説明に感服して何も言えなくなってしまった。
※揶揄するニュアンスで益州のことを質問したため、おそらく益州外の人。

565:名無し曰く、
20/08/25 21:51:29 1fAZiMMc.net
郭氏 カクシ (?~263年)

涼州西平郡の人。曹叡の皇后。父に郭満、母に杜氏。
豪族の家系だったが、黄初年間の西平郡の反乱に連座し後宮に入れられる。
曹叡が即位(226年)すると寵愛を受け夫人となり、帝が危篤になると皇后に立てられ、後に皇太后、永寧宮と呼ばれた。
幼帝続きの魏では司馬氏が実権を握ったが、皇室の第一人者として尊ばれ、
曹芳廃位後、司馬師の意見を退けて曹髦を新帝に推薦する。
257年の諸葛誕の乱のおり、司馬昭は変事を恐れてか、曹髦と郭皇太后を連れ立って親征を行った。
没後は明帝陵の西に埋葬され明元郭皇后と諡された。

※西平郡の反乱とは、おそらく麹演(220年)か麹光の反乱。

566:名無し曰く、
20/08/27 12:31:38 aCZtkqAS.net
藤林丈司

567:名無し曰く、
20/08/31 21:35:02.11 P1Ee6OpP.net
劉闡(緯) リュウセン (生没年不詳)
荊州江夏郡竟陵県の人。呉の御史中丞。劉璋の子で兄に劉循。
人となりは慎み深く、財を軽んじ義を愛し、長者の風があった。
194年に伯父の劉範らが李傕に殺害された際、従兄弟らと共に龐羲に保護されて成都に避難した。
建安十九年(214年)に劉璋が劉備に降伏すると父と共に公安に移り、五年後に孫権が荊州を支配すると呉に帰順する。
223年、雍闓が反乱を起こすと、孫権によって益州刺史に任じられ交州と益州の境界に駐屯したが、
諸葛亮が南中を平定すると呉に戻され御史中丞を務めた。
※龐羲が保護したのは劉焉の諸孫なので含まれていないかも。一名に劉緯。

568:名無し曰く、
20/09/08 23:27:52 VaLm5055.net
黄柱 コウチュウ (生没年不詳)

荊州南陽郡の人。蜀漢の光禄勲。建安二十四年(219年)、劉備が漢中王となると光禄勲に任命される。
翌年、許靖、糜竺、諸葛亮、頼恭、黄柱、王謀らは劉備に皇帝即位を促す勧進文を送った。

※黄忠と同族か

569:名無し曰く、
20/09/16 23:30:54.76 gJleAIgS.net
程喜 申伯 テイキ シンハク (生没年不詳)
魏の征北将軍。太和六年(232年)、反乱した公孫淵に対応するため田豫が青州諸軍の都督となったが、
青州刺史であった程喜は内心不満を抱いて、軍事の際に意見が対立することが多かった。
田豫は呉が遼東まで遣わした周賀らを待ち伏せして撃破したが、程喜の讒言で功績が取り消しとなる。
後に征北将軍に昇進し薊城に駐屯したが、249年に幽州刺史の杜恕が鮮卑族を処刑した際に朝廷に報告しなかった。
程喜は司馬の宋権を送り頭を下げるよう示唆したが、拒絶したため弾劾文を上奏した。
朱建平に人相見を受けたことがあるが珍しく当たらなかった。
※魏の引用が多い『唐開元占經』には(讒言の結果か)程喜が周賀を射殺し軍功を挙げたことが記されている。

570:名無し曰く、
20/09/23 20:02:41.37 FDn+7wVN.net
朱誕 永長 シュタン エイチョウ (生没年不詳)
揚州呉郡の人。呉の建安太守。賢良に挙げられ議郎に累遷し、孫皓の頃には建安太守を務めた。
同郡の蔡洪からは「理物の至徳、清選の高望なり」と評される。
晋朝では淮南内史の後に光禄大夫に任じられた。
同郷の陸雲や孫恵と親交があり303年に陸雲らが誅殺されると、孫恵から死を嘆く手紙を送られる。
305年の陳敏の乱には賀循と同じく同調しなかった。他に、蝉や蝙蝠の妖怪変化に関わる逸話が残る。

571:名無し曰く、
20/09/29 18:17:08.90 ziC/rXyj.net
馬斉 承伯 バセイ ショウハク (生没年不詳)
益州巴西郡閬中県の人。蜀漢の尚書。巴西郡の功曹であったが、
太守の張飛に推挙され尚書郎となる。
建興年間(223年~237年)に従事丞相掾に任じられ、その後は広漢太守に昇進し、
また諸葛亮の参軍に戻った。諸葛亮の死後は尚書を務め、郷里からは姚伷に次いで信頼を受けた。
※地元の張飛廟には張苞と並んで張飛に侍っているとか。

572:名無し曰く、
20/10/06 19:42:51.49 9G+tscCO.net
扈瑁 コボウ (生没年不詳)
豫州潁川郡の人。後漢の益州刺史。194年に劉焉が没し劉璋が跡を継ぐと、
長安の李傕政権は扈瑁を益州刺史に任じて漢中に入らせた。
荊州別駕の劉闔や劉璋の將・沈弥、婁発、甘寧らはこの動きに乗じて劉璋を攻撃する。
しかし、勝利は得られなかったため、彼らは荊州に敗走した。

573:名無し曰く、
20/10/13 23:43:29.07 2+avPvv5.net
任嘏 昭先 ジンカ ショウセン (生没年不詳 同門の国淵と同世代)
青州楽安郡博昌県の人。魏の河東太守。父に任旐。幼くして賢く、善良な人柄を讃えられる。
十四歳で鄭玄に師事し、三年で五経を暗唱し、諸説に通じて神童と呼ばれた。
家は貧しくも利を貪らず、郷里では礼の規範に仰がれる。
曹操の初期に推挙され曹植の庶子、相国東曹属、尚書郎を務め、曹丕の頃には黄門侍郎となり、
東郡、趙郡、河東太守を歴任した。
彼は自らの美点を表に出さなかったため、生前の評価はさほどだったが、
死後に部下の東郡の程威、趙国の劉固、河東の上官崇らが行為や著述を上奏したため、詔勅により緒言が編集された。

574:名無し曰く、
20/10/21 18:40:26.17 gynCUq2m.net
賀景 ガケイ (生没年不詳)
揚州会稽郡山陰県の人。呉の滅賊校尉。賀斉の子、兄に賀達、子に賀邵。
兄と共に名声があり、良将であった。厳格と恩情をもって統率し、
装備を充実させること当代一であったが、早世した。

575:名無し曰く、
20/10/27 22:42:26.64 CZSxfTk/.net
王沖 オウチュウ  (生没年不詳)
益州広漢郡の人。蜀漢の牙門将軍。江州督の李厳のもとに所属したが、
李厳から憎まれて罪を恐れて魏に降伏した。魏では彼を冀州の楽陵太守に任じる。
225年頃、王沖が南から孟達を訪問した際に
「諸葛亮は孟達の妻子を誅そうとしたが、劉備に止められて果たせなかった」と
虚言を語ったが、孟達に「諸葛亮は公平であるゆえ間違いだろう」と否定された。

576:名無し曰く、
20/11/03 21:33:59.00 K3T1Rc+0.net
韓瑛 カンエイ (?~228年)
演義の登場人物。韓徳の長男。弟に韓瑶、韓瓊、韓琪。兄弟で武芸に精通し弓馬に優れた。
太和二年(228年)に諸葛亮が侵攻を開始すると、韓徳率いる八万の軍勢で長安の夏侯楙のもとに参じる。
先鋒となった韓徳が蜀軍を罵ると趙雲が出てきたため、韓瑛が迎え撃ったが、三合と打ち合う前に槍に刺されて死亡した。
韓瑤 カンヨウ (?~228年?)
演義の登場人物。韓徳の次男。兄に韓瑛、弟に韓瓊、韓琪。兄弟で武芸に精通し弓馬に優れた。
太和二年(228年)に諸葛亮が侵攻を開始すると、韓徳率いる八万の軍勢で長安の夏侯楙のもとに参じる。
蜀軍との対峙で兄が趙雲に討たれると、韓瑶は宝刀を揮って挑んだが、力及ばず、不利と見た弟らも出てきて三人で戦った。
しかし奮戦むなしく、韓琪は槍に突かれて落馬し、韓瓊は矢で射られ、
自身は一人で挑みかかったところを趙雲に生け捕られ陣まで連れていかれた。

577:名無し曰く、
20/11/09 18:32:37.80 MgogOKi3.net
韓瓊 カンケイ (?~228年)
演義の登場人物。韓徳の三男。兄に韓瑛、韓瑤、弟に韓琪。兄弟で武芸に精通し弓馬に優れた。
太和二年(228年)に諸葛亮が侵攻を開始すると、韓徳率いる八万の軍勢で長安の夏侯楙のもとに参じる。
蜀軍との対峙で長兄が趙雲に討たれ、続いた次兄の不利を見ると、
方天戟をもって参戦したが、趙雲を崩せず結局兄弟三人で戦った。
暫くして弟が落馬すると、趙雲が馬を返したので、弓で射るも全て叩き落される。韓瓊は激怒して斬りかかったが趙雲に顔を射られて死亡した。
韓琪 カンキ (?~228年?)
演義の登場人物。韓徳の四男。兄に韓瑛、韓瑤、弟に韓琪。兄弟で武芸に精通し弓馬に優れた。
太和二年(228年)に諸葛亮が侵攻を開始すると、韓徳率いる八万の軍勢で長安の夏侯楙のもとに参じる。
蜀軍との対峙で長兄が趙雲に討たれ、続いた兄達の不利を見ると一対の日月刀をもって趙雲を囲み三人で戦った。
しかし、しばらく後に槍で突かれて落馬し、味方に救出された。

578:名無し曰く、
20/11/18 20:24:41.36 eNQ5zto3.net
薛永 茂長 セツエイ ボウチョウ (生没年不詳)
兗州の人。蜀漢の蜀郡太守。父に薛蘭、子に薛斉。
父が李整ら曹操軍に斬られたのち、劉備に従って入蜀。蜀郡太守に任じられた。
薛斉 夷甫 セツサイ イホ (生没年不詳)
兗州の人。蜀漢の蜀郡太守。父に薛永。蜀漢で巴郡、蜀郡太守を務める。
国が亡ぶと、五千戸を率いて魏に投降し、光禄大夫を拝した。
後に河東郡に移住したため、その地域の薛氏は「蜀薛」と呼ばれた。
『新唐書』宰相世系が出典。系譜では淮陽郡への移住までしか書かれていないが、
薛蘭が兗州別駕なことから、どこかで兗州に移住したのだろう。

579:名無し曰く、
20/11/24 19:09:01.11 c2Tk6TMM.net
孫鄰 公達 ソンリン コウタツ (202年頃?~249年)
揚州呉郡冨春県の人。呉の威遠将軍。父に孫賁、子に孫苗、孫述、孫震、孫歆など。
雅にして聡く、幼くして評判が高かった。九歳で父を失うと豫章太守を代行し、都郷侯に封じられる。
その後、太守は顧邵に引き継がれたが豫章で二十年暮らし、賊を平定して功績をあげた。
武昌に召喚されると宿営軍を率いる繞帳督に任じられる。
当時、太常の潘濬が獄中の舒燮を処刑しようとしたが、先祖の功績を引き合いに出して助命した。
後に夏口督、沔中督を務め威遠将軍に任じられた。
※241年頃は沔中督なので朱然、呂拠、朱異らと共に樊城を攻囲した「孫倫」と同一人物かも。
また、9歳で太守は無理なので19の脱字との説もある。

580:名無し曰く、
20/12/02 22:24:37.61 84yDRJGQ.net
李婉 淑文 リエン シュクブン (生没年不詳 没は300年以前)
雍州馮翊郡東県の人。賈充の妻。父に李豊、娘に賈褒、賈裕。
美しく淑やかで才能があり、賈充に嫁いだが、254年に父の罪で楽浪郡に徒刑となる。
265年に大赦で戻るも賈充は後妻・郭槐を娶っており、司馬炎から二人の正室を許可されるも、
郭槐に脅された賈充は固辞して別居となった。
郭槐は娘の賈南風が皇太子妃となると威儀を盛んにして会いに行ったが、
彼女の気品に思わず二度頭を下げてしまい、その後は夫が李婉と会わないよう警戒する。
娘らは母の帰還を懇願したが果たせず、賈南風の死後にやっと夫婦の合葬が認められた。著作に『女訓』。

581:名無し曰く、
20/12/08 21:31:52.37 8+P65Dag.net
王林 オウリン (生没年不詳)
蜀漢の武将。延熙七年(244年)、曹爽ら魏軍十万が漢中に侵攻する。
王林は夏侯玄の副将であった司馬昭の陣地を夜襲したが、
司馬昭は寝たまま動かず、兵に動揺が無かったため撤退した。

李広 祖和 リコウ ソカ (生没年不詳)
荊州南陽郡の人。方士。劉備が李広を得ようと軍を派遣すると、
李広は半天に霧を起こして惑わし、そのため兵士たちは同士討ちしてしまった。
その後、李広は呉に移った。

582:名無し曰く、
20/12/17 23:38:25.48 j7dN/fyd.net
胡威(貔) 伯虎 コイ ハクコ (?~280年)
揚州楚国寿春県の人。魏の青州刺史。父は胡質、弟に胡羆、子に胡奕。
若くして志を持ち、父を同じく潔白の行いを貫いた。250年に父が死ぬと家督を継ぐ。
徐州刺史となり、安豊太守などを歴任して各地で名を上げた。
254年の諸葛誕の乱では石苞の指揮のもとで外敵に備える。司馬炎に謁見した際に、
父と己の清廉を問われると「父は行いを人に知られるのを恐れ、
私は知られない事を恐れるため、私は父に遠く及びません」と答えた。
中央では尚書として寛政を諫め、水陂の害を訴え、
外に出ては前将軍、監青州諸軍事、青州刺史まで昇った。諡は烈。
※石苞伝の諸葛誕の乱の記事で「徐州刺史胡質」の文が出るが胡威の誤記と思われる。

583:名無し曰く、
20/12/18 12:46:47.35 izfFvWvH.net
姜維の子供とかの情報ってあの動乱でころされたくらいしかないんですかね?

584:名無し曰く、
20/12/22 23:05:43.68 xgThnoEh.net
羊琇 稚舒 ヨウシュウ チジョ (生没年不詳)
兗州泰山郡南城県の人。晋の中護軍。両親は羊耽と辛憲英、従兄弟に羊祜ら。
智恵と計略にすぐれ、若くして郡の計吏に任じられた。
263年の征蜀では鍾会の参軍事として同行し、鍾会の乱の際に与せず諫言したことで関内侯を賜る。
また昔から司馬炎と親しく、彼の立太子に貢献した功績から、晋朝が開かれると中護軍に任じられ厚遇された。
性格は奔放で奢侈を好み、法を犯して劉毅に弾劾されたが、免官だけで済み白衣(無官)で護軍を率いる。
282年の司馬攸出鎮には反対し、楊珧の暗殺を目論んだが、露見して太僕に左遷され病没した。

585:名無し曰く、
20/12/30 06:36:00.72 T4ol3yDH.net
>>583
新唐書によると、末裔の姜明は上邽に住んだって記載はある

586:名無し曰く、
20/12/31 17:42:03.09 QcEvBVaU.net
陳哲郎 禍酢 (1962年~
立憲民主党に属する反日帰化人
2020年のCOVID-19関連の予算委員会の席上で、
政府専門家会議の尾身茂副座長に対して恫喝まがいの口調で突っかかった際は
医師や科学者から批判が殺到する騒ぎとなり、この騒ぎに便乗したyoutuber令和たけちゃんの抗議街宣で
「陳哲郎出てこ~い!陳哲郎~!ちんちん~!」と言われた

587:名無し曰く、
21/01/12 22:01:54.90 61l24aOI.net
杜軫 超宗 トシン チョウソウ (生没年不詳)
益州蜀郡成都県の人。晋の尚書郎。父は杜雄、子に杜毗、杜秀。
譙周に師事して経書に通じ蜀郡の功曹となる。263年、鄧艾の軍が成都に迫ると太守に逃走を勧め、
府に訪れた牽弘に高く評価された一方で、彼の元で功曹となることは固辞した。
268年に羅憲の推挙によって孝廉に挙げられ、建寧県令を任じられると徳政による教化で異民族からも敬服される。
池陽県令に移ると雍州で筆頭の成績を治め、昇進を繰り返し尚書郎となった。
杜軫は博学で同門の李驤と共に議論で優れたため「蜀に二郎あり」と称される。
後に犍為太守を務め、五十一歳で没した。
※征蜀時の蜀郡太守・南陽の張府君とは誰だろう?
張載の父の蜀郡太守・張収は河北の安平県出身だし、張存の一族だろうか

588:名無し曰く、
21/01/19 20:57:41.47 xDBovImc.net
趙融 稚長 チョウユウ チチョウ (生没年不詳)
涼州天水郡の人か。後漢の西園八校尉の一つ助軍左校尉を務める。
後に曹操のもとで盪寇将軍や光禄大夫に任じられ、曹操や荀彧に並んで世に名高かった。
しかし、196年に許に来た禰衡は、彼の腹が大きい事から「厨房で接待するのがお似合いだ」と評した。
子孫に北魏の趙逸などがいる。

589:名無し曰く、
21/01/24 13:51:36.51 1DyBJyNd.net
太鼓腹と西園八校尉は別人じゃないの?

590:名無し曰く、
21/01/26 20:36:42.41 8Kr7t6E2.net
許晏(沇) 孝然 キョアン コウゼン (生没年不詳)
豫州汝南郡平輿県の人。呉の丞相。同族に許靖や呉の光録勳・許光。
左右の丞相である陸凱、万彧の後任として呉の丞相となる。
史書には記載がないが、天璽元年(276年)に孫皓が建てた封禅国山碑に「丞相沇」と名が残る。
また、道教書『真誥』にある「許長史」の注釈に「呉丞相・許晏、字は孝然、四世代前の族祖」とある。
公孫淵に斬られた許晏とは別人。
※許晏の別名に「沇」があり(音が似てるし)、斬られた許晏はと別人と解釈した。

591:名無し曰く、
21/02/03 21:14:02.36 3E+l3DIe.net
孫丞(拯) 顕正 ソンジョウ ケイセイ (?~303年)
揚州呉郡富春県の人。呉の黄門侍郎。孫河の一族で父は孫慎。
学問を好み文才があって、彼の『蛍火賦』は世間に流行した。
黄門侍郎に任じられ、顧栄と共に孫皓の側近として従事する。
孫皓の命で出来事の記録や問題点の諮問を受けたが、その働きぶりを称賛され、過失なく職務を全うした。
280年に呉が降伏すると、涿県令を務めて大いに治績をあげる。
303年、成都王・司馬穎に付いた陸機に招かれて司馬となったが、陸機が讒言を受け処刑されると獄中で死んだ。

592:名無し曰く、
21/02/09 18:55:25.16 nkcH/bRt.net
顧栄 彦先 コエイ ゲンセン (?~312年)
揚州呉郡呉県の人。呉の黄門侍郎。祖父に顧雍、父に顧穆。
黄門侍郎に任じられ、孫丞と共に孫皓の側近として従事する。
孫皓の命で出来事の記録や問題点の諮問を受けたが、その働きぶりを称賛され、過失なく職務を全うした。
後に陸機兄弟と晋に仕えると「三俊」と称され、郎中から尚書郎、太子中舎人、廷尉正を務める。
八王の乱では各王に仕えたが、後に災いを避けて故郷に戻り、陳敏の乱の平定に助力した。
元帝が江南に移ると軍司となり、重んじられ度々諮問を受けた。諡は元。
琴を好んだため、家人は霊座に琴を置いたという。

593:名無し曰く、
21/02/16 21:10:31.46 p0IK3Qs6.net
賀邵 興伯 ガショウ コウハク (226年~275年)
揚州会稽郡山陰県の人。呉の中書令。祖父に賀斉、父に賀景、子に賀循。
若い頃に姚信と共に范平に師事する。
孫休の時代に散騎常侍、呉郡太守を務め、孫皓の時代には中書令と太子太傅を兼任した。
269年、陸凱は臨終の際に、国家の支えとなる臣下の一人として賀邵の名を挙げる。
賀邵は孫皓の暴政を諫めたが、孫晧の側近らの讒言で問責を受けた。
後に楼玄と異なり復職したが、病で口が利けなくなり退職する。
しかし孫皓はこれを疑い、酒蔵の役人に預け、拷問して殺してしまった。
家族は臨海郡に徒刑となり呉の平定まで故郷に戻れなかった。

594:名無し曰く、
21/02/23 22:39:05.15 Ec1zF40k.net
劉彪 仲雅 リュウヒョウ チュウガ (生没年不詳)
徐州広陵郡の人。晋の積弩将軍。前漢の広陵厲王の末裔。父に劉観、兄に劉頌。
279年に安東将軍・王渾の軍に参与し、楊荷橋の戦いでは張悌を捕縛し、積弩将軍に昇進した。
295年の冬に武器庫が火事になると延焼を防ぐため家屋を断ち切ることを進言し、
多くの宝物が救出される。官職は荊州刺史まで昇った。

595:名無し曰く、
21/04/07 23:10:02.05 9au6JWN4.net
張尚 チョウショウ (生没年不詳)
徐州広陵郡の人。呉の中書令。祖父に張紘、父に張玄。俊才と評判で、孫皓の頃に侍郎となる。
弁舌により抜擢され侍中、中書令を務めたが、談論の際に常に孫皓を出し抜いたため恨まれた。
後に琴の練習を命じられ、ある時、私的な席で「晋の平公は徳が足りないため師曠は演奏を断った」
と琴の故事を語ったが、孫晧はこれを誹謗と取って捕縛し獄に入れる。
尚書の岑昏ら公卿らが助命を求めたため、建安郡で造船の労役を命じられたが、後に誅殺された。

596:名無し曰く、
21/05/06 21:02:25.88 XWGm6gx8.net
陸晏 リクアン (?~280年)
揚州呉郡呉県の人。呉の裨将軍。陸抗の長男、弟に陸景、陸玄、陸機、陸雲、陸耽。
274年に父が亡くなると跡を継ぎ、陸耽を除く兄弟で軍兵を分割相続し、
陸晏は裨将軍、夷道監に任じられた。
天紀四年(280年)二月、王濬が来寇すると夷道城で抵抗したが、捕らえられて斬られた。

597:名無し曰く、
21/05/11 22:22:57.89 31v+H0k5.net
陸景 士仁 リクケイ シジン (250年~280年)
揚州呉郡呉県の人。呉の偏将軍。父は陸抗、母は張承の娘、兄に陸晏、弟に陸玄、陸機、陸雲、陸耽。
253年に諸葛恪が誅殺されると、その姪であった母と離別し祖母(孫氏)に育てられる。
孫皓の妹を娶ったことから騎都尉に任じられた。274年に父が亡くなると、
陸耽を除く兄弟で軍兵を分割相続し、偏将軍、中夏督となる。
天紀四年(280年)二月、王濬が来寇すると楽郷城北の江水で捕らえられて斬られた。
行いは清潔で学問を好み著作は数十編あった。

598:名無し曰く、
21/05/18 23:59:10.86 EKLuepL6.net
田章(璋) デンショウ (生没年不詳)
魏、晋の将軍。263年、鍾会らの征蜀軍に参加する。
鍾会は本隊を剣閣に進める一方で、田章を西に迂回させ江由に向かわせた。
田章は江由の百里手前で蜀軍の伏兵三部隊を撃破する。また、鄧艾と合流するとその先方となった。
後に後将軍となり、泰始四年(268年)十月に施績や万彧が侵攻すると荊州刺史・胡烈と共にこれを撃破する。
泰始六年(270年)六月、秦州刺史・胡烈が万斛堆で白虎文、薬蘭泥に敗れると、
石鑒が都督秦州諸軍事に任じられ安西軍師・杜預、涼州刺史・牽弘、奮威護軍・田章らが集められた。
田章は秦州に進撃して薬蘭泥を破った。
※田続の親戚だろうか。また江由の守将は馬バク。

599:名無し曰く、
21/05/25 23:28:36.96 Q7EqaPlM.net
司馬亮 子翼 シバリョウ シヨク (?~291年)
司隷河内郡温県の人。晋の汝南王。司馬懿の三男、母は伏夫人で同母弟に司馬伷、司馬京、司馬駿。
257年の諸葛誕の乱での失策から免官されたが、後に復職し鎮西将軍となる。
晋朝が開かれると都督関中雍涼諸軍事となり西方の抑えとなったが、
270年に怯えた部下のために胡烈を救援できなかった。
その後、司馬氏の長老格として一族の風紀を取り締まるべく宗師に任じられる。
司馬炎没後、楊駿派が一掃されると洛陽に戻って衛瓘と重職に就いたが、楚王・司馬瑋と対立し殺害された。
※本人の伝だと四男、母の伏夫人の部分では司馬亮、伷、京、駿の順で書かれている(つまり三男)

600:名無し曰く、
21/05/26 20:07:18.41 6iwJ0PTt.net
三人目の息子の名が自分の宿敵と同じ名とは

601:名無し曰く、
21/05/26 22:04:59.00 dgq6ApL0.net
しかもでかい象に乗っていそう。

602:名無し曰く、
21/05/27 04:31:51.89 R5p1d9LC.net
さらに中国拳法の達人ですねわかります

603:名無し曰く、
21/06/01 23:53:05.78 YGlRXN3D.net
山濤 巨源 サントウ キョゲン (205年~283年)
司隷河内郡懐県の人。晋の司空、竹林七賢の一人。父は山曜、妻は韓氏。酒豪であった。
幼くして孤児となったが器量を有し、老荘学を好んで嵆康・阮籍・呂安らと交流した。
四十歳で初めて出仕し、孝廉にも挙げられたが曹爽の専横から隠棲する。
張春華と親類であったため、司馬師の時代に出仕し尚書吏部郎を務めた。
司馬昭が鍾会の乱の後始末に出向くと鄴の留守を任される。
後に冀州刺史となると多くの賢才を抜擢し、民衆から慕われた。
中央では太子少傅・尚書右僕射などを務め、司徒に推されるも老齢から官を辞した。

604:名無し曰く、
21/06/04 22:10:58.61 JNqprT32.net
劉弘 和季 リュウコウ カキ (236年~306年)
豫州沛国相県の人。晋の車騎将軍。劉馥の孫、劉靖の子。戦略と政治の才があった。
洛陽で同年の司馬炎と親しく学び、その縁から太子門大夫から太宰の長史を務める。
張華に評価され監幽州諸軍事として北方に駐屯すると、威光と恩恵により盗賊が途絶えた。
後に羊祜の参軍になり、荊州鎮護の後継と目される。
琅邪国相にうつると、279年の征呉戦では司馬伷配下として建業に迫った。
303年に江夏で張昌が反乱すると荊州刺史として討伐し、その後は荊州を統治して大いに治績があった。
八王の乱では中央の混乱を嘆き、安定に助力した。

605:名無し曰く、
21/06/16 19:05:44.63 zlEM7c5j.net
裴楷 叔則 ハイカイ シュクソク (237年~291年)
司隷河東郡聞喜県の人。晋の侍中。祖父に裴茂、父に裴徽、従兄弟に裴秀。
高邁な気風と優れた容姿から「玉人」と賛美され、また博識で『老子』や『周易』に精通し、
王戎や王済、和嶠らと名声を等しくした。
吏部郎に欠員が出た際に司馬昭が鍾会に相談すると、「裴楷は清通、王戎は簡要」と勧めたため吏部郎に任じられ、
263年頃は相国掾に、後に尚書郎となる。
司馬炎の時代では、散騎常侍や右軍将軍、侍中を務めるなど側近の一人であった。
八王の乱では、楊駿や司馬亮、衛瓘らと縁戚で何度か危機に陥るも難を逃れた。

606:名無し曰く、
21/06/18 21:29:20.21 oyGsrwb0.net
李胤 宣伯 リイン センハク (?~282年)
遼東郡襄平県の人。晋の司徒。祖父に李敏、父に李信、同母弟に牽嘉。
生まれてすぐに母は離縁され、数年で父も亡くなり孤児となるも、行方不明の祖父の位牌に仕えて孝行で知られた。
公孫淵が滅びた後に郡や州に仕えて孝廉に挙げられると鎮北将軍の軍事に参与する。
その後は地方や中央の職を歴任して清簡な政治を行った。
司馬昭が従事中郎に求め、蜀征伐時は西中郎将として関中諸軍を統括する。
司馬炎の治世では太子少傅となり、忠節を評価され司隷校尉を兼任した。
李胤は内外の重職を歴任したが、家が貧しかったため十万銭が贈られた。
※上司の鎮北将軍で該当しそうな人は許允・劉靖・呂昭・陳本

607:名無し曰く、
21/06/25 21:30:50.82 +V94+FjJ.net
夏侯咸 カコウカン (生没年不詳)
鎮西將軍・鍾会の司馬。景元四年(263年)、鍾会のもとで征蜀軍に加わった。
諸葛瞻が敗れ、姜維が剣閣から退き成都を目指すと、鍾会は夏侯咸と胡烈を派遣する。
二隊は広漢の新都に向かって姜維の進路を塞ぎ、句安らが追撃し、皇甫闓と王買は側面を突く形で進軍した。
さらに鍾会の命で、夏侯咸と皇甫闓は包囲網を広げ逃走を阻んでいると、劉禅からの命が届き姜維は降伏した。

608:名無し曰く、
21/07/05 20:29:27.19 UpfWGV2V.net
孫楚 子荊 ソンソ シケイ (?~293年)
并州太原郡中都県の人。晋の馮翊太守。祖父に孫資、父に孫宏。
卓絶した才能を有したが、自尊心が高かった。四十歳で初めて石苞の参軍事となり、
孫晧への降伏勧告文を作成する。しかし、平素より石苞を軽んじたため不仲であった。
司馬駿が秦州方面を任されると、旧交から参軍に起用され、梁県令の後に今度は衛将軍・羊祜の司馬となる。
284年、武庫の井戸に龍が現れると凶兆と解した。
291年に楊駿が大権を握ると、その政治態度を諫めたが聞き入れられなかった。
また王済と親しく「漱石枕流」の逸話などが残る。賦を始め多くの作品が現存。
※40歳代で鎮東将軍(258年就任)に参与するので生年は218年ぐらいか

609:名無し曰く、
21/07/10 22:52:16.62 eT6N4s/J.net
李毅 允剛 リキ インゴウ (?~306年)
益州広漢郡郪県の人。晋の益州別駕。祖父に李朝、父に李旦。
若い頃は品行を正さなかったが、二十歳にして『通詩』『礼訓』を学んだ。
言動を広漢太守の王濬に気に入られ、272年に張弘が益州刺史・皇甫晏を殺害すると率先して討伐を進言する。
王濬が益州刺史となると主簿から別駕を務め、何攀と共に呉征伐に従事して関内侯に封じられた。
その後は犍為太守、使持節、南夷校尉となり、南方の反乱を鎮圧して寧州刺史・龍驤将軍となる。
李特が益州で反乱すると羅尚に兵を送り、李雄が異民族と攻め寄せると城を堅守したが病没した。

610:名無し曰く、
21/07/19 20:16:26.05 2tBExqJt.net
王含 オウガン (生没年不詳)
蜀漢の監軍。姜維の建議により漢中の防衛策が変更され、胡遵を漢寿、王含を楽城、蒋斌を漢城に配置替えとなる。
炎興元年(263年)、鍾会が漢中に至ると蒋斌と王含は各五千人で城を守備した。
鍾会は漢城に荀愷、楽城に李輔を一万人つけて包囲させた。
その後の動向は不明だが、劉禅降伏後は城を明け渡したと見える。
『演義』では258年の冬に姜維の北伐に従軍するが祁山で鄧艾に敗れる。
その後の征蜀戦では、漢中陥落の報を聞くと魏軍に降伏した。

611:名無し曰く、
21/07/19 20:30:27.15 75gppzdk.net
デトネイター王含

612:名無し曰く、
21/07/24 23:08:29.34 sci0dOS+.net
戴烈 タイレツ (生没年不詳)
徐州広陵郡の人。呉の左将軍。子に戴昌、孫に戴淵。
赤烏十三年(250年)、王昶や王基らが荊州を南下し夷陵、江陵方面に侵攻し、朱績がこれを防衛した。
孫権は将軍の戴烈と陸凱を援軍に派遣したため、魏軍は撤退した。

613:名無し曰く、
21/07/31 20:04:04.90 uDa0Hj1V.net
鄧良 トウリョウ (生没年不詳 272年まで生存)
荊州義陽郡新野県の人。蜀漢の尚書左選郎。鄧芝の子。延熙十四年(251年)に父が亡くなると爵位の陽武亭侯を継いだ。
景耀年間(258年~263年)に尚書左選郎に任じられる。
263年に綿竹で諸葛瞻が鄧艾に敗れると、劉禅は張紹、譙周、鄧良に印綬を持たせ降伏の使者とする。
鄧艾は彼らに引見すると、返書を持たせ成都に帰した。その後、晋朝では広漢太守に任じられる。
鄧良は遠郡に移るにあたって、「自分には兄弟がおらず、任地が遠いと老母の世話ができない」と変更を願うも叶わなかった。

614:名無し曰く、
21/08/05 11:14:00.89 iR9khwhU.net
>>600
尊敬してる相手の名前は避ける
嫌いな奴の名前をわざわざ自分の子につける話があるのでそういうことだろう

615:名無し曰く、
21/08/06 12:55:15.97 I+arjEKZ.net
あげ

616:名無し曰く、
21/08/06 21:24:52.31 SPu8uWs0.net
蔡貢 サイコウ (生没年不詳)
呉の武将。鳳凰元年(272年)、西陵督の歩闡が晋に投降すると、
陸抗は配下の左奕、吾彦、蔡貢に命じて西陵に赴かせ、戦わず包囲するよう命じる。
この時、諸将は陸抗に速戦を求め、また雷譚が強く請願したため一度だけ攻城を許したが、
何も成果を上げられなかったので包囲陣の構築に従事した。
その後は、陸抗の指揮で楊肇を撃退した。

617:名無し曰く、
21/08/10 21:24:34.96 lN2XHJZx.net
>>614
司馬懿が孔明と対峙した時には既に生まれてるわ

618:名無し曰く、
21/08/14 23:49:50.69 v5t3bPqv.net
李球 リキュウ (?~263年)
益州建寧郡兪元県の人。蜀漢の羽林右部督。李恢の弟の子。
炎興元年(263年)の冬、鄧艾が綿竹まで侵攻してくると、諸葛瞻親子や張遵、黄崇らと迎撃に向かって戦死した。

619:名無し曰く、
21/08/16 23:02:31.98 P1eciRHe.net
孫述 ソンジュツ (生没年不詳)
揚州呉郡冨春県の人。呉の武昌督。孫鄰の子で、兄弟に孫苗、孫旅、孫震、孫諧、孫歆。
武昌督となり、荊州の統括にあたる。
天紀四年(280年)に征呉軍として王戎の軍勢が武昌に迫ると、将軍の楊雍、江夏太守の劉朗らと衆を率いて降伏した。

620:名無し曰く、
21/08/20 21:08:04.27 l8aw6cnN.net
張象 チョウショウ (生没年不詳)
呉の遊撃将軍。天紀四年(280年)に征呉軍として王濬軍が迫ると、孫皓は張象に水軍一万で防がせた。
しかし、張象は晋軍の旗を見るとすぐに降伏した。
『演義』では前将軍で、陶濬と共に迎撃に向かったが、
突然の大風で旗が維持できなくなると兵が四散し、数十人だけになってしまう。
王濬が至ると張象は降伏し、晋軍を石頭城に迎え入れた。

621:名無し曰く、
21/08/25 22:39:38.09 6TuGcldt.net
劉俊 リュウシュン (?~268年)
呉の交州刺史。宝鼎三年(268年)、前部督・脩則、荊州刺史・顧容らとともに交趾に侵攻した。
晋からは楊駿が毛炅と董元らを送り、合浦の古城で両軍は交戦する。
その結果、劉俊らは戦闘で敗れて戦死し、兵士は合浦に逃げ帰った。

622:名無し曰く、
21/08/29 20:36:02.57 biJbVQ4r.net
孟幹 モウカン (生没年不詳)
益州建寧郡の人。晋の牙門将。晋に帰順した交趾太守・呂興の死後、
霍弋は楊駿以下、毛炅、董元、孟幹、孟通、李松、王業、爨能らを交趾に派遣した。
楊駿らは合浦で呉の脩則らを撃破したが、271年に陶璜に敗れ投降する。
その護送中に楊稷が病死し、孟幹、爨能、李松は建業に送られた。
孟幹らは処刑を免れるも臨海郡に送られるのを不安がり、竹弩の作成を志願して留まることに成功する。
273年、孟幹だけが脱出して爨能と李松は斬られたが、
伐呉の計略を司馬炎に進言して日南太守に任じられ、爨能と李松の子も関内侯に封じられた。
※孟獲などと同族か

623:名無し曰く、
21/09/04 20:52:03.84 zmjipo/a.net
楊稷 ヨウショク (?~271年)
益州犍為郡の人。晋の交州刺史。泰始元年(265年)、交趾太守の馬融が亡くなると後任となり、
毛炅、董元、孟幹、孟通、李松、王業、爨能らと交趾に派遣される。
268年、交州奪回に来た呉の脩則や劉俊を毛炅が撃破し、翌年には分水で陶璜を敗退させ配下の二将を斬った。
しかし、その後に董元が敗れ、楊駿や毛炅らも包囲を受けて食料が枯渇する。
霍弋は以前に「包囲を受けて救援が来ずに、百日過ぎて降った場合は私が罪をかぶる。」と約束したため、
陶璜から食料を与えられ、百日後に降伏した。楊駿は建業への護送中、合浦に至ると病死した。

624:名無し曰く、
21/09/09 20:22:42.94 mZXtN1L1.net
張儼 子節 チョウゲン シセツ (?~266年)
揚州呉郡呉県の人。呉の大鴻臚。子に張勃、張翰。
幼い頃に張純、朱異らと朱拠を訪問した際に賦を作ることを求められる。
そこでそれぞれ犬、敷物、弩について立派な賦を作り朱拠から喜ばれた。
若くして名を知られた張儼は侍中など顕職を歴任し、博聞で多くに通じることから大鴻臚となる。
266年の正月、孫晧は外交の才を見込んで大鴻臚・張儼と五官中郎将・丁忠を使者として司馬昭の弔問に派遣した。
晋朝では賈充、裴秀、荀勗らがやり込めようとしたが果たせず、羊祜や何楨と友誼を結ぶ。
しかし、その帰路に病没した。著作に『黙記』など。
※朱拠の話から246~250年の頃に子供なので生年は236年前後か。

625:名無し曰く、
21/09/16 21:02:25.48 JQZAVoS5.net
王買 オウバイ (生没年不詳)
鎮西將軍・鍾会の部将。景元四年(263年)、鍾会のもとで征蜀軍に加わった。
諸葛瞻が敗れ、姜維が剣閣から退き成都を目指すと、鍾会は夏侯咸と胡烈を派遣する。
二隊は広漢の新都に向かって姜維の進路を塞ぎ、句安らが追撃し、皇甫闓と王買は側面を突く形で進軍した。

626:名無し曰く、
21/09/23 23:43:40.19 OEbOJxmF.net
張喬 チョウキョウ (生没年不詳)
晋の城陽都尉。咸寧五年(279年)、王渾に率いられて征呉軍に従う。
王渾は参軍の陳慎と張喬を尋陽郡に送ると、呉の孔忠を破り、周興ら五将を捕らえた。
その後、張喬は七千で楊荷橋に陣を構えたが、張悌ら三万の包囲を受けて一時的に降伏する。
張悌は穴埋め案を退け、慰撫した後に周浚らの陣営に攻撃を仕掛けた。
三度攻撃して退くところを薛勝、蒋班が追撃して呉軍が崩れると、張喬はその背後から攻撃して版橋で大打撃を与えた。
※城陽郡は青州。尋陽は柴桑の対岸。312年に登場する劉琨の部下・張喬と同じか不明。

627:名無し曰く、
21/09/26 01:28:35.80 TNozitz5.net
>>617
敬意を持っている相手の名であれば改めたでしょう
何故かは知らないけど陸遜や徐庶は改名している

628:名無し曰く、
21/09/30 21:59:45.30 qeokqAqS.net
周浚 開林 シュウシュン カイリン (?~289年)
豫州汝南郡安成県の人。父に周裴、妻に李絡秀、子に周顗など。
果敢で気性激しく、才知と道理に通じて名を知られ、人物眼があった。
初めは州郡の招聘に応じず、後に魏の尚書郎となり、御史中丞から折衝将軍、揚州刺史に任じられる。
咸寧五年(279年)に王渾と共に征呉軍に従う。沈瑩など呉の精鋭から三度攻められるが、
周浚や張翰の陣は動揺せず、退却するところを追撃して呉軍に大勝した。
その後は秣陵に移り、陸雲など呉人を召すなど威光と恩沢で鎮撫する。
朝廷では侍中から少府に遷り将作大匠を兼ね、外に出ては都督揚州諸軍事を務めた。

629:名無し曰く、
21/10/07 20:22:14.65 q+w+qc18.net
羅尚 敬之 ラショウ ケイシ (?~310年)
荊州襄陽郡の人。晋の益州刺史。父に羅式、叔父に羅憲。若くして父を失い羅憲を頼る。
蜀漢滅亡後は文章が得意なことから荊州刺史・王戎の参軍となり、劉喬と刺史の事務を担当した。
咸寧五年(279年)、王戎のもと征呉軍に加わり、劉喬と先鋒となって武昌に侵攻する。
その結果、武昌督の孫述、将の楊雍、江夏太守の劉朗らを降伏させた。
289年頃は梁州刺史となり、後に仮節、平西将軍・益州刺史・西戎校尉に任じられる。
蜀での評判は非常に悪かったが、李密の子や杜軫の子を取り立て、宗岱と協力して反乱した李特を討伐した。

630:名無し曰く、
21/10/14 23:58:58.22 +eE2J20+.net
荀衍 休若 ジュンエン キュウジャク (生没年不詳)
豫州潁川郡潁陰県の人。後漢の監軍校尉。荀緄の三男で荀彧らの兄、息子に荀紹。
陳羣と孔融が汝南、潁川の人物を論じた際に、
陳羣は「荀彧、荀攸、荀衍、荀諶、荀悦らに並ぶ者は現代にいない」と評した。
曹操が袁尚の討伐に向かうと鄴の留守を預かり、河北の諸事を統括する。
建安十年(205年)に高幹が鄴に兵を繰り出して奇襲したが、
察知した荀衍はこれをすべで撃滅し、その功績で列侯に封じられた。

631:名無し曰く、
21/10/21 21:53:30.88 RU8Bavjm.net
陳俊 チンシュン (生没年不詳)
演義に登場する魏の武将。諸葛誕の乱に従軍した。
鍾会は「呉兵が諸葛誕を助けるのは利の為であり、利で誘えば必ず勝てる」と進言。
司馬昭はそれに従い、石苞らを伏兵とし、成倅に囮部隊を率いさせ、
陳俊には牛馬に軍の褒賞を乗せて、その陣中に散在させる。
諸葛誕が魏の動きが悪いと見て襲撃すると、成倅などは敗走し牛馬などが野に残った。
そうして部隊の呉兵が物資の奪い合いを始めた頃合いで、石苞らが諸葛誕を攻撃して大破した。

632:名無し曰く、
21/10/28 23:17:27.22 6wHocE2G.net
袁隗 次陽 エンカイ ジヨウ (?~190年)
豫州汝南郡汝陽県の人。後漢の太傅で、いわゆる袁氏の四世三公の一人。
父は袁湯、兄弟に袁逢ら、甥に袁紹、袁術など。若くして南陽太守や大鴻臚など顕官を歴任し、
兄の袁逢より先んじて172年に三公に任じられる。このころ、董卓や桓典を司徒府に招いた。
また太常、後将軍、太尉、太傅など務め、少帝が即位すると何進と共に政務を補佐する。
何進が謀殺されると、袁紹と共に宦官派の樊陵や許相を殺害した。
その後、少帝の廃立に協力的だったが、初平元年に袁紹が決起すると、
袁隗や袁基などの一族は董卓にまとめて誅殺された。
※南陽郡に赴任した際は、現地の山中に湧く霊水を取り寄せて飲んでいた。

633:名無し曰く、
21/11/04 22:04:09.90 Xp/qCx9w.net
馬倫 バリン (122年~184年)
京兆右扶風茂陵県の人。馬融の娘、袁隗の妻で、子に袁満来、袁懿達、袁仁達。
若くして弁才があり、実家が富豪であったので、袁隗との挙式は盛大に行われた。
式が済むと袁隗は馬倫に、支度が豪勢に過ぎること、姉より先に嫁いだこと、
父が金銭で悪評が立つ理由を問うと、そのすべてに巧みに反論しやり込めた為、
袁隗は言い負かせず黙ってしまった。帳の外で聞いていた者もまた恥じいったという。
当時、袁隗は重用され位も高かったが、馬倫もまた世に名を知られ、六十二歳で亡くなった。

634:名無し曰く、
21/11/13 17:16:14.96 CX1XaqMv.net
戴昌 タイショウ (生没年不詳)
徐州広陵郡の人。呉の太尉。父は戴烈、子に戴淵、戴邈。
太尉の頃、同郷で八歳の盛彦が訪ねてきたので詩を贈って様子を見ると、彼は傍らに座ってこれに答えた。
呉の滅亡後は武陵太守となる。任地で戴昌は談論を良くしたが、同席した潘京の才に及ばないことを悟ると息子の戴淵を呼んできた。
潘京と戴淵との対話は言論を極め、「才能は貸し借りできぬものだ」と親子共々感服する。その後は会稽太守を務めた。

635:名無し曰く、
21/11/18 22:51:40.28 7hVfxz0W.net
蔡睦 子篤 サイボク シトク (生没年不詳)
兗州陳留圉県の人。魏の尚書。祖父に蔡質、子に蔡広、蔡徳。
後漢末期、親族と別れて友人の王粲と共に荊州に避難していたが、後に故郷の陳留に旅立った。
王粲の『贈蔡子篤詩』はその時の離情を述べたものとして現存する。その後は曹魏に仕え、尚書を務めた。
※父は蔡質の子(蔡ヨウの従弟)の蔡谷だろうか。荊州への避難はおそらく王粲に同行したと思われる。

636:名無し曰く、
21/11/26 00:03:16.99 Mp70jQKb.net
祖武 ソブ (生没年不詳 没年は270年代か)
幽州范陽郡遒県の人。晋の上谷太守。子に祖該、祖納、祖逖、祖約など六人(祖逖から後妻の子)。
代々太守を輩出する北方では著名な家柄であった。晋王・司馬昭の掾を務めた後に、上谷太守に遷った。
祖武の死後、祖逖らの母は洛陽で暮らしていたようだが、304年頃には死去していたようだ。
後世、祖逖の威勢を恐れた石勒は、その父祖(あるいは母)の墓を修繕して友好を求めた。

637:名無し曰く、
21/12/02 21:56:09.66 CJIXsTTf.net
何邈 カバク (?~280年)
揚州丹陽郡句容県の人。呉の武陵監軍。祖父に何遂、伯母に何姫、父に何洪、叔父に何植。
孫皓が即位し、伯母が皇太后となるとその弟である何洪、何蒋、何植らは侯に封じられる。
父の何洪が没すると何邈は永平侯を継ぎ、武陵監軍として武林城に駐屯した。
天紀四年(280年)、征呉の戦いで杜預が江陵を落とすと荊南一帯はほとんど降伏する。
そうした中、何邈は何らかの抵抗をしたのか晋軍に殺害されている。

638:名無し曰く、
21/12/02 22:28:10.45 CJIXsTTf.net
>>637
追記:別働の李毅が武陵方面に侵入しているのでここで交戦したかも

639:名無し曰く、
21/12/10 22:44:30.79 Uma446cf.net
何都 カト (生没年不詳)
揚州丹陽郡句容県の人。伯母は何姫、父は何洪か何蒋、叔父に何植。
鳳凰三年(274年)、孫皓は張布の娘の葬儀を盛大に行い、その喪のため半年は姿を現さなかった。
そのため今回の葬儀は実は孫皓のものと民衆に勘繰られた。
また孫晧の従兄弟で顔の似ている何都が(何一族の悪評も相まって)かわりに帝位に就いたという噂もたった。
臨海太守の奚煕はこれを真に受け、挙兵して何都を討とうとしたが、叔父の何植によって撃退された。

640:名無し曰く、
21/12/16 22:25:55.63 +YrX4TQO.net
馮朝 フウチョウ (生没年不詳 264年頃には死亡か)
呉の衛尉。息子の馮純は張布の長女を娶った。
五鳳二年(255年)七月、丞相・孫峻は広陵郡への築城を企図し、
(滕胤の不可能だという諫言を無視して)馮朝に実行を命じる。
また、呉穣を広陵太守に、留略を東海太守に任じるなど徐州方面への侵攻を図った。
同十二月、馮朝は監軍使者・督徐州諸軍事に任じられたが結局、
城の工事は完成せず、旱魃も相まって軍民の間で怨嗟が広がった。

641:名無し曰く、
21/12/23 23:36:46.04 MquxAbw9.net
王化 伯遠 オウカ ハクエン (生没年不詳 72歳で没)
益州広漢郡郪県の人。蜀漢の尚書郎。祖父は王商、父は王彭、弟に王振、王岱、王崇。
若くして兄弟ともに有望視され、『毛詩』『三礼』『春秋公羊伝』を治める。
広漢郡の功曹から州の従事、光録郎中、尚書郎を経て、閬中県令の際は清廉な治政で孝廉に挙げられた。
蜀漢が滅びると涼州酒泉郡の楽涫県令を務める。
胡族の反乱が起こると、孤立無援で七年に渡り官民を率いて堅守し、また隙を見て攻撃して関内侯に封じられた。
後に朱提や梓潼太守を務め賞賛を受ける。性格は謹重で言論は雅びやか、正否は妥当で人民から敬服された。
※弟が陳寿と同年代っぽいので生没は220年~291年あたりか、また酒泉の反乱は樹機能の余波だろうか

642:名無し曰く、
22/01/13 19:26:46.46 FSVGo9VF.net
王崇 幼遠 オウスウ ヨウエン (生没年不詳)
益州広漢郡郪県の人。蜀漢の東観郎。祖父は王商、父は王彭、兄に王化、王振、王岱。
若くして兄弟ともに有望視され、学業に広く通じ、雅びで粋な性格だった。
蜀漢では史官の東観郎を務め、滅亡後は梁州別駕に辟され秀才に挙げられる。
後に寿良、李密、陳寿、李驤、杜烈と共に都に入り、益梁二州の俊才と言われた。
彼らは次第に疎遠となったが、王崇だけは寛容な性格で付き合いを保った。
後に尚書郎や上庸、蜀郡太守を務め、劉禅の後継・劉恂が無道な振る舞いをすると何攀や張寅らと連名で諫めた。
著作に『蜀書』の他、詩賦が数十篇。

643:名無し曰く、
22/01/20 20:21:28.88 WSANtD97.net
蒋珩 ショウコウ (生没年不詳)
荊州零陵郡泉陵県の人。祖父母は蒋琬と毛氏、父母は蒋斌と費禕の娘。子に蒋恭。
263年、蜀漢滅亡の際に父や叔父が死去すると、祖母の毛氏は三男と蒋珩を連れて、
同族の蒋瑜を頼って故郷の零陵郡に移住した。その後は呉に仕えて始興太守や広州都督を務める。
意気は英爽で誤りを糾し、行いは神の如く速かった。
呉が亡ぶと晋朝に仕え、揚州で仏寺を建立する。中原の民衆がこぞって帰依したのは彼の尽力によるものだった。
死去すると零陵城東に葬られた。
※集解注で趙一淸が「蒋琬の兄弟ではないか」とコメントがあるが、出身県や時代が異なる。
『永州府志』は同県出身で特に言及なし、『梅潭蒋氏世譜』では孫とする。

644:名無し曰く、
22/01/27 23:10:19.57 6jEAx358.net
張芝 伯英 チョウシ ハクエイ (?~190-193年 初平年間に没)
涼州敦煌郡酒泉県の人で後に弘農郡に移った。後漢の書家。張奐の長子で弟に張昶、張猛。
草書の改良者で「草聖」「書聖」と呼ばれた。若くして高い意思を持ち、名臣の子息として勉学に励み文武に秀でる。
朝廷からの辟召には応じず、草書を好んで杜度や崔瑗に書法を学び、家の白布には全て書の練習に用いた。
また、池に臨んで鍛錬して水が墨で黒くなった逸話は「臨池」の故事となる。
筆を下せば必ず手本となり、草書をする暇さえないと言われ、寸紙も残らなかった。
鍾繇や王義之と共に古今の三筆の一人。

645:名無し曰く、
22/02/03 20:11:40.11 +/V/t77H.net
韋誕 仲将 イタン チュウショウ (179年~253年)
司隷京兆尹杜陵県の人。魏の光禄大夫、書家。父に韋端、兄に韋康、子に韋熊。
文才や墨の製法、印相に通じ、張芝や邯鄲淳の書法を学ぶ。
建安年間に郡の上計吏から郎中となり、227年頃に武都太守(能書家のため中央勤め)、
後に侍中や中書監を経て光禄大夫を務めた。
魏の宝物の銘文や洛陽、許昌、鄴の宮殿の題字は全て彼の手によるが、
明帝の時に凌雲台の題字を書くために、二十五丈(60m)の高さで作業した経験から子孫に書を戒める。
251年、司馬懿が王凌討伐から帰還すると、皇帝の使者として軍を慰労した。共著作に『魏書』『皇覧』など。

646:名無し曰く、
22/02/10 00:10:44.08 NFJUUK+T.net
左伯 子邑 サハク シユウ (生没年不詳)
青州東莱郡の人。後漢末の書家、製紙家。
書の八分体に巧みで、毛弘らと並び称され、邯鄲淳とは趣が異なるが漢末に名高かった。
また紙造りに特に優れて、蔡倫の製紙技術を受け継いで改良を施す。
彼の製造した「左伯紙」は後に”妍妙輝光”と評され、
韋誕が「良い仕事には良い道具。張芝の筆、左伯の紙、臣(韋端)の墨が必要です」と奏上したほど珍重された。

647:名無し曰く、
22/02/17 20:36:41.45 4zHwE3vd.net
崔巨業 サイキョギョウ (生没年不詳)
袁紹の武将。初平三年(192年)、界橋の戦いで公孫瓚が薊に敗走する。
その頃、袁紹は占星術に長けた崔巨業に(財貨を贈り寝食を共にするなど厚遇した上で)吉兆を占わせ、
期日を決めて涿郡故安県を包囲させた。崔巨業は数万の軍勢で向かったが落とせず、南に退却する。
しかし、公孫瓚が率いる三万の追撃部隊と巨馬水の辺りで戦闘になり、死者七千を超える大敗を喫した。
その後の詳細は不明だが、公孫瓚軍は勝ちに乗じて平原まで南下した。
※「巨業」を字とみると、崔琰の兄の崔覇と同一人物かもしれない(名+字で覇業)

648:名無し曰く、
22/02/24 23:57:15.35 KBI+eY9F.net
胡羆(熊) 季象 コヒ キショウ (生没年不詳)
揚州楚国寿春県の人。晋の征南将軍。父は胡質、兄に胡威。父や兄と同様に潔白な行為で名を知られた。
才幹を有し、荊州刺史・征南将軍を務める(襄陽の山上に碑文があったという)。
呉の平定後(280年)は益州刺史・安東将軍に転じ、王長文を辟召しようとしたが果たせなかった。
また李密の『述理論』を評価した。

649:名無し曰く、
22/03/03 21:43:13.80 y2vjOpgm.net
曹冏 元首 ソウケイ ゲンシュ (生没年不詳)
豫州沛国譙県の人。魏の弘農太守。曹騰の兄・曹叔興の子孫で、曹丕と同年代にあたる。
正始五年(244年)、魏の皇族は大きな制限と監視のもと不遇の生活を強いられており、
国家の藩屏の観点からも封建を行うよう上奏を行ったが(『魏分封論』)、曹爽には理解されなかった。
また著作の『六代論』は後世に曹植作と仮託されたため、司馬炎から曹志(曹植の子)に作者の諮問が行われた。
泰始八年(272年)、都督関中雍涼諸軍事である司馬亮の軍司を務め、
失態を犯した劉旂の助命を連名で上表したが拒絶された。

650:名無し曰く、
22/03/10 19:33:52.35 wdkKvAx3.net
谷朗 義先 コクロウ ギセン (218年~272年)
荊州桂陽郡耒陽県の人。呉の九真太守。幼くして両親を亡くすが、温和で道義に外れず、養父や弟と暮らした。
若くして郡に仕え、陽安県長の後に中央で郎中、尚書令史、荊州に戻ると郡の中正や長沙の県令などを歴任する。
その後、中央や広州で任用され、恩恵をもって人々を教化し、汚濁を一掃し人事は公正厳格であった。
また、呉では263年から呂興の反乱で交趾付近を失陥しており、晋軍とたびたび戦闘が行われていたが、
威信恩義で知らる谷朗が九真太守に抜擢される。
その後、薛珝、陶璜らの活躍で交趾などが回復したが、翌年の272年に没した。

651:名無し曰く、
22/04/02 20:45:54.53 a6SDkNO+.net
柳伸 雅厚 リュウシン ガコウ (生没年不詳)
益州蜀郡の人。蜀漢の巴東太守。子に柳純。若くして同郡の柳隠や杜禎らと名を知られた。
また、杜禎と共に益州牧の諸葛亮の従事に辟され、杜禎が梁、益二州の都督となるとその補佐にあたる。
その後は漢嘉太守、巴東太守を務めた。蜀の滅亡後は杜禎の子・杜珍と共に秀才に挙げられた。
※梁州が設置されたのは蜀滅後なので時系列が多少前後しているかも


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