三國志の新武将作成用に人物を紹介していくスレat GAMEHIS
三國志の新武将作成用に人物を紹介していくスレ - 暇つぶし2ch2:名無し曰く、
15/12/13 11:43:57.75 qZo+1SRq.net
いいスレつくったな

3:名無し曰く、
15/12/13 11:55:41.59 +yEydTvv.net
劉基 敬輿 リュウキ ケイヨ (184年? - 232年?)
劉繇の長子。父と孫策は敵対関係であったが、父の死後に招かれ孫策、
孫権の二代にわたって仕える。孫権からは特に厚遇された。容姿が端麗であったという。

>>2
三國志系の新武将スレが落ちてたので13に備えて建ててみました

4:名無し曰く、
15/12/13 12:33:11.07 V/7jc+yq.net
王越 (生没年不詳)
桓帝・霊帝の時代の虎賁(皇帝直属の近衛士官)。剣術の名手として名高かった。
弟子の史阿は曹丕に剣術を指南している。
統率:62 武力:89 知力:36 政治:28

5:名無し曰く、
15/12/13 15:33:40.32 m8K9MT+x.net
新規も既存もどちらもありで良い気もするな
過大過小スレが腐ってるし

6:名無し曰く、
15/12/13 16:05:53.37 +yEydTvv.net
夏侯蘭 カコウラン (生没年不詳)
統率:40 武力:61 知力:55 政治:68
常山郡の人。趙雲とは若い頃から親交があった。博望坡の戦いで夏侯惇の配下として戦うが、
敗れて捕えられる。夏侯蘭は法律に明るい人物だと趙雲が劉備に推薦したため、以後は軍正として劉備に仕えた。
しかしその後、趙雲は立場を考慮し自ら近づくことはなかったという。

>>5
既存のレギュラー武将に説明や紹介は不要だし、能力値の話なら過大過小スレがふさわしいと思う

7:名無し曰く、
15/12/13 17:33:09.94 Md3MkGjr.net
過大過小スレは「正史の能力値査定スレ」を分離した方がいい

8:名無し曰く、
15/12/13 18:13:46.82 V/7jc+yq.net
童淵 ドウエン
字は雄付。荊州襄陽出身。槍の達人で、蓬莱槍神散人の異名を取った。張繍、張任、趙雲が三大弟子とされる。
出典は元曲(元代に流行した雑劇と散曲)。貂蝉、周倉、関索らと同じく、三国志演義成立より前に
民間で語り継がれる「物語としての三国志」の中で生まれた人物だが、彼らと違って演義には採用されなかった。
中国では近年ブラウザゲームなど影響で急速に人気・知名度が高まっているらしい。
統率:53 武力:87 知力:58 政治:21

9:名無し曰く、
15/12/13 20:25:28.54 +yEydTvv.net
高寿 コウジュ (生没年不詳)
統率:65 武力:79 知力:42 政治:22
孫韶配下の将。黄武四年(225年)、曹丕は先年に引き続き十万を率いて出兵し広陵に侵入したが、
河川の凍結のため船が使えず撤退を開始した。高寿は孫韶の命で決死隊五百名を率いて曹丕の帰路を奇襲し、
皇帝の副車と羽蓋を奪う戦果を上げた。

10:名無しさん@そうだ選挙に行こう
15/12/14 13:13:03.57 bqx6xF/M.net
俺も

11:名無しさん@そうだ選挙に行こう
15/12/14 18:50:27.20 7mOuVBGO.net
管承 カンショウ (生没年不詳)
長広県の人。袁譚から官位を授かり、三千余家を率いて郡を荒らしまわった。
建安四年ごろ(199年)に太守に赴任した何夔に説得され帰順する。
その後、反乱したのか、建安十一年(206年)に曹操の討伐を受け、楽進・李典に敗れ海上の島に逃れる。
翌年には東莱郡に派遣された張郃によって討伐された。

12:名無し曰く、
15/12/14 23:09:27.72 qoQTsm8m.net
チンシュ

13:名無し曰く、
15/12/15 18:59:43.68 5o7foASR.net
陳表が見いだした施明とかこのスレに向いてそう

14:名無し曰く、
15/12/15 19:06:00.35 UQQqm6/F.net
そう思うなら書けよ、野次馬かよ、と

15:名無し曰く、
15/12/15 19:21:05.65 5o7foASR.net
>>14
あるとき官物の盗難事件があり、兵士の一人であった施明に疑いがかかった。施明は強情な男で、拷問を受けても口を割ろうとしなかった。
孫権は陳表が兵士たちの心をつかんでいることから、施明を陳表に預けたところ、陳表は施明を手厚く待遇し、それに感激した施明は自分の罪を認め、共謀者たちの名を自白した。
孫権は陳表の手柄を喜び、また陳表が施明を騙したことにならぬよう、施明の罪を許しそれ以外の共謀者を処刑した。
施明はこれ以後行動を改めるようになり、後にはその勇猛さで将軍の位まで昇って活躍した。
コピペ

16:名無し曰く、
15/12/15 20:33:05.97 TmNjyNBW.net
張奕(ちょうえき)
呉末期の武将。
辺境の地である交州を守っていた身分の低い武将で、
呉の重臣であった楼玄が孫皓の怒りを買って交州に流された際、
楼玄は張奕の指揮下に入って賊討伐に従事し、一方で張奕は
楼玄暗殺の密命を受けていた。
しかし、楼玄の節度ある態度に心打たれた張奕は楼玄を殺す事が
出来ず、張奕が急死した後に楼玄は密命を知って自害した。
江表伝の記述では同じく楼玄の暗殺に躊躇するが、楼玄は張奕の生前に
密命を知り、張奕が持っていた自らを毒殺する為の薬を飲んで自害する
という結末となる。
統率:56武力:64知力:37政治:25魅力:61

17:名無し曰く、
15/12/15 21:13:46.36 AqE4aYnA.net
吉太 称平 キッタイ ショウヘイ (? - 200年?)
演義の登場人物。洛陽の人。人々から吉平と呼ばれる後漢の名医。
董承の病を治すため献帝より差し向けられる。董承の寝言から曹操への害意を察すると暗殺計画に賛同する。
翌日、曹操の頭痛のため呼び出すと毒薬を隠し持って赴く。
しかし事前に計画が露見していたため捕えられ、拷問を受ける。最後は黙秘を貫いて自害した。
正史では太医令・吉本として登場。218年に許昌で乱を起こすも鎮圧された。

18:名無し曰く、
15/12/15 21:52:01.56 XFlsI1Vm.net
盧遜 ロソン (?-263年)
統率:69 武力:54 知力:66 政治:30
三国志演義に登場する南鄭関を守備する蜀漢の将。
魏の鍾会率いる蜀征伐軍の動きを早々に察知し、
関の前の木橋の左右に兵を潜ませ、連弩で魏の先鋒の許儀を撃退する。
逃げ戻った許儀の報告で、鍾会が数百騎を率いて攻め寄せてくると、
盧遜は連弩の一斉射撃で後退させ、五百の軍勢を率いて追撃する。
鍾会は逃げようとするが、橋のくぼみに馬の蹄がはまり込んで動けなくなり、
馬を棄て徒歩で橋を駆け下りようとした所に盧遜は追いつき槍で突こうとする。
その時、魏兵の中にいた荀ガイが放った矢が盧遜に命中して落馬、死亡する。

19:名無し曰く、
15/12/16 21:49:08.58 V1UytPcI.net
張羨 チョウセン (生没年不詳)
南陽郡の人。零陵郡や桂陽郡の県長や長沙太守を務め人心を得たが、強情な性格を劉表から疎まれた。
198年、配下の桓階の進言に従い長沙、零陵、桂陽郡を率いて劉表に反旗を翻す。
劉表は連年囲むが落とせなかった。張羨が病死すると子の張懌が継いだが、建安5年(200年)に敗れた。

20:名無し曰く、
15/12/17 15:44:35.20 iR1Ig71T.net
いいね、このスレ
俺も昔、273~280年あたりの呉と晋の人物を片っ端から登録したの思い出した

21:名無し曰く、
15/12/17 21:20:37.20 siB5jBKl.net
全緒 ゼンショ  (生年208~213年? 没年252~257年?)
全琮の長子。若くして名を知られ鎮北将軍などに就く。
芍陂の戦いで魏軍を退け、東関の役で丁奉と謀り、魏を破るなど活躍した。享年四十四歳。

全氏 ゼンシ (生年242年頃? 没年301~302年)
全尚の娘。従祖母の孫魯班に気に入られ、孫権への謁見時は常に伴に連れられた。
孫権の寵が潘夫人に向くと孫魯育の薦めで孫亮の夫人となる。孫亮即位後は皇后に引き上げられた。
太平3年(258年)、孫綝暗殺計画が露見したため、孫亮が廃立されると候官に住んだ。
密告者は全夫人とも全尚の妻(孫綝の姉)とも言われる。
呉が平定されると帰郷し、永寧年間(301~302)に死去した。名は「恵解」か。

22:名無し曰く、
15/12/17 23:58:03.93 BirX0tx8.net
馬斉 承伯 バセイ ショウハク
統率:45 武力:30 知力:61 政治:65 魅力65
巴西郡ロウ中県の人。
張飛の功曹であったが、張飛によって劉備に推薦される。
郷里の人の信頼こそ姚チュウに及ばなかったが、心映えが良く、
自らの能力で出世し、諸葛亮死後に尚書に任命された。

馬勲 盛衡 バクン セイコウ
統率:44 武力:31 知力:62 政治:63 魅力66
巴西郡ロウ中県の人。
益州の書佐であったが、劉備が蜀を平定すると左将軍属に任命される。
郷里の人の信頼こそ姚チュウに及ばなかったが、心映えが良く、
自らの能力で出世し、後に州の別駕従事に転任した。

23:名無し曰く、
15/12/18 23:00:32.50 SrGgKGA3.net
祖郎 ソロウ  (生没年不詳)
丹陽郡陵陽の人。涇県を根拠地とした宗教指導者。
孫堅死後、呉景の元にいた孫策は祖郎討伐を準備するが、その襲撃を察知し先手を打って攻撃をかける。
その際に、孫策を単騎にまで追い詰めるも程普に阻まれ、最終的に孫策軍に敗走した。
建安二年(197年)、孫策が袁術と絶縁すると、袁術は祖郎や山越などに印綬を送り孫策を攻撃させようとする。
しかし、先に討伐に出た孫策軍と戦い、敗れて捕虜となる。
以後は許され配下となり、軍の帰還の際には太史慈とともに軍の先導役を務めた。

24:名無し曰く、
15/12/19 18:19:14.19 2H3s2bBw.net
楊宗 ヨウソウ(?~280年)
蜀の武将
蜀滅亡時に羅憲が永安城にて呉の侵攻を防いだ際に羅憲の配下
として呉の包囲を突破して魏の陳騫の元へと援軍を求めるのに成功した。
後に晋に仕えて安蛮護軍となり、266年には巴東の南浦に侵攻した呉軍の
撃退に成功し、その功で名目ながらも武陵太守に任じられて南浦に駐屯し、
現地の蛮族を上手くまとめ上げた。
統率:71武力:67知力:70政治:62魅力:70
段灼 ダンシャク (生没年不詳)
魏・晋の臣。字は休然。
敦煌の出身で、当初は鄧艾の部下であった。
後に議郎となり、267年に皇帝司馬炎に対して反逆者扱いで殺害された鄧艾の
名誉回復を嘆願し、273年に鄧艾の名誉回復が叶って孫の鄧朗が取り立てられた。
統率:37武力:35知力:72政治:58魅力:65

25:名無し曰く、
15/12/19 22:28:53.11 SV/BQtsz.net
>>24
たしか楊宗はアル中の人だっけ

26:名無し曰く、
15/12/20 21:13:36.15 D8WvEjmE.net
麹演 キクエン (?~220年)
統率:65 武力:63 知力:42 政治:43
涼州西平郡の人。215年5月、金城の蒋石と共に勢力の弱った韓遂を斬り、首を曹操に送る。
当時の涼州は、西平を含む四郡が郡全体で反乱を起こし互いに争っており、麹演もその首領一人だった。
(後に降伏したか)220年に曹操が死ぬと再び反乱を起こすが、蘇則によって即座に討伐され降伏した。
後にさらに反乱を起こし張掖、酒泉郡や蛮族も呼応したが、カク昭らを率いる蘇則の素早い攻勢に怯え、軍勢を連れて出迎えた。
麹演はこの機に蘇則を陥れようとしたが逆に誅殺された。

27:名無し曰く、
15/12/21 23:16:40.43 76oBnkUh.net
柳毅 リュウキ (生没年不詳)
公孫度の吏。初平元年(190年)、公孫度は遼東に勢力を拡大すると寵臣の柳毅と陽儀に自らの野心を語った。
建安十年(205年)、袁譚を斬った曹操は、張遼を派遣し海浜を征討させた。この時、柳毅は張遼に討伐された。
張遼の討伐した地域や柳毅の所在は不明だが、公孫度の手勢が東莱郡を攻め落とした時期があるのでそのあたりだろうか。

張敞 チョウショウ (生没年不詳)
公孫康の配下。204~220年の間、公孫康は屯有県の南の荒地に帯方郡を設置した。
張敞は公孫模と共に派遣され、その地の漢系移民を結集し韓やワイを討伐した。
その結果、他の移住民も少しずつ戻り、倭や韓は帯方郡に属するようになった。

28:名無し曰く、
15/12/21 23:18:43.23 76oBnkUh.net
宿舒 シュクジョ  (生没年不詳)
公孫淵の配下の校尉。太和六年(232年)、呉が遼東の名馬を求め周賀らを派遣すると、
宿舒や孫綜らは公孫淵の命で貂や名馬を持ち周賀に同行し呉へと向かう。
途中の田豫の待ち伏せで周賀が討たれたが、宿舒らは無事に辿り着き、孫権に謁見して呉の藩国になりたいと申し出、名馬などを献上した。
喜んだ孫権は太常の張弥らを使者に一万の兵を連れさせ、宿舒らを帰還させた。
公孫淵がこの呉兵や財宝を得ようとすると、兵士は実際には七、八千人程度だと報告した。

王建 オウケン (?~238年)
燕の相国。景初二年(238年)、公孫淵は司馬懿の討伐を受け籠城していたが、
襄平城の西南から東北に白い彗星が落ちたことで城内は大混乱に陥った。
公孫淵も大いに懼れたため、王建と御史大夫・柳甫が降伏の使者に立った。
しかし、降伏と言いつつ「攻囲を解き軍を後退させろ」という条件を提示したため、司馬懿によって皆斬られた。
司馬懿の檄によると老齢だったという。

29:名無し曰く、
15/12/22 17:48:51.66 LVVE6Dh4.net
取りあえず劉恂は親父と同じく語呂能力値で

劉恂 リュウジュン (?~311?)
劉禅の六男。
259年に新興王に封ぜられた。
蜀滅亡後に幽州安楽県の安楽公となった父の劉禅より他の兄らを差し置いて後継者に指名されたが、
旧臣の文立らには反対されていた。
劉禅の死後に安楽公となるが、道義を失う振る舞いが目立って旧臣らから度々諫言されていた。
後に劉禅の一族は永嘉の乱に巻き込まれて死亡した。
統率:3武力:7知力:5政治:6魅力:4
劉林 リュウリン 生没年不詳
劉封の子。
父が処刑された際に罪に連座せず、後に牙門将に任じられた。
蜀の滅亡後は河東に移住した。
統率:57武力:54知力:36政治:42魅力:51

張微 チョウビ (?~302)
蜀の左車騎将軍・張翼の子。字は建興。
若年時より学問に打ち込み、晋に仕えて益州の広漢太守となった。
302年に益州にて李特が反乱を起こした際には鎮圧に従事して一時は李特の陣営に
切り込むも広漢を包囲された末に陥落により殺害された。
子の張存は張微の菩提を弔う名目にて助命された。
統率:64武力:71知力:67政治:55魅力:63

30:名無し曰く、
15/12/22 17:49:19.41 LVVE6Dh4.net
取りあえず劉恂は親父と同じく語呂能力値で

劉恂 リュウジュン (?~311?)
劉禅の六男。
259年に新興王に封ぜられた。
蜀滅亡後に幽州安楽県の安楽公となった父の劉禅より他の兄らを差し置いて後継者に指名されたが、
旧臣の文立らには反対されていた。
劉禅の死後に安楽公となるが、道義を失う振る舞いが目立って旧臣らから度々諫言されていた。
後に劉禅の一族は永嘉の乱に巻き込まれて死亡した。
統率:3武力:7知力:5政治:6魅力:4
劉林 リュウリン 生没年不詳
劉封の子。
父が処刑された際に罪に連座せず、後に牙門将に任じられた。
蜀の滅亡後は河東に移住した。
統率:57武力:54知力:36政治:42魅力:51

31:名無し曰く、
15/12/22 18:50:50.15 wuDvArtN.net
三国志の年代から少しズレるかな
檀石槐(だんせっかい)
統率:90 武力:85 知力:72 政治:64
鮮卑の大人。一代で広大なモンゴル高原を統一した鮮卑の英雄。
後漢朝廷をあいてに連戦連勝。45才で亡くなるまで脅威を与え続けていた。

32:名無し曰く、
15/12/22 18:53:56.39 wuDvArtN.net
禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)
統率:85 武力:82 知力:51 政治:32
鮮卑の禿髪部の族長。三国時代末期に涼州を荒らし回り、晋の皇帝・司馬炎をして「蜀・呉よりもやっかい」と言わしめた。
270年、反旗を翻すと涼州に攻め込み、胡烈、牽弘を相次いで討ち取った。
司馬炎は衛瓘、文鴦を派遣して鮮卑を討伐し、樹機能も277年にいったんは降伏。2年後に再び反逆したが晋の馬隆によって打ち破られ、禿髪部の10年近い反乱は鎮圧された。

33:名無し曰く、
15/12/22 20:34:46.15 v0cr1HTt.net
>>31
光和年間(178年-184年)に死んだからぎりぎり黄巾に重なるな
45歳だから 生133-139年 ~ 没178-184年 あたりにか

34:名無し曰く、
15/12/22 21:16:33.75 CKY56iAE.net
石徳林(せきとくりん)
現代の「素寒貧」という言葉の語源であるとも。
統率:3 武力:2 知力:45 政治:39
若い頃は学問に励んでいたが、方術に興味を持ち、そのことから隠遁することを始めた。引きこもりのニート生活の末、30才まで無職童貞を貫いて魔法使いになれたかどうかは定かではない。

35:名無し曰く、
15/12/22 21:27:17.95 CKY56iAE.net
周処(しゅうしょ)字は子隠(しいん)
統率:78 武力:80 知力:70 政治:72
呉、次いで晋に仕えた将軍。周魴の子。
京劇「周処除三害」として知られる。
若い頃は無頼漢で乱暴狼藉を働き人々に恐れられた。
あるとき、周処は長老に「今年は平和で豊作だったのになぜ村人は喜んでいないのか」と尋ねた。
すると長老は「南山の虎、長橋の蛟、そしてお前の三害が無くならない限り、喜ぶことはない」と答えた。
周処はそれを聞くと、三日三晩の格闘の末、川に流されながらも虎と蛟を殺した。村人たちは周処も死んだと思い、三害が一度に除かれたと喜んだ。
無事に帰った周処はどれだけ自分が憎まれていたか悟り、ようやく改心した。
呉滅亡後、晋でも頭角を現し、太守を歴任して多くの業績を上げた。
296年、斉万年が反乱を起こすと、周処は夏侯駿の副将として討伐を命じられた。
夏侯駿はかつて周処が弾劾した人物であり、親しい人々はこれは罠だからと辞退するよう勧めたが、周処は
「忠と孝の両方を全うすることはできない。今こそ私の死に時なのだ」と断り、出陣した。
はたして周処はわずか5千の兵で、7万の敵と戦うこととなった。
斉万年は「周処が大将なら勝ち目はないが、副将であれば生け捕るまでだ」と喜んだが、周処は奮戦の末に1万もの敵を討ち取ったうえで戦死を遂げた。

36:名無し曰く、
15/12/23 07:34:12.20 wnztchas.net
なんか有名なやつばっかになってきたな

37:名無し曰く、
15/12/23 07:37:05.91 wnztchas.net
URLリンク(ja.m.wikipedia.org)
王道だが昌キ(覇)

38:名無し曰く、
15/12/23 11:03:15.88 24tDt0Fd.net
>>8
童淵や評話ネタありなら
神槍神騎の張繍先生が大幅能力アップするなw
張益(ちょうえき)
統率:84 武力:89 知力:30 政治:20
全相平話三国志の登場人物。劉璋配下の猛将。
演義以上に荒唐無稽な平話において、特に超人的な強さを持つ張飛を相手に一騎討ちで1000合打ち合うこと互角の豪傑。

39:名無し曰く、
15/12/24 17:58:35.72 wKL5KCaI.net
黄射 コウエキ (生没年不詳)
統率:41 武力:55 知力:35 政治:56
黄祖の長子。章陵太守。禰衡とは親しい間柄で、禰衡が劉表の元を訪れると一緒に父のいる夏口に向かった。
禰衡が黄祖の不興を買い処刑されそうになると、裸足で駆け付けたが間に合わずその死を嘆き悲しんだ。
袁術が没した建安四年(199年)、劉勲は孫策に敗れると劉表に援軍要請を出した。
そこで黄射は水軍五千を率いて救援に向かったが先に劉勳が敗走したため帰還した。
建安五年(200年)以後、柴桑を数千の兵で責めるが二百程度の手勢で守る徐盛に散々に破られ二度と侵攻することはなかった。

韓綜 カンソウ (?~252年) 
統率:69 武力:75 知力:55 政治:22
呉、魏の武将。韓当の息子。226年の父の死後、石城侯の爵位とその領兵を継ぐ。
同年、曹丕の死に乗じて孫権が石陽を攻めた際は喪服中ということで武昌に留め置かれたが、そこで素行不良の振る舞いがあった。
孫権は父の功績に免じて許す気でいたが、韓綜は懲罰を恐れて親族や私兵数千を連れ魏に投降する。
その後は魏の将として呉の国境付近にたびたび侵攻した。
252年、東興の戦いにも魏の先鋒として参戦したが敗死。諸葛恪によって首は呉に送られた。

40:名無し曰く、
15/12/24 20:46:08.32 RR3w+3gK.net
張牛角 ちょうぎゅうかく
盗賊団の首領。黄巾の乱に呼応(便乗?)して博陵で仲間を集めて兵を上げ、将兵従事と自称した。
同じく黄巾の乱時に決起した褚燕(張燕)率いる盗賊団と合流。張燕によって頭目に推し立てられた。
エイ陶を攻撃した際に流れ矢にあたって死亡。いまわの際に「必ず褚燕を頭目にせよ」と言い残した。
褚燕は後を継ぎ、姓を張と改めた。なお、張牛角は黒山賊の初代首領、張燕と共に黒山賊を組織したとも書かれる
こともあるが、厳密に言えば、黒山賊と号したのは張牛角の死後、張燕率いる盗賊団が諸山谷の賊徒とよしみを通じ、
軍勢が百万に達した後のことである。
統率:74 武力:82 知力:41 政治:28 魅力:66

41:名無し曰く、
15/12/25 20:33:14.63 ydghZH2F.net
宗宝 ソウホウ (?~192年?) 
統率:55 武力:68 知力:22 政治:32
演義の登場人物。孔融配下の武将。初平二年(192年)頃、
黄巾残党の管亥が数万を率いて北海城に押し寄せると孔融と共に出陣する。
孔融に罵倒された管亥が突撃してくると迎撃に向かったが、数合で斬られ落馬した。
孔融勢力強化用の人材

桓治 カンチ (?~226年?) 
統率:65 武力:73 知力:52 政治:40
士燮、士徽の武将。交趾の人。弟の桓鄰は士燮に取り立てられ吏となる。
黄武五年(226年)に士燮が没すると、後継の士徽は交州刺史として呉から派遣された戴良の着任を阻む。
桓鄰がそれを強く諌めると士徽に殺された。桓治はその仇を討つため甥の桓発と共に士徽を攻めたが、
堅く守られたため数か月たっても降せずついに和睦した。
そのすぐ後、呂岱の騙し討ちによって士徽兄弟が謀殺されると、士徽の将であった甘醴と共に官民を率いて呂岱に攻撃をかける。
しかし、呂岱の奮戦で返り討ちに遭い撃破された。
士燮勢力強化用の人材。13ではいるといいな

42:名無し曰く、
15/12/27 19:10:25.36 m7SgEit7.net
胡母班 季皮 コボハン キヒ (?~189年)  (姓が胡母)
後漢の執金吾。太山郡の人。若い頃は任侠の人で張バクらとともに「八厨」と呼ばれた。
反董卓連合が結成されると、連合の解散を命じた詔書と共に董卓から派遣され、河内太守の王匡の元に赴いた。
胡母班は王匡の妹を娶った親類であったが、王匡は袁紹の命に逆らえず胡母班を捕えて殺した。
後に王匡は胡母班の遺児と曹操によって殺された。
『捜神記』によると若い頃、泰山府君や河伯(水神)に招かれ会ったことがあるという。

43:名無し曰く、
15/12/29 20:26:20.29 liudEHmL.net
蜀末期~蜀所縁の人物を挙げていく
文立 ブンリツ 生没年不詳
蜀・魏・晋の政治家。字は広休。
巴郡臨江の出身でショウ周に師事し、顔回になぞらえられた。
費イに見いだされて蜀に仕えて尚書まで登り、蜀の滅亡後は梁州別駕従事となった。
晋の成立後は済陰太守や太子中庶子となって、旧蜀の人材を始め数多くの人材を推挙し、
忠実清廉な人柄で知られた。
劉禅が安楽公の後継に六男の劉恂に決めた際には反対したが、聞き入れられなかった。
咸寧年間の末期(280年頃)に死去した。
統率:39武力:32知力:78政治80魅力:74
李密 リミツ (224~287)
蜀・晋の政治家。字は令伯。
幼少時に父を失い、母は再婚した為に祖母の劉氏の元で育てられた。
蜀においては従事尚書郎・大将軍主簿・太子洗馬を歴任し、呉の孫権の元へ
使者として赴いた際には「人の兄となるよりも弟になった方が良い」と主張する
孫権に対し、李密は人の兄である方が親の面倒を長く見れると反論した。
蜀滅亡後は司馬炎に招かれたが、九十歳を超える祖母の面倒の為に応じることが出来ず、
その事を上奏した「陳情事表」を表し、これに感心した司馬炎は州県に李密と祖母を手
厚く保護するように命じた。
祖母の死後に晋に仕えて晋皇室所縁の温県令として治績を挙げたが、張華に疎まれて
漢中太守に左遷され、後に蜀を賛美した疑いで職を失った。
しかし、後に大中正として復帰し官吏の人選に関与した。
統率:35武力:39知力:76政治:71魅力:80

44:名無し曰く、
15/12/29 20:35:58.63 liudEHmL.net
やや改定
文立 ブンリツ 生没年不詳
蜀・魏・晋の政治家。字は広休。
巴郡臨江の出身でショウ周に師事し、顔回になぞらえられた。
費イに見いだされて蜀に仕えて尚書まで登り、蜀の滅亡後は梁州別駕従事となった。
晋の成立後は済陰太守や太子中庶子となって、旧蜀の人材を始め数多くの人材を推挙し、
忠実清廉な人柄で知られた。
劉禅が安楽公の後継に六男の劉恂に決めた際には反対したが、聞き入れられなかった。
咸寧年間の末期(280年頃)に死去した。
統率:39武力:32知力:78政治80魅力:83
李密 リミツ (224~287)
蜀・晋の政治家。字は令伯。
蜀の牛建為郡武陽縣の出身で幼少時に父を失い、母は再婚した為に祖母の劉氏の元で育てられた。
蜀においては従事尚書郎・大将軍主簿・太子洗馬を歴任し、呉の孫権の元へ
使者として赴いた際には「人の兄となるよりも弟になった方が良い」と主張する
孫権に対し、李密は人の兄である方が親の面倒を長く見れると反論した。
蜀滅亡後は司馬炎に招かれたが、九十歳を超える祖母の面倒の為に応じることが出来ず、
その事を上奏した「陳情事表」を表し、これに感心した司馬炎は州県に李密と祖母を手
厚く保護するように命じた。
祖母の死後に晋に仕えて晋皇室所縁の温県令として治績を挙げたが、張華に疎まれて
漢中太守に左遷され、後に蜀を賛美した疑いで職を失った。
しかし、後に大中正として復帰し官吏の人選に関与した。
統率:35武力:39知力:76政治:71魅力:80

45:名無し曰く、
15/12/29 20:58:45.06 liudEHmL.net
何攀 カハン (244?~301)
蜀・魏・晋の政治家。字は恵興。
蜀郡の出身で、蜀においては若くして郡主簿・上計吏となり州に招かれて従事になった。
蜀の滅亡後は益州刺史皇甫晏により王佐の才があるとして主簿に抜擢され、後に王濬が
益州刺史となった際には王濬の命で呉攻略の為の軍船建造に従事し、さらに洛陽に赴いて
呉攻略の作戦を献策した。その事が認められて郎中及び王濬の参軍事に任じられ、当時の
司空である裴秀の娘を妻とした。
呉討伐後は関内侯に封ぜられ、太傅楊駿の殺害に功績を挙げて東羌校尉・揚州刺史を
歴任した。
統率:64武力:56知力:89政治:84魅力:77
費立 ヒリツ 生没年不詳
蜀・晋の政治家。費詩の子。
蜀の牛建為郡南安県の出身で、蜀の滅亡後はあらぬ噂を立てられて再仕官できずに
不遇の身であったが、同じ蜀の旧臣である何攀の弁護によって晋に仕官し、散騎常
侍にまで出世した。
後に名声を得た牛建為郡の費姓の人物達は費立の子孫であると伝わる。
統率:27武力:30知力:63政治:58魅力:64

46:名無し曰く、
15/12/30 16:00:16.85 soWbDkq+.net
杜軫 トシン 生没年不詳
蜀・晋の政治家。字は超宗。
益州蜀郡成都の出身でショウ周に師事し、郡の功曹史となった。
鄧艾率いる魏軍が蜀に侵攻した際は成都太守に逃亡する事を
進言し、劉禅の降伏後に魏の牽弘が成都太守の行方を尋ねた際には
去り際を心得て自発的に官舎を去り、君子を待っていたと答えて
感心された。
その後は建寧太守として功績を挙げ、任期が満了して任地を去る際には
杜軫に心服した異民族らが追いかけて見送った。
その後は雍州池陽県令・尚書郎を務めて功績を挙げ、同じ蜀の出身で同時期に
尚書郎となった李驤と共に議論に秀でて「二郎」と称された。
最後は牛建為太守となるが、着任前に51歳で病死した。
統率:41武力:23知力:73政治:83魅力:77

47:名無し曰く、
15/12/30 16:46:18.06 soWbDkq+.net
李驤 リジョウ 生没年不詳
蜀・晋の政治家・学者。字は叔龍。
梓潼郡フ県の出身で、蜀で尚書僕射を務めた李福の子。
ショウ周に師事し、同門の陳寿と親しかった。
238年に父が死去した際に家督を継ぎ、孝廉に挙げられて尚書郎・建平太守
となり、程なくして病気で辞職するが後に広漢太守となる。
蜀滅亡後は陳寿と仲違いし、陳寿が晋への李驤の仕官を妨害したとされて
郷里に帰ったが後に尚書郎となり同じ尚書郎の杜軫と共に「二郎」と称された。
統率:27武力:15知力:68政治:60魅力:57
羅尚 ラショウ 生没年不詳
羅憲の兄・羅式の子。字は敬之。
幼少の頃に父を失って叔父の羅憲を頼った。
晋に仕えて荊州刺史・王戎の参軍を務め、太康年間の末年には梁州刺史となる。
300年の益州刺史趙キンの反乱にて平西将軍・益州刺史に任じられて鎮圧に赴いた。
その後は趙キンに属していた李特と争い、成都にて策略で李特を追いつめた末に
殺害し、その後は李特の子である李雄と争うが、急死した。
蜀の人々からは鎮圧に赴く前から貪欲で決断力の無い人物と酷評されており、
反乱を起こした趙キンの方がまともであるとまで云われた。
統率:72武力:64知力:75政治:43魅力:18
費恭 生没年不詳
蜀・晋の政治家。
費イの次男。劉禅の娘を妻とし、蜀滅亡後の268年に羅憲によって他の
蜀旧臣と共に推挙され、尚書郎となるが早世した。
統率:25武力:21知力:56政治:61魅力:60

48:名無し曰く、
16/01/02 17:11:09.92 UyejeVT2.net
羅尚とかもう五胡じゃん

49:名無し曰く、
16/01/04 21:45:34.81 8Ns236dG.net
夏侯儒 俊林 カコウジュ シュンリン (生没年不詳)
統率:75 武力:63 知力:72 政治:60
夏侯尚の従弟。初めは曹彰の司馬を務める。黄初二年(221年)涼州盧水胡の反乱に際して、
曹丕は張既の後詰めに費耀と夏侯儒を派遣した。
張既は賊の不意を衝き迅速に進軍したため、夏侯儒が武威に到着する前に決着がついていた。
酒泉の蘇衡や羌族の反乱の際には張既と共にこれを鎮圧。正始年間(240?249年)、
夏侯儒は征南将軍となり、荊・予二州を都督する。
正始二年(241年)、朱然が樊城を包囲すると救援に赴くが、手勢が少なかったため敵に六~七里(2~3㎞)まで近づいては離れるということを数度行った。
司馬懿が救援に到着すると共に攻めて朱然を破った。
この時の夏侯儒の対処について、臆病者とも巧妙な時間稼ぎとも言われたが最終的に召し帰され太僕に就いた。

50:名無し曰く、
16/01/05 19:35:24.21 1Vyj4iQX.net
李球 リキュウ ?~263年
蜀の武将。
李恢の甥で、羽林右部督を務めた。
263年の鄧艾率いる魏軍の侵攻に対して諸葛瞻や張遵、黄崇らと共に
綿竹で抵抗したが、戦死した。
※三国志Ⅸの能力値を参考にもう少し抑えめに
統率:60武力:63知力:55政治:48魅力:56
劉敏 リュウビン ?~?
蜀の軍人・政治家。
零陵郡泉陵の出身で蒋エンの外弟。
蒋エンと共に名声を博して劉禅の即位後は侍御史となり、
諸葛亮の北伐にも行右護軍・偏将軍として参加した。
諸葛亮の死後は左護軍・揚威将軍として王平と共に漢中の重鎮となり、
244年に魏の曹爽が漢中に侵攻した際には王平に従い迎撃に出て、百里
余りに渡って多数の旗幟を立てて援軍が来るまで時間を稼いだ。
統率:67武力:45知力:80政治:65魅力:70
向充 ショウジュウ ?~?
蜀の軍人・政治家。
向寵の弟で、射声校尉・尚書を歴任した。
蜀の滅亡後は魏・晋に仕えて梓潼太守となる。
統率:55武力:46知力:56政治:63魅力:58

向条 ショウジョウ ?~?
蜀の軍人・政治家。字は文豹。
向朗の子で、博学多識であった。
父の死後に爵位を継ぎ、景耀年間に御史中丞になった。
晋の時代には江陽太守、南中軍司馬となる。
統率:53武力:28知力:71政治:65魅力:62

51:名無し曰く、
16/01/06 22:33:13.47 yhUu9Qv8.net
鄭玄 康成 ジョウゲン(テイゲン) コウセイ (127年~200年)
後漢の儒学者。北海郡高密県の人。身長八尺で容姿の優れた偉丈夫。郷里の小役人を務めつつ学問に打ち込んだ。
その後、太学へ進み第五元先、張恭祖に講義を受け、盧植と共に馬融に師事した。
家に戻ると大勢の弟子を教えていたが党錮の禁が起こると門を閉ざし儒学に専念した。
何進や袁紹から招かれることもあったが長居はしなかった。192年、青州で黄巾の残党が乱を起こすと徐州に避難。
建安元年(196年)に帰還し、途中で黄巾賊に遭遇したが崇拝されて危害を受けなかった。
建安五年(200年)に死期を悟り、薄葬を遺言して六月に死去した。
当時の儒教のほとんどの書籍に注を作成しており、また自らも多くの著作を残した。
主な弟子はチ慮、王基、崔エン、孫乾などで、劉備にも学問を教えている。
ちなみに息子の鄭益は、192年に黄巾残党が孔融を包囲すると、推挙された恩に報いるために救援に向かい殺された。

52:名無し曰く、
16/01/07 22:35:04.28 DcjitwyU.net
何苗 カビョウ (? - 189年)
何進の義弟。何進の父の再婚相手の連れ子。元姓は朱氏。
異父妹の何氏が皇后となると、兄とともに取り立てられ河南尹や車騎将軍となる。
何進と宦官の対立では皇后とともに宦官派に立ったが、何進が謀殺されるとその部下の呉匡らから恨みを買い殺害された

何苗 叔達 カビョウ シュクタツ (? -?)
道教書『真誥』に登場する何進の弟。上記とは別人説あり。南徐州の鹿迩山の中の洞主。
若くして道教を好み、河東の繁山で修業したため「繁陽子」を号する。漢の越騎校尉。

53:名無し曰く、
16/01/08 19:01:49.29 yVf5vKFw.net
苟安 コウアン ?~?
蜀・魏の武将。三国志演義の創作人物。
李厳配下の都尉で諸葛亮の北伐の際に李厳が兵糧の輸送を任された際、
実際に兵糧を送る役目を担っていたが、酒に浸って輸送が遅れて諸葛亮
の怒りを買い、処刑されそうになるが、李厳の反発を考慮した楊儀の
進言によって罰棒80回に減じられた。
しかし、その後に苟安は魏に降った上に司馬懿の命で諸葛亮が謀反を
企てていると朝廷の宦官らに吹聴する任務を行い、これを信じた劉禅は
諸葛亮に帰還命令を出してやむなく成都へ戻った。
実在の蜀将である句安とは別人。
統率:25武力:45知力:35政治:27魅力:13
謝雄 シャユウ ?~229年
蜀の武将。三国志演義の創作人物。
北伐での陳倉城攻略の際に魏の先鋒である王双の軍を迎え撃ったが、
あっさりと王双に討たれた。
統率:54武力:66知力:30政治:27魅力:48
爨習 サンシュウ ?~?
蜀の武将。南中の豪族。
建寧郡の有力な豪族として劉璋の時代には建伶県長を務めていたが、
不法な振る舞いが多かった事で同じ建寧郡の名士で妻の甥である李恢
も連座する危機に立たされたが、董和の取り成しによって事なきを得た。
後に劉備に属して劉備死後は孟獲らと共に反乱を起こしたが、諸葛亮の
討伐軍により降伏、蜀に仕えて行参軍・偏将軍となり最後は領軍になった。
李厳罷免の際にも名を連ねている。
統率:68武力:64知力:43政治:48魅力:45

54:名無し曰く、
16/01/12 20:22:57.77 Qovy+RUj.net
華陽国志の後賢志より(柳隠もこれが出典)
李穀 リキ ?~306年
晋の武将。字は允剛。
広漢郡三台の出身で、蜀に仕えた李朝の孫。
王濬によって見いだされて主簿となり、274年に張弘が益州刺史皇甫晏を殺害した際は
王濬に張弘の討伐を進言し、その功積によって州の主簿・別駕となった。
呉征伐では王濬の参軍として従軍、戦後に関内侯・雲南太守となり、王濬の死後は
南夷校尉となった。
306年に牛建為で反乱が起きた際は寧州刺史として討伐にあたったが、反乱軍に拠点を
包囲され、程なくして城中にて死去した。
統率:67武力:65知力:76政治:64魅力:68
他に司馬勝之・何隨・王化・常勗・寿良・王長文ってのがいるけどよくわからない。

55:名無し曰く、
16/01/13 21:47:01.08 GNgBNLx0.net
梁鵠 孟黄 リョウコク モウコウ  (生没年不詳)
後漢、魏の書家。安定郡烏氏県の人。後漢有数の書家・師宜官(シギカン)は字を書くと
いつも簡札を削ったり焼いたりして書体を秘密にしていたが、梁鵠は彼を酒に酔わせて簡札を盗み、書法を研究した。
選部尚書の官にあるとき洛陽令を望んでいた曹操を洛陽北部尉に任命する。
乱がおこると荊州に避難していたが、曹操が荊州を得ると賞金付きで捜索令が出された。
恐れた梁鵠は自縛して出頭したが、曹操は彼を秘書に登用し、彼の書をいつも手元に置き愛玩した。
魏の宮殿の題字はすべて梁鵠の手によるものだという。

56:名無し曰く、
16/01/13 22:00:39.17 GNgBNLx0.net
ちなみに烏氏県の梁氏なので梁冀と同族と思われる

57:名無し曰く、
16/01/15 23:18:41.58 E4Q/eAbq.net
隠蕃 インハン (209年~237年以前(呉の嘉禾年間))
統率:25 武力:13 知力:72 政治:66
青州の人。弁舌詭弁に優れた。黄龍二年(230年)、魏の明帝の命で偽って呉に亡命する。
目的は延尉に就き、呉の重臣を厳しく取り調べ、その離反を招くことだった。
孫権に謁見がかなうと、得意の弁舌で司法についてよく答えたため延尉監に就くことに成功する。
また、朱拠やカク普、全琮に至るまで呉の有力者との交流を持ったため訪問者は後を絶たなかった。
後に事が発覚すると逃亡したが捕縛された。謀反の共謀者について自白を迫られたが
「烈士は死んでも他人を巻き添えにせぬのだ」と孫権に言い放って、ついに口を割らず死んだ。

58:名無し曰く、
16/01/19 19:54:09.93 Mlkyh3lV.net
孔桂 淑林 コウケイ シュクリン (?~220年)
涼州天水郡の人。楊秋配下。建安初期(196年~205年頃?)、楊秋の使者としてたびたび曹操のもとに派遣され騎都尉に任命される。
媚びへつらいが得意なほか、博奕や蹴鞠が上手だったため、曹操に気に入られいつもお供をしていた。
孔桂は曹操の機嫌の良い時をみはからい話のついでに提案を述べたため、その意見の多くは採用され、また金品も多く得た。
曹丕や諸侯らとも親交を得て贈り物も多く得ていたが、曹操の態度から後継は曹植であろうと推察し、曹丕との関係は疎遠にして曹植に接近した。
その後、曹丕が即位してもまだ断罪しなかったが、黄初元年(220年)、西域から賄賂を受け取り、人事問題に便宜を図ろうとしていたことが発覚したため処刑された。

59:名無し曰く、
16/01/20 22:15:45.44 6nmS8xk6.net
孟他 伯郎 モウタ ハクロウ (生没年不詳)
扶風郡の人。孟達の父。孟他は権力を握っていた中常時・張譲に取り入るために一計を案じる。
彼は張譲の家の家事を取り仕切っていた奴隷頭をはじめとする奴隷たちに家財を傾けて賄賂を贈った。
奴隷頭が「何をお望みなのか」と聞くと「ただあなた方の拝礼のみ」と答えた。
張譲の屋敷の門は常に来客で溢れていたが、孟他が到着すると奴隷たちによって丁重に屋敷に通されたため、
来客たちは彼が張譲と親しい間柄だと考え、互いに競って多くの贈り物をした。
孟他はその贈り物をすべて張譲に贈ったため張譲に喜ばれた。また一石の葡萄酒を贈ると即座に涼州刺史を拝命した。

60:名無し曰く、
16/01/21 21:08:17.10 PVZcdbG3.net
蔡方 サイホウ  (?~225年?)
青州?利成(利城)郡の兵士。黄初六年(225年)六月、蔡方は仲間たちとともに郡を挙げて魏に反乱を起こした。
また、太守の徐箕(徐質)を殺害すると唐咨を頭目に立てた。
曹丕は校尉の任福、段昭を派遣し、青州刺史・王凌と協力させこれを平定させた。
蔡方の最期は不明だが、唐咨は呉へ逃亡した。

61:名無し曰く、
16/01/22 23:27:31.22 S4Nlnm97.net
郭脩(循) 孝先 カクシュウ コウセン (?~253年)
統率:42 武力:63 知力:22 政治:25
魏の中郎。西平郡の人。姜維が西平郡へ侵入した際(249年か)、捕えられて蜀に連れて行かれた。
蜀では左将軍に任命されたという。郭脩は蜀に降った後、劉禅暗殺の機会を常々狙っていたが、容易に接近できずにいた。
そこで暗殺対象を大将軍の費イに変え、253年の酒宴で彼がしたたかに酔ったところを刺殺した。

62:名無し曰く、
16/01/25 00:29:11.53 9PrPT9op.net
盧氏 ロシ (?~194年?)
張衡の妻。張魯の母。年を経ても若い頃の容姿であった。
190年頃、劉焉が益州牧として赴任すると巫術師として劉焉の屋敷に出入りした。こうした縁もあってか、
益州での独立を図る劉焉は、張魯を督義司馬に任命すると漢中を攻略させ漢との連絡を断ち切らせた。
194年、劉焉が没すると子の劉璋が後を継いだが、劉璋が惰弱であったため張魯は命令に従わなくなった。
そこで劉璋は(恐らく成都で人質になっていた)張魯の母や弟を殺した。
正史には姓の記載はなく「盧氏」は道教書が出展。
また、『歴世真仙体道通鑑』によると光和二年(179年)正月二十三日に夫とともに陽平山で道術を会得し昼間に飛翔した(昇天した?)という。

63:名無し曰く、
16/01/25 22:25:00.53 9PrPT9op.net
応余 子正 オウヨ シセイ  (?~218年)
南陽の人。生来、剛毅で義に篤い性格であった。建安二十三年(218年)、南陽郡の功曹となる。
当時、関羽が樊城を攻め南陽郡はその後方支援を行っていたが、その賦役が重かったため宛の大将・侯音が反逆した。
応余は宛太守の東里袞とともに宛を脱出したが、侯音が追撃に出した騎馬隊に追いつかれてしまう。
東里袞めがけて矢が射かけられると応余は身を盾にして守り、敵追撃隊に向かって
「侯音はすぐに破滅する、善へ立ち戻れ!わしは死ぬが主が生き残ることができれば悔いはない!」と言い放った。
敵は応余の気迫と忠義に感嘆し東里袞らを見逃した。敵が去ったのちに応余は絶命した。
応余の死後、彼の事跡は曹仁、曹操、曹髦らによって称えられた。

64:名無し曰く、
16/01/26 18:15:04.60 1aVMw5g2.net
>>62
後半訂正
また、『歴世真仙体道通鑑』によると光和二年(179年)正月二十三日に
夫とともに陽平山で道術を会得し、羽化昇天で仙人になったという。

65:名無し曰く、
16/01/26 20:39:59.84 1aVMw5g2.net
董奉 君異 トウホウ クンイ (生没年不詳)
揚州会稽郡侯官県の人。仙人であり医師。妻は豫章郡内の県令・丁士彦の娘。
交州刺史の士燮が病死してから三日後、交趾にいた董奉は丸薬と水を士燮に飲ませ頭を揺すったところ、彼は蘇生し数日で回復した。
その後、一年ほど滞在したが死んだふりをして旅立ち、豫章郡へ帰って盧山のふもとに居を構えた。
董奉は患者から金銭は受け取らず、ただ自宅の周りに杏の苗を植えさせたため、数年で杏林が出来上がった。
医師の別称の「杏林」はこの故事に由来する。この杏林には虎が棲みつき、董奉一家を守護した。
董奉は人間界にいること三百年、容姿は三十代から変化しなかったという。

66:名無し曰く、
16/01/27 22:25:40.84 W+wMYAv2.net
朱(施)績 公緒 シュセキ(シセキ) コウショ  (?~270年)
統率:70 武力:78 知力:69 政治:60
呉の武将。揚州丹陽郡の人。朱然の子。父が高官だったため若くから宮中で役を負ったが、
231年に叔父の朱才が亡くなると軍勢を引き継ぎ潘濬のもとで活躍した。
赤烏十三年(250年)十二月に王昶が江陵に侵攻すると、野戦では敗れたが固く籠城し、王昶が撤退を始めると追撃し損害を与えた。
諸葛恪、融兄弟とは不仲で、建興二年(253年)に諸葛恪が誅殺されると命令を受けて諸葛融を攻め殺した。
この頃、父の元々の姓である施姓に戻すことが許された。
太平二年(257年)、呉の政治は孫チンが主導していたため魏の侵攻時に備えて、密かに蜀に有事の際の援軍要請を行う。
建衡二年(270年)に亡くなり、巴丘から西陵までの守備地域は陸抗に継がれた。
呉はもとより魏からも「賊国の名臣」と言われるほど高く評価された。

67:名無し曰く、
16/01/28 23:07:31.69 01sdzChX.net
蔡邕 伯喈 サイヨウ ハクカイ (132年~192年)
統率:70 武力:16 知力:76 政治:92
後漢の大儒。兗州陳留郡圉県の人。蔡琰の父。袁渙の従兄。経学、史学、数術、天文、書画、音律など多様な才を有した。
はじめ橋玄の招きで霊帝に仕え郎中や議郎に就く。当時の六経の乱れを憂い、楊賜、馬日磾らと上奏して
熹平四年(175年)に「熹平石経」を建て経典の是正を図った。その後、宦官の讒言によって一家そろって朔方に流刑となる。
後に許されたが宦官勢力の害を避けるため呉、会稽に十二年隠棲する。
中平六年(189年)、董卓によって無理やり召し出されたが、彼の行動を度々諌めても咎を受けないなど重用された。
反董卓連合として河内太守・王匡が河陽津に駐屯した際は、兵を率いてこれを撃破している(『蔡中郎集』より)。
初平三年(192年)、董卓が暗殺されると、王允によってほぼ連座する形で獄に入れられ刑死した。

68:名無し曰く、
16/01/29 23:34:54.78 UOUuI6QR.net
柳隠 休然 リュウイン キュウゼン (188年?~267年?)
統率:82 武力:76 知力:76 政治:52
益州蜀郡成都の人。誠実で正直な人物であった。姜維の遠征時にたびたび従軍すると、その武勇と計略は軍の筆頭たる活躍をした。
漢中の黄金囲の督に昇進し、景耀六年(263年)の鍾会らの侵攻時も鉄壁の守りを見せた。
蜀降伏後も劉禅の命令書が届くまで抵抗を続け、司馬昭に評価された。翌年、河東郡に移住し議郎を拝命。
さらに翌年、西河太守に移り、三年間務めたのち老齢を理由に辞職。蜀に帰り、八十歳で没した。

69:名無し曰く、
16/01/30 21:59:28.02 9Yr/iHMV.net
蘇則 文師 ソソク ブンシ (?~223年)
統率:75 武力:63 知力:77 政治:81
魏の政治家。扶風郡武功県の人。学問と品行で知られ剛直な性格だった。
良家の家柄であったが、李カクらの影響で三輔が混乱すると貧窮し、山中に隠棲した。
その後、安定や武都などの太守を歴任し名声が高かった。張魯討伐では郡の治世を曹操に評価され軍の先導役を任された。
荒廃した金城の太守に移ると、羌族を招き耕作を教えるなどしたため大豊作になり離散した住民の大多数が帰還した。
涼州で麹演が二度目の反乱を起こすと、カク昭らを説得し迅速に進軍して乱を平定した。
中央に召され侍中となるが、狩りの際に曹丕を諌めたため不興を買う。
223年に東平の相に左遷され、その任地に向かう途中で病死した。

70:名無し曰く、
16/01/31 22:24:40.26 59BIbt0Z.net
鮮于輔 センウホ  (生没年不詳)
統率:45 武力:20 知力:70 政治:78
幽州漁陽郡の人。はじめ劉虞に従事として仕える。
初平四年(193年)、劉虞が公孫サンに殺されると報復のため閻柔を擁立する。
閻柔は漢人、異民族の数万を糾合し公孫サン配下の鄒丹を破る。
鮮于輔は烏桓の蘇僕延とともに劉虞の子・劉和を迎え、麹義と合流して公孫サンを攻め、鮑丘で大勝を収めた。
公孫サン死後、国人に立てられ(おそらく漁陽)太守に就くと親交のある田豫を長史に任命した。
また、田豫の勧めで曹操に帰順すると、幽州六郡の督に任じされた。
建安五年(200年)の頃、曹操陣営に出向いていたため官渡の戦いにも従軍した。
その後、度遼将軍を拝命し幽州に戻った。徐バクが禁酒令を破った際は曹操へとりなしている。
黄初年間(220~226年)、曹丕の命で蜀へ赴き帰順を説いたが受け入れられなかった。
黄初五年(224年)、軻比能から訴えの手紙が来るなど北方異民族への折衝として重きをなした。

71:名無し曰く、
16/02/01 21:56:54.62 CGNJkRNa.net
游楚 仲允 ユウソ チュウイン  (生没年不詳 182年~251年ぐらい?)
統率:52 武力:36 知力:65 政治:74
馮翊郡頻陽県の人。激しい気性の持ち主で、学問をせず遊戯や音楽、博打を愛好した。父・游殷は若き日の張既に息子の後見を頼んだ
建安十六年(211年)、曹操が関中を平定すると張既の勧めで漢興太守に任じられた。後に隴西太守に移ったが恩恵による統治を行った。
太和二年(228年)、諸葛亮の第一次北伐により蜀軍が来寇すると天水・南安郡が呼応し太守は逃亡した。
一方、隴西では游楚が官民を集めて「自分は責務を果たすため死も厭わぬ。あなた方は早く自分の首を持って行け」と言ったため、
その覚悟に感涙した官民は游楚に従った。蜀軍が侵攻して来ると長史の馬ギョウを城外に布陣させ防いだ。
十日後、魏の救援が駆けつけ蜀が撤退すると、この功績により列侯となり、明帝から労をねぎらわれた。
宮中から退出後、宿衛の任務を望むと駙馬都尉に任命された。後に北地太守となり七十の時に死去した。

72:名無し曰く、
16/02/02 22:26:56.78 euw8O8lY.net
裴茂 巨光 ハイボウ キョコウ  (生年?~没年226-239年?)
統率:74 武力:56 知力:55 政治:76
司隷河東郡聞喜県の人。裴潜の父。裴秀の祖父。名家の出で、県令、郡守、尚書、尚書令を歴任した。
初平四年(193年)、長雨が二十日余り続いたため、献帝の勅により裴茂が使者となって罪科の軽い者を赦免した。
この中には李傕によって捕えられた無実の者もおり、李傕は裴茂の逮捕を上奏したが献帝は拒絶した。
建安二年(197年)、謁者僕射・裴茂は段煨ら関中諸将を率いて李傕を討伐し三族を皆殺しにした。この功によって列侯に取り立てられた。
建安十九年(214年)、献帝は魏公・曹操の位を諸王より上位に置き、赤いひもを付けた金璽、遠遊冠を下賜し、その使者に裴茂が使わされた。明帝の時代に死去した。

73:名無し曰く、
16/02/03 04:31:22.50 WhE16r4L.net
今せっせと武将大名鑑と照らし合わせて
過去シリーズからリストラされた武将を調べているわ
今日の午後にでも名前とナンバリングをレスしようと思う
しかしリアルで都合があるから
もしかしたらレス出来ないかも

74:名無し曰く、
16/02/03 23:14:19.81 7Mn8M3tl.net
去卑 キョヒ  (生没年不詳)
統率:68 武力:66 知力:52 政治:64
匈奴の右賢王。興平二年(195年)、於夫羅の死後、呼廚泉が単于に立つと叔父である去卑は右賢王となった。
同十一月、献帝が長安から脱出し洛陽へ向かう際に、楊奉らの招きで護衛に就く。
李カクらと一進一退の攻防を繰り広げたのち、追っ手を振り切って安邑まで辿り着く。
その後は献帝を許県まで送ると河東郡平陽に帰還した。
建安二十一年(216年)7月、去卑の勧めもあって単于・呼廚泉が漢に入朝しギョウに留め置かれると、去卑が代わりに南匈奴諸部を監督した。

75:名無し曰く、
16/02/04 23:58:49.17 1JrF9xQv.net
胡綜 偉則 コソウ イソク (185年~243年)
統率:71 武力:32 知力:75 政治:80
豫州汝南郡固始県の人。子は胡沖。父の死後、江東に移り建安三年(198年)の十四歳の時に孫策に仕える。
孫権とは学友で、孫策の死後は将軍府の書部となり、是儀や徐詳とともに国政の中枢を司った。
胡綜は文章の作成に優れ、呉の行政文書や外交文書の作成を担当していた。
また、黄祖討伐や晋宗捕縛など武功もあり、呉が建国されると侍中と同時に将軍職も兼任する。
呉質が魏で疑われているという情報が入ると、偽の降伏文を作成し流布させたがすでに中央に召し返されていた。
公孫淵への対処で孫権と張昭が激しく対立した際は仲裁に尽力する。
胡綜は酒好きで酔うと大声でわめいたり、左右の者を殴ったりするなど酒乱であったが孫権に才を惜しまれ不問とされていた。

76:名無し曰く、
16/02/05 23:35:53.65 F4AOqJH3.net
孫河(俞河) 伯海 ソンカ(ユカ) ハクカイ (?~204年)
統率:76 武力:79 知力:55 政治:62
揚州呉郡富春県の人。孫桓の父。孫韶の伯父。孫堅の族子であったが俞氏の養子となり、後に孫策の代で孫姓を賜る。
実直な性格で、議論より行動するのを好み、職務に熱心に励んだ。若い頃から孫堅に従軍し常に先鋒を務めた。
後に近衛兵を指揮し、内事を取り仕切るなど腹心として信任された。孫堅死後、多くの者が離れる中、呂範とともに孫策と支え、呉、会稽平定に貢献する。
鳥程県長だった時の部下に吾粲がいたが、孫河が将軍となると彼を曲阿の県丞(県の副官)に推挙した。
ちなみに時期は不明だが息子の孫助は曲阿の県長を務めていた。
建安九年(204年)、孫翊が辺洪に暗殺されると、彼と親しくしていた媯覽、戴員を激しく詰問する。
しかし、媯覽らは事件の主謀者であり、身の危険を感じたため彼らに殺された。

77:名無し曰く
16/02/06 11:24:10.05 t+ogLn7X.net
素晴らしいスレですね♪
できたら、字にもふり仮名お願いします。

78:名無し曰く、
16/02/06 22:40:59.41 UbU3LqFo.net
趙儼 伯然 チョウゲン ハクゼン (171年~245年)
統率:72 武力:51 知力:81 政治:76
豫州潁川郡陽翟県の人。戦乱を避け、荊州で杜襲、繁欽と暮らしていたが、曹操が献帝を許都に奉戴すると仕官を決意し、朗陵県長に就任。
その後は各地の太守を歴任した。李通とは親交があり、袁紹が豫州へ誘いをかけた際、
焦った李通が曹操のために徴税しようとすると、それを諌め対応を荀彧に相談した。
劉表への備えで前線に駐屯する于禁、張遼、楽進らは互いに不和であったが、趙儼が参軍として取り成したため協力するようになった。
建安十三年(208年)、荊州侵攻の際には都督護軍となり、于禁・張遼・張郃などの七軍を統括する。
建安十六年(211年)、潼関の戦いの事後処理で、降伏した元馬超らの軍を統括した。
建安二十四年(219年)の樊城の戦いでは、「曹仁との連絡を最優先にすべし」と進言し救援に貢献。
また「呉への対策に関羽の追撃は止めるべき」とも進言し容れられた。
黄初三年(222年)には曹休の軍師として孫権を撃退する。曹芳の代まで仕え、位は驃騎将軍・司空まで昇った。

>>77あざな?

79:名無し曰く、
16/02/07 23:22:03.72 1/yM5Rhn.net
趙嫗 チョウオウ (?~248年?)
統率:74 武力:78 知力:31 政治:20
交州九真郡安県(現在のベトナム)の女。嫁に行かず、九真の山中で群盗を束ねて郡を荒らしまわった。
趙嫗は三尺ある乳房を背負い、金の靴を履いて、常に象の頭に乗って戦った。
戦いから戻るといつも帷幕を張り、少年を数十人は侍らせたという。
赤烏十一年(248年)に九真郡の城邑を複数攻め落とすと、交州全体に動揺が広がった。
これに対し孫権は陸胤を交州刺史に任命し鎮圧に向かわせる。反乱は陸胤によって平定され、趙嫗は戦死した。

80:名無し曰く、
16/02/08 22:04:32.86 ExElsQny.net
陸胤 敬宗 リクイン ケイソウ  (生没年不詳 ただし期間は199年~275年)
統率:77 武力:63 知力:71 政治:83
揚州呉郡呉県の人。陸遜の族子。陸凱の弟。御史・尚書選曹郎であった頃、その名声を聞きつけた孫和から礼遇される。
赤烏六年(243年)頃から始まった二宮の変では、孫和派の一人として讒言に遭い投獄される。
激しい拷問を受けたが、他者を非難するような言動を一切しなかった。後に許されて衡陽の督軍都尉となる。
赤烏十一年(248年)九真郡で趙嫗らによる大規模な反乱がおこると交州刺史として派遣される。
陸胤は恩恵と信義を教え諭して、財貨を惜しまなかったため、賊の頭目や、これまで呉の支配を拒絶してきた人々まで次々に投降してきた。
また、蒼梧や建陵の賊を討伐し、それまでに得た兵士八千人を軍に編入した。
陸胤が交州刺史として赴任すること十年、農民や商人は安全に生活でき、災害は減り田が豊かに実った。また、塩害用の貯水湖を作り民衆を助けた。
永安元年(258年)、西陵督に移り、都亭侯に封じられた。華覈から高く評価され、中央に召すよう上奏があったが、その後の記録はない。

81:名無し曰く、
16/02/09 22:26:41.77 T76FCGuq.net
>>80 補足
撰に『廣州先賢傳』七巻があり、交州の優れた人物を顕彰している。

王嗣 承宗 オウシ ショウソウ (生没年不詳)
統率:53 武力:26 知力:61 政治:77
益州犍為郡資中県の人。延熙年間(238年-257年)、功徳が顕著ということで孝廉に推挙された。
次第に昇進し西安囲督・汶山太守となり、安遠将軍の位を付加される。 領内の羌族に恩愛と信義をもって接したため、みな彼に帰服した。
また、平素乱暴な諸部族もみな帰服して来たため、当時北方の国境地帯は安寧となった。
姜維が北伐をする度に、羌族は馬・牛・羊の毛織物を出し、さらに穀物を出して兵糧の助けとしたため、その資材を頼みとして戦うことができた。
鎮軍将軍に昇進し、そのまま郡太守も兼任する。王嗣は人情に厚く実意ある人柄で、人々に愛され信頼された。
後、姜維の北伐に随行した際、流れ矢に当たって負傷し、その矢傷のため数ヵ月後に死去した。
野辺送り(見送り葬)をする異民族は数千人に昇り、涙を流し、声を上げて泣いたという。
羌族は、王嗣の子及び孫たちに対し肉親のように接し、あるいは義兄弟の契りを結んだりした。

82:名無し曰く、
16/02/10 07:23:02.77 uHd2t0mE.net
三国志長く見てると使われる苗字や文字がわかってきて
名前と字付けで悩まなくなるのがすごいよな

83:名無し曰く、
16/02/10 15:25:52.00 7C+E9RHm.net
字は名と同義だったり真逆的なものだったり、対になってる感じのも多い
そこを踏まえておけばさほど悩むもんでもない

84:名無し曰く、
16/02/10 23:59:12.18 DiHJ4Ghx.net
成廉 セイレン (?~198年?)
統率:73 武力:81 知力:23 政治:5
呂布の近衛の武将。史書には勇猛な将を意味する「驍将」または「健将」と表記される。
192年~194年の間、流浪の呂布は袁紹を頼り客将となる。この頃、袁紹は精強を誇る黒山賊の張燕と争っていた。
呂布は成廉や魏越など数十騎のみを引き連れて、敵陣営に突撃を繰り返し、その度に敵将の首を取ってきた。そうしたことが十日余り続くと張燕軍は打ち破られた。
建安三年(198年)、曹操が呂布討伐の軍を下ヒまで進めると、呂布とともに迎撃に出陣したが大敗。成廉は捕虜となった。
演義では八健将の一人。初戦で曹操を後一歩まで追い詰めるが、典韋に撃退され、最後は濮陽において楽進に弓で射殺されてしまう。

85:名無し曰く、
16/02/11 22:55:55.86 c28HF5Iv.net
劉靖 文恭(水経注より) リュウセイ ブンキョウ (?~254年)
統率:61 武力:35 知力:70 政治:81
魏の政治家。劉馥の子。劉弘の父。黄初年間(220年~226年)、黄門侍郎から盧江太守に昇進した。後に河内太守、尚書、河南尹を歴任する。
統治下では盗賊や災害対策を行い、農業養蚕の道具などを補助してやり、官民を統制し貧民を救い、法律を順守させた。
彼の行政は父と同様に、初めは細かく煩わしいが、後々に人民にとって便利なものとなった。
正始年間(240年~249年)、質の劣化した太学の改善案を上奏したがその時点では却下された。
後に鎮北将軍・仮節都督河北諸軍事となり、「蛮族の対処は防御策以外になし」という信念のもと北方の要地に軍隊を置いた。
また、堤防を修復して広くし、薊の南北を灌漑して稲を植えさせたため住民は利益を得た。嘉平六年(254年)に死去した。

86:名無し曰く、
16/02/12 23:43:34.45 f9dHyoIP.net
徐胤 ジョイン (生没年不詳)
統率:72 武力:23 知力:61 政治:52
晋の武将。泰始五年(269年)、羊祜が都督荊州諸軍事として襄陽(?)に赴任するとその軍司(軍監・戦目付)となる。
軍中での羊祜はいつも軽装で鎧もつけず、護衛も十数人で狩りや釣りを好んだ。
あるとき羊祜が夜中に外出しようとすると、徐胤は割符を手に営門に立ちはだかって「万里を統括する御方が、軽装で出掛けて良いものでしょうか!
今日、私が死なない限りこの門は開きませんぞ!」と言った。すると羊祜は謝罪し外出も稀になった。
その後、羅憲の後任で巴東監軍として益州へ赴任する。
泰始八年(272年)の西陵の戦いでは、歩闡を救援するため羊祜は江陵へ、楊肇は西陵へ、徐胤は水軍を率いて永安方面から建平郡へ進軍した。
陸抗は水軍督・留慮と鎮西将軍・朱琬を派遣し徐胤を防いだ。楊肇が敗れると(おそらく)徐胤も撤退した。

87:名無し曰く、
16/02/13 00:23:54.96 c+hRnseU.net
異民族でも匈奴や南蛮関連じゃなくて卑弥呼や倭国関係の人物の能力査定が見たいな…

88:名無し曰く、
16/02/13 23:59:38.12 i2SDezpQ.net
周不疑 元直 シュウフギ ゲンチョク (194年?~208年?)
統率:32 武力:19 知力:83 政治:60
荊州零陵郡の人。劉先の甥。幼くして異才があり、聡明で理解力に優れた。
劉先は彼の師を劉巴に依頼したが「甥御の教師として、自分は力不足である」と辞退した。
建安九年(204年)、曹操が面会すると娘を嫁がせようとしたが断ったという。
建安十二年(207年)、烏丸征伐の際の柳城攻略に手間取った曹操は、絵図を書き周不疑に計略を訪ねると十通りの策を献策した。
曹操がこれを用いると柳城はすぐに陥落した。
曹操はもともと曹沖の友として周不疑が釣り合うと考えていたが、曹沖が死ぬと「他の息子では制御できまい」と考え刺客をやって殺した。

>>87ほとんど事跡のない人は適当につけるから自分でつけた方がいいと思うよ

89:名無し曰く、
16/02/15 22:52:49.12 gk23SCO9.net
習珍 シュウチン (?~221年?)
統率:58 武力:59 知力:34 政治:22
荊州襄陽郡の人。劉備に仕え零陵北部尉・裨将軍を務めていた。建安二十四年(220年)、関羽が呉に斬られると荊州の諸県が呉に呼応する。
習珍は抵抗しようとしたが、弟の習宏に「今は雌伏し、時期を待つべき」と説得され呉に降った。
習珍は武陵郡部従事の樊胄と密約を結び、章武元年(221年)の劉備の出征に合わせて同時に挙兵。
邵陵太守を自称し、七県を併せ異民族の地に駐屯し蜀に味方した。
しかし、呉から潘濬が討伐に来ると樊胄は敗れ、習珍も数百人で敗走し山に籠城した。
潘濬に対し「漢の鬼となろうと呉の臣下にはならない!」と頑強に抵抗したが、一月余りで兵糧や矢が尽きたため、部下を巻き込まないように自害した。
劉備は習珍の死を聞くと喪を発し、邵陵太守を追贈した。

90:名無し曰く、
16/02/16 09:32:21.99 bO8TlKKV.net
凄く役立つスレ発見した
スマホからなんで今は書けないが、前半空白地を埋める君守武将(張温、王叡、曹寅など?)が居ると嬉しい
三国志13だと開始直後に空白地取るのが強過ぎるからそれ防止にもなるし
今は出来ないけど、wikiに纏めたり新武将データをUPるとかとか新武将配置済みシナリオ配布とか…

91:名無し曰く、
16/02/16 11:01:47.26 7/mzqanV.net
はい嫁候補
URLリンク(www.youtube.com)

92:名無し曰く、
16/02/16 22:23:46.58 lJqqMK9K.net
董白 トウハク  ((177~188)?~192年)
統率:9 武力:7 知力:48 政治:56 (11準拠)
涼州隴西郡臨洮県の人。董卓の孫娘。初平二年(191年)、長安に撤退した董卓は、董旻を始めとした内外の一族をみな高位に就けた。
董卓は郿城の東に壇を築き(縦横5m、高さ約1.3m)、金華青蓋車に董白を乗せ、郿にいる都尉、中郎将、刺史らが先導や御供となり、
侍中の董璜(董卓の兄の子・従伯父にあたる)が使者となって印綬を授けた。このとき董白は未笄(十五歳以下)であったが、渭陽君に封じられた。
初平三年(192年)董卓が暗殺されると、一族の籠る郿城に皇甫嵩が派遣され、親族は皆殺しとなった。
なお、白の親は不明であるため姓は不詳、仮に董とする。

93:名無し曰く、
16/02/17 22:30:56.63 9RLZcrrG.net
昌豨 ショウキ (?~206年)
統率:82 武力:68 知力:55 政治:30
別名・昌覇。徐州の人。臧覇、孫桓らと同じ太山の首領の一人。初めは呂布に従っていたが、建安三年(198年)に呂布が敗れると曹操に降伏する。
建安五年、劉備が下邳で反乱を起こすと、これに呼応し東海国で挙兵。
鎮圧に派遣された夏侯淵、張遼を相手に数か月抵抗し、曹操軍を兵糧切れに追い込んだ。
しかし、敵対行動に迷いが生じ、また張遼の果敢な説得もあって再び曹操に降伏した。
冀州が平定された建安十一年(206年)、昌豨は再び反乱を起こす。
于禁が征討にあたったが降せず、夏侯淵の援軍や臧覇らと共同で十以上の陣が破られた。
敗北を悟った昌豨は旧友の于禁のもとに出頭したが、于禁が法律を順守したため斬首となった。

94:名無し曰く、
16/02/18 20:21:42.98 EgwAY9YY.net
鄧展 文穎(古今圖書集成より) トウテン ブンエイ (生没年不詳)
統率:51 武力:67 知力:63 政治:41
魏の奮威将軍。南陽の人。建安十八年(213年)、魏公就任をたびたび辞退する曹操に対して、
拝命を勧める群臣の中に鄧展も名を連ねている(劉展の誤字で)。
また、鄧展は矛や戟など五種の長柄武器に精通し、無手であっても白刃の中で戦えるといわれた。
あるとき曹丕、劉勳らと酒の席で撃剣の議論をしている際に、曹丕と意見が対立して試合で武法の是非を証明することとなった。
戯れの試合であったため干蔗(砂糖キビ)の剣で戦ったが、二回とも曹丕に完敗した。
鄧展は武だけでなく、『漢書』の注釈を残しており、「鄧展曰く」の注が現在でも残っている。
また『孝子傳』に、蚊の多い季節に窓の下で眠る父母のため、床に伏せて蚊を自分に吸わせた、という逸話がある。

95:名無し曰く、
16/02/19 22:17:32.95 fnq8cMSG.net
馮氏 フウシ (?~197-199年)
袁術の愛妾。司隷の馮方の娘。国内随一の美女で、千金に値する髪飾りを有した。
戦乱を避け揚州(寿春)に避難していた馮氏は、城壁に登った袁術の目にたまたま留まり、後宮に入れられると甚だ寵愛された。
それに嫉妬した妻妾たちから「会うたびに泣けば更に気に入られますよ」と悪意の忠告をされる。
それを真に受けた馮氏が実践したところ、袁術の目には「別な想い人のために涙する志節を持った女性」と映り、ますます寵愛された。
焦った妻妾たちは馮氏を縊り殺し、自殺に見せかけて厠の梁に掛けておいた。
袁術は想いを果たせず自害したのだろうと考え厚く葬った。
『演義』では袁術即位時に皇后に立てられた。

96:名無し曰く、
16/02/20 22:05:03.56 PAxxSQ3Z.net
宋建 ソウケン (?~214年)
統率:65 武力:70 知力:44 政治:32 (統率以外Ⅷの宋揚に準拠)
涼州隴西郡の人。別名に宋揚? 涼州の独立勢力の主。
中平元年(184年)冬、北地郡の羌族や枹罕、河間の群盗は北宮伯玉、李文侯らを将軍に立てて反乱を起こした。
宋建も王国と共に賊軍に加わり、金城太守・陳懿を殺害。辺章・韓遂を拉致し、無理やり頭目に擁立した。
反乱軍は、張温や董卓ら討伐軍との戦いでも優勢であったが、流星を不吉に感じ金城に撤退した。
その後、宋建は隴西郡の枹罕県で河首平漢王を自称し、改元や百官を設置して国家として三十年ほど自立した。
建安十九年(214年)冬十月、曹操から派遣された夏侯淵、張コウらに包囲を受け、一ヶ月余りで陥落し、配下共々斬られた。

97:名無し曰く、
16/02/21 23:15:32.63 J593kzLN.net
成済 セイサイ (?~260年)
統率:31 武力:68 知力:19 政治:17 (統率以外はⅧのステータスに準拠)
魏の太子舎人。兄に成倅。甘露五年(260年)五月七日、司馬昭の専横に対して、魏帝・曹髦は下僕など数百人を連れて決起した。
司馬昭側は王業、王沈から密告を受けていたが、東止車門で遭遇した司馬チュウ勢は一喝され敗走。
賈充も南闕門で曹髦を迎撃したが部隊が逃げ腰になり劣勢となる。
成済は賈充に「如何すべきか」と問うと、賈充は「お前たちを養ってきたのは今日のためだ!後から咎めたりしない!」と答えた。
そこで成済は前進し曹髦を刺殺した。しかし、事態が収まると成済は皇帝弑殺の大罪人として罪を押し付けられ一族諸共処刑された。

98:名無し曰く、
16/02/22 21:14:44.48 kaYBUU29.net
鄭渾 文公 テイコン ブンコウ (生没年不詳 生年は152年?以降 死亡年は226年~239年の間)
統率:67 武力:63 知力:77 政治:89
司隷河南尹開封県の人。兄に鄭泰。揚州刺史の兄が赴任前に病死したため、(193年以降)、兄の遺児を連れて淮南に避難した。
しかし袁術の破滅を予見して、親交のあった豫章太守・華キンのもとに身を寄せた。
その後、曹操から招聘され邵陵などの県令を務める。
建安十七年(212年)頃に左馮翊(官名)に遷ると、その地で跋扈する梁興の勢力を計略で弱体化させ、夏侯淵と共に梁興らと戦い斬った。
建安二十年(215年)の漢中遠征時は京兆尹となり、兵糧輸送により功績第一となる。
その後、各地の太守を歴任し、堤防作りや植林など主に農業によって任地を富ませた。

99:名無し曰く、
16/02/23 22:42:44.20 f+vobxpI.net
>>98訂正 死亡年は226年以降

丁斐 文侯 テイヒ ブンコウ (?~216年から数年後)
統率:51 武力:26 知力:66 政治:21
豫州沛国の人。丁謐の父。曹操と同郷人ということで特別目に掛けられ、たびたび賄賂を要求し法に触れたがその度に不問とされた。
丁斐は典軍校尉として内外を取り仕切り、その意見はよく採用された。
建安十六年(211年)、潼関の戦いで曹操は馬超に急襲されたが、
丁斐が牛馬の群れを放って敵兵士の気を逸らしたため危機を脱することができた。
建安二十一年(216年)の濡須口の戦いにも従軍したが、
自身の痩せ牛と国家の牛をこっそり交換したことが発覚し、官位を剥奪され投獄された。
曹操は「こやつを用いるのは、鼠除けに盗人犬を飼っているようなものだ」といって笑い、官位を戻して不問とした。

100:名無し曰く、
16/02/23 22:53:33.84 gGMXHThl.net
陳王の劉寵ってシリーズにでてきた事あったっけ?

101:名無し曰く、
16/02/24 17:27:02.35 lTH0dIg5.net
たぶんない!

102:名無し曰く、
16/02/24 18:57:19.98 d8kcpLJ2.net
12までにいて13にいない武将リスト
郭援、郭馬、管輅、韓キョ子、季雍、魏バク 許劭、蹇碩、伍延、黄承彦謝旌、邵悌、岑昏、全紀、沮鵠、
孫震、張南、禰衡、唐彬、馬忠、李豊、李孚、陸凱、劉和 劉シュン
王悦 王桃 関寧 崔州平 石韜(広元)張世平 董白 杜氏 ホウ娥 楊氏 陸鬱生 李氏 呂伯奢
王含 王沈(処道) 王買 夏侯咸 何曾(潁考) 何楨(元幹) 句安 皇甫ガイ 胡淵(世元) 胡沖 蔡貢 脩允 周浚(開林)
脩則 荀愷 蒋顕 鍾離斐 孫述 孫覇(子威) 孫[雨單](キツ) 張潁 張喬 張象 張尚 張節 張儼(子節)陳元 陳俊
鄭沖(文和) 丁謐(彦靖) 田章 陶シュン(世英)鄧良 馬隆(孝興) 畢軌(昭先) 馮タン(少冑) 毛炅 楊稷 李球 李キン
陸景(士仁) 劉俊 劉寔(子真) 倭女王 倭武将 倭巫女
耿紀(季行 )蔡勳 蔡ヨウ(伯カイ) 崔諒(士文) 士孫瑞(君栄) 朱讃 岑威 成済 薛則 曹遵
宋揚 卓膺 張温(伯慎) 張鈞 鄭玄(康成)董禧 馬日テイ(翁叔) 傅嬰 伏完 辺章 鮑忠
北宮玉 楊彪(文先) 楊陵 劉永(公寿) 劉理(奉孝) 呂義(季陽)
阿貴 烏延 王同 柯吾 蛾遮塞 去卑 骨進 千万 苻健 芒中 尤突
王子服 キョウ景 蔡陽 紫虚上人 杜遠 董衡 南華老仙 傅幹(彦材)
王真 宗預(徳エン)杜瓊(白喩)李鵬
晏明 韋康(元将)尹楷 尹奉(次曾)尹礼 王楷 王垢 王昌 王植 王則 王方 和洽(陽士)夏侯存 夏侯蘭
関純(伯典)韓福 韓猛 姜叙(伯奕)許汜 許昌 黄エン(子エン)孔秀 公孫修 耿武(文威) 伍瓊(徳瑜)
胡才 伍習 呉子蘭 呉碩 胡赤児 呉敦 崔勇 左霊 史渙(公劉)史蹟 周善 朱光 荀惲(長倩)荀爽(慈明)
蒋奇 尚挙 尚弘 鍾進 徐商 審栄 秦琪 辛明 秦良 成廉 薛悌(孝威)薛蘭 薛礼 曹安民 宋果 曹彦 宋忠(仲子)
宗宝 趙叡 趙衢 趙昂(偉章)趙岑 張先 張著 陳就 陳生 鄭度 鄧義 董コウ 鄧竜 杜襲(子緒)馬延 馬漢
費観(賓伯)孟坦 楊? 楊洪(季休)楊密 楊齢 李楽 李珪 李暹 李別 李封 李蒙 劉延 劉晙 劉先(始宗)
柳甫 梁寛 呂公 呂常 路昭
張顗 張資(子議) 陳嬉 呂覇
梁紀

103:名無し曰く、
16/02/25 09:35:22.14 PCNzzpX8.net
>>102
これはいいデータ
1000人入れようと思えば簡単に入れられるな
13は同名別人武将(馬忠や李豊など)が削られてるんだっけ
王、李、楊などイマイチパッとしない武将がごそっと居ないイメージ
仙人枠とか異民族も結構居ないな
その割には一族武将があまり削られてない
今回は満足出来る拠点数だけど、たった700じゃそりゃスカスカになるわな
ここ最近の作で頑なに採用されない蔡ヨウ、パラメータは相当いいものになりそうなのに
洒落じゃねーぞw

104:名無し曰く、
16/02/25 21:02:22.14 ML/PBu3d.net
丁固 子賤 テイコ シセン (198年~273年)
統率:65 武力:32 知力:71 政治:77
揚州会稽郡山陰県の人。丁覧の子。元の名を「密」といったが滕密の名を避けて改名した。
若くして父を喪い、母とともに慎ましく暮らした。呉ではカン沢や虞翻に高く評価され、尚書や左御史大夫を勤める。
甘露元年(265年)、歩闡の上奏で孫皓が武昌に遷都すると諸葛セイと共に建業を守備した。
宝鼎元年(266年)十月、(呉郡の)永安県の山賊・施但が蜂起し、孫和の子の永安候・孫謙を脅迫して建業まで進軍してきた。
その勢力は一万余りに膨れ上がったが、丁固と諸葛セイが牛屯で撃破し、施但を敗走させ孫謙を保護した。
同年十二月、陸凱、丁奉らと孫皓廃立を計画するが、警護役の留平の賛同を得られず中止した。宝鼎三年(268年)に司徒に遷った。

105:名無し曰く、
16/02/26 21:46:09.04 R62q01Xs.net
劉寵 リュウチョウ (?~193年頃?)
統率:57 武力:77 知力:34 政治:54
漢の陳王。後漢二代皇帝・劉荘の玄孫。熹平二年(173年)、国相の師遷から「天神を祭り、即位の野望あり」と弾劾される。
しかし、霊帝が誅殺を躊躇い、結局不問とされた。劉寵は弩が得意で、十発射れば十発とも同所に命中した。
中平元年(184年)、黄巾の乱により郡県はみな城を捨て逃亡したが、劉寵は強弩数千を揃えて都亭に駐屯した。
陳国の人は劉寵の武威を恐れて反乱に加わらず、そのため十万人が他から避難してきた。
反董卓連合時は陽夏県に駐屯し輔国大将軍を自称。後に袁術が兵糧を求めてきたが、これを断ったため刺客に殺された。

106:名無し曰く、
16/02/28 20:32:05.24 MUCO8U2i.net
>>102
どこに所属させればいいんだ?

107:名無し曰く、
16/02/28 21:37:51.98 8HkUXVlO.net
劉寵(と駱統父)の没年は197でしょう

108:名無し曰く、
16/02/28 22:28:54.43 4zZ7ZBKq.net
>>107 ですな。陳王の伝だけ見てたから年代がわからなかった

駱俊 孝遠 ラクシュン コウエン (?~197年)
統率:51 武力:42 知力:62 政治:68
揚州会稽郡烏傷県の人。駱統の父。文武の才を有し、若くして郡吏となる。
孝廉に挙げられると尚書郎に就き、後に(師遷の誅殺で空いた)陳国の相(宰相)に遷った。
当時、袁術の僭称や袁兄弟の争いで天下が混乱し多くの賊が跋扈した。
そのため駱俊は武威を増強し、国境警備に重点を置いて賊を防いだ。
国内では百姓を養い助け、また災害も起きず作物の実りも豊かだった。
建安二年(197年)、飢餓にあった袁術軍が兵糧の提出を求めてきたが、袁術を不快に思っていた駱俊はこれを無視する。
これに怒った袁術は刺客を放って駱俊を殺した。陳国の人は父母を亡くした時のように哀しんだという。

109:名無し曰く、
16/02/29 09:30:04.01 SEX95pkd.net
気にもとめていなかったけど張南いないのね
相棒は初期統率高いせいかよく見かけたけど

110:名無し曰く、
16/02/29 22:58:01.64 Cv0ggktQ.net
張裔 君嗣 チョウエイ クンシ (166or167~230)
統率:62 武力:41 知力:79 政治:82
益州蜀郡成都の人。許靖から鍾ヨウに匹敵すると評価されたが、公平性に欠ける面があった。
劉璋の時に孝廉に挙げられ益州従事、帳下司馬となる。
建安十七年(212年)、侵攻する張飛を広漢郡の徳陽で迎撃したが、敗北し成都に帰還した。劉備政権では巴郡太守や司金中郎將に就いた。
後に雍ガイの抑えとして太守に派遣されたが、逆に雍ガイにより捕えられ呉に送られた。
建興元年(223年)、呉に赴いた鄧芝の提案により張裔の帰還が叶い、その後は諸葛亮に重用される。
227年に諸葛亮が北伐準備で漢中に駐屯した際は、留府長吏(丞相の政務代行)に任命された。

111:名無し曰く、
16/03/02 22:17:13.50 Q+BUTMBl.net
宗預 徳豔 ソウヨ トクエン (188年頃?~264年)
統率:53 武力:20 知力:71 政治:62
荊州南陽郡安衆県の人。剛直な性格で、傲岸な鄧芝に対しても遠慮をしなかった。
建安十七年(212年)、張飛に従って益州入りし、丞相主簿や参軍・右中郎将に就く。
234年の諸葛亮没後、呉との国境付近で互いに防備を強化する事態が起こる。
呉へ赴いた宗預は「互いの情勢次第であり当然のこと」と答え、孫権から評価された。
延煕十年(247年)に初めて兵権を預かり永安の部隊を指揮していたが、景耀元年(258年)に中央に召し返される。
このころ諸葛瞻が政事を主導しており、廖化から挨拶に行くよう誘われたが断った。蜀降伏後、洛陽へ護送中に病死した。

112:名無し曰く、
16/03/03 22:54:33.90 nXtvqiaj.net
司馬駿 子臧 シバシュン シゾウ (232?年~286年)
統率:83 武力:52 知力:73 政治:62
晋の扶風王。司馬懿の七男で母は伏夫人。孝行で学問を好み、文筆に優れた。曹芳即位時は散騎常侍・侍講となる。
その後は各地の都督を歴任し、任地では農業を推し進めた。晋朝成立後は汝南王となる。
泰始四年(268年)に丁奉が芍陂に侵攻すると司馬望と共に撃破した。
270年に都督雍涼等州諸軍事に昇進し、免官となった兄・司馬亮の代わりに関中を守備。
咸寧元年(275年)に羌族の樹機能の反乱を鎮圧し、277年に再び背くと平虜護軍・文俶を派遣しこれを鎮めた。
この年に入朝し扶風王に遷る。讒言により司馬攸が領国行きとなると武帝を強く諌めた。

113:名無し曰く、
16/03/05 00:37:56.08 BOhAhGRZ.net
>>102
お疲れ
俺も調べようとしていたから助かる
因みに三国志11wikiの新武将も列伝もあるから参考になる

114:名無し曰く、
16/03/05 22:07:06.49 c1wc7wlj.net
楊彪 文先 ヨウヒョウ ブンセン (142年~225年)
統率:21 武力:17 知力:62 政治:78 (統率以外はⅧ準拠)
司隷弘農郡華陰県の人。楊修の父。妻は袁術の妹。
熹平年間に議郎となり馬日テイ、盧植、蔡ヨウらと東観(国史編纂室)で著作を行い、後に侍中・京兆尹に遷った。
董卓政権下では司空、司徒を勤め、長安遷都を強く反対して罷免されたが、後に復帰し九卿を歴任する。
興平元年(194年)の李カクと郭汜の内紛では一時危機に陥るも、献帝の帰還に最後まで付き添った。
曹操政権下では袁術の縁者ということで処刑されそうになったが孔融の取り成しで助命される。
また、散逸した『東観漢記』を完成させた。建安十年(205年)の罷免後は出仕せず八十三歳で没した。

115:名無し曰く、
16/03/07 00:09:44.30 WA7mpy9I.net
劉淵 元海 リュウエン ゲンカイ (251-253年~310年)
統率:80 武力:87 知力:78 政治:75
匈奴単于、漢皇帝。并州新興郡の匈奴。劉豹の子で母は呼延氏。幼くして学を好み、また武芸にも秀でて弓を得意とした。
咸熙中(264年頃)に人質として洛陽に送られる。王渾・王済親子とは親しく付き合い、司馬炎に謁見すると高く評価された。
父が死ぬと左部帥を継ぎ、後に匈奴五部全体の都督として十年間部族を治めた。
八王の乱では、ギョウで司馬穎の配下として活躍したが、機を見て胡地に帰還し永興元年(304年)に漢王に即位。
司馬騰などを破り并州を制圧して皇帝に即位した。生前に洛陽攻略こそ果たせなかったものの、後の前趙の基盤を築いた。

116:名無し曰く、
16/03/09 22:34:43.89 U95Ki46Y.net
王商 文表 オウショウ ブンヒョウ (?~211年)
統率:10 武力:7 知力:71 政治:65
益州広漢郡郪県の人。王甫の兄。劉焉に招かれ治中従事となる。多くの人物を推挙して、そのいずれもが高官に登った。
初平四年(193年)、劉焉は馬騰と同盟し李カクを討とうと計画したが、それに強く反対する。
しかし聞き入れられず、また襲撃は失敗に終わり劉焉の長男と次男も殺害されてしまった。
失意の劉焉が没するとその末子の劉璋を後継に擁立する。
その後、馬超が劉璋との同盟を持ちかけてくると、王商は強く諌め、劉璋もそれに従った。
蜀郡太守を十年務めたが、学問を修め農業を広めて住民の暮らしを助けた。また先賢の碑文を建て故人を顕彰した。

117:名無し曰く、
16/03/10 23:25:09.90 Wv4tMn9K.net
于毒 ウドク (?~193年)
統率:58 武力:67 知力:32 政治:14
黒山賊の頭目の一人。黄巾の乱に呼応して蜂起する。
初平二年(191年)の秋、黒山賊の白繞やスイ固らと共に十万の兵で魏郡および東郡を攻めた。
太守の王肱はこれを防げず、曹操が東郡に入り濮陽で白繞を撃破した。
翌年春、曹操の軍が頓丘にいる隙を突き、東郡の政庁のある東武陽を攻撃した。
しかし曹操が本拠地・黒山の攻撃に向かったため慌てて撤退する。スイ固はその帰路で撃破された。
193年、袁紹の留守を狙ってギョウ城を攻撃し、兵の内応によって太守の栗成を殺害する。
袁紹が帰還すると朝歌の鹿馬山の蒼厳谷に籠城したが五日後に陥落し斬られた。

118:名無し曰く、
16/03/13 23:16:48.13 4Vz581pa.net
鄭度 テイド (生没年不詳)
統率:18 武力:20 知力:77 政治:54
益州広漢郡緜竹県の人。劉璋の従事。
劉璋は張魯対策に劉備を葭萌関へ派遣していたが、建安十七年(212年)突如として劉備が反旗を翻し益州攻略に乗り出した。
益州従事の鄭度は劉璋に進言した。「巴西・梓潼の住民を移し、その地の食となる物をすべて焼き払い、
さらに固く籠城していれば兵糧難の劉備は百日もしないうちに敗走します。そこを追撃すれば簡単にとらえることができましょう」と。
しかし、その計略は却下され、鄭度も罷免された。演義でも同様の展開。

119:名無し曰く、
16/03/16 23:55:48.85 hc1KCqar.net
劉放 子棄 リュウホウ シキ (?~250年)
統率:31 武力:20 知力:79 政治:76
幽州タク郡の人。漢の西郷侯劉容の子孫で皇族。郡の綱紀を歴任し孝廉に挙げられた。
天下が乱れると漁陽の王松に依り、曹操が官渡で袁紹を破ると王松に曹操への帰順を説く。
建安十年(205年)に出仕し参司空軍事や主簿記室などを歴任した。
魏建国時から孫資とともに秘書の任に就き、曹丕が即位すると中書監に遷り機密を扱った。
劉放は書と檄文に長け、曹叡の代までの勧告文をほとんど手がけた。曹叡が危篤となると曹爽と司馬懿に後事を任せるよう説得した。
劉放らは長く政治の中枢にいて大権を有したため、非難を受けることが多々あった。

孫資 彦龍 ソンシ ゲンリュウ (?~251年)
統率:25 武力:51 知力:77 政治:72
并州太原郡の人。太学で経書の注釈を学び、また王允から評価された。
建安元年(196年)に曹操から招聘されたが、殺された兄の復讐で人を殺めたため河東に移り住んだ。
友人の賈逵の説得を受けて出仕し、県令をへて参丞相軍事となった。
魏建国時から劉放とともに秘書の任に就き、曹丕が即位すると中書令に遷り機密を扱った。
太和六年(232年)、呉が遼東へ周賀を派遣すると、その迎撃に賛同し田豫により打ち破られた。
曹叡が危篤となると曹爽と司馬懿を推薦した。孫資らは長く政治の中枢にいて大権を有したため、非難を受けることが多々あった。

120:名無し曰く、
16/03/23 22:41:24.92 XH+lWYED.net
曹志 允恭 ソウシ インキョウ (?~288)
統率:31 武力:53 知力:72 政治:32
曹植の末子。若くして学を好み、騎射に優れ、才能と品行を称えられた。
曹植から「家をよく保全する者」として後継に立てられ、父の死後に王位を継ぐ。
甘露五年(260年)の曹髦の死後、次期皇帝・曹奐を迎える使者として鄴に派遣される。
その前夜に司馬炎と会見したが、翌日まで語り合い高く評価された。
晋建国後は鄄城公に立てられ、各地の太守を歴任したが政務にはあまり熱心ではなかった。後に博士祭酒に遷る。
司馬攸の領国行きの件では父の不遇を思い起こし強く諌めたが、これが武帝の怒りに触れて免職となる。後に散騎常侍に復した。

121:名無し曰く、
16/03/25 23:12:18.01 YkZco3EO.net
何夔 叔龍 カキ シュクリュウ (?~220年頃?)
統率:65 武力:47 知力:73 政治:77
豫州陳郡陽夏県の人。子に何曾。八尺三寸の偉丈夫で慎みと威厳のある容貌だった。
戦乱を避け淮南に避難したが袁術に引き留められる。何?は袁術への協力を拒み山中に隠れたが、親戚にあたるため見逃された。
建安二年(197年)、秘密裏に袁術の勢力圏からの脱出し、曹操の属官として召し出された。
後(199年頃)に地方に出て青州の長広郡の太守を勤め、その地で跋扈する賊を説得や討伐によって鎮圧した。
魏が建国されると太子・曹丕の少傅(もりやく)に就いた。
何夔は正道を重んじたが、倹約の時代にあってもっとも贅沢をしていた。諡は靖侯。

邢顒 子昂 ケイギョウ シコウ (?~223年)
統率:12 武力:23 知力:60 政治:75
冀州河間郡鄚県の人。孝廉に推挙され司徒に招聘されたが行かず、右北平で田疇の客となった。
建安十年(205年)、曹操が冀州を平定すると故郷に戻り、柳城遠征の先導を志願した。
後に冀州従事や各地の県令を歴任し、徳行や法律制度の通暁を称えられた。また、任地では農業養蚕を勧め教化が行き渡った。
後に曹植の家丞に取り立てられたが、礼を持って取締り言いなりにならなかったため曹植から疎んじられた。
後継に悩む曹操から質問を受けると、嫡子の正統を説き曹丕の太子少傅となった。
曹丕が即位すると侍中・尚書僕射となり関内侯を賜った。

122:名無し曰く、
16/03/27 23:20:42.13 hFleDdDe.net
楊豊 伯陽 ヨウホウ ハクヨウ  (?~240年頃?)
統率:56 武力:78 知力:65 政治:23
涼州酒泉郡の人。幼名を阿若。若い頃から侠客で仇討の代行を生業とした。
当時の人からは「東市で相い斬る楊阿若、西市で相い斬る楊阿若」と称された。
建安年間、一族の報復として黄昂が酒泉郡を攻撃した。
これを不義と感じた楊豊は、張掖に救援を求めたが張掖でも反乱が起こり、二郡から賞金首として狙われる。
楊豊は単騎で南羌に入ると千人ほどを手に入れ、大軍に見せかけ賊を散らし、黄昂を捕えて斬った。
220年、同族の黄華が郡を支配すると逃れたが、蘇則の活躍で帰還する。
州から義と勇と上奏され、詔勅により駙馬都尉に任命された。

123:名無し曰く、
16/03/30 23:26:43.70 Mo9z+4FB.net
孟節 モウセツ (生没年不詳)
演義の登場人物。孟獲、孟優の兄。両親の死後、孟獲らは悪行を繰り返し王化に帰さなかった。
孟節が諌めても聞き入れなかったため、万安渓に隠棲して万安隱者と号した。
建興三年(225年)南征のおり、毒泉の対処に困った諸葛亮が山の神の導きで草庵を訪れると、解毒の泉や瘴気除けの薬草を与える。
その際、諸葛亮から南蛮の王となるよう勧められたが、「功名を嫌って隠棲している」と言い断った。

124:名無し曰く、
16/04/06 21:16:57.88 bnbj1cay.net
常林 伯槐 ジョウリン ハクカイ (生年? 没年234年~239年? 82歳で死去)
統率:66 武力:23 知力:71 政治:73
司隷河内郡温県の人。学問好きで、経典を持って耕作に従事した。
初平元年(190年)、河内太守の王匡により叔父が逮捕されたが、王匡と同郷の胡母彪に道理を語り現状を訴えたため結局許される。
その後は上党に避難し陳延の保塁を頼った。財貨を目的に張楊から六十日に渡り包囲を受けるが、策略により保塁を保った。
梁習の推薦で曹操に仕え、博陵太守や幽州刺史を務め業績をあげた。
清廉潔白にして職務に厳格な人柄で、魏が建国されると尚書に任命され、その後は九卿を歴任する。
司馬懿は常林より高官であったが、身分を超えて敬意を表した。

125:名無し曰く、
16/04/07 20:57:16.09 INgUcPD0.net
闕宣 ケツセン (?~193年頃?)
徐州下ヒ郡の人。『論語』にみえる「闕党の童子」や縦横家の闕子の一族と言われる。
初平四年(193年)、数千人の軍勢を集め天子を自称する。
徐州牧の陶謙と共に挙兵し、泰山郡の華県、費県を攻略し任城を略奪した。
陶謙とは初めは連合していたが、後に陶謙に殺され勢力を吸収された。

126:名無し曰く、
16/05/08 07:46:33.97 lE2D/e77.net
>>102
楊彪はⅣに出てるだろ

127:名無し曰く、
16/06/13 14:47:46.52 BD+n/POZ.net
                                          \      /
                                          _   争   _
                          / ̄ ̄ ̄\         _    え   _
                        /ノ / ̄ ̄ ̄\        _    :   _
                       /ノ / /        ヽ    .   _   :    _
                       | /  | __ /| | |__  |                
                       | |   LL/ |__LハL |       /        \ 
\           /            \L/ (・ヽ /・) V        / | | \ 
_  争  も  _.  「| /};┐      /(リ  ⌒  。。⌒ )         n「| ┐  
_  え  っ  _ .  r| l' ///7     | 0|    トェェェイ  ノ        ∩ | | |//   
_   : . と   _ .  |′  ' /      |   \  ヽニソ /ノ        | U ′ 7
_  :      _.  l    ′     ノ ノノ/\__ノ( ((           l    /  
               !   ノ         /|   \/  |\        l   /   
/          \   '.   ',      .ィ  l_ / \_/   ヽ      _/  ,
 /  |  |  \    ',   'ヽ  _ ∧             ∧  _//   ,'
             /l   }∨ `\ ∨ /        ∨ / / / |  ハ
            / ∧  / lヽ    ∨7          ∨ /   l  l   ハヘ
           /  ∧/  | \   |/          ∨  /|  |  ハ ∧

128:名無し曰く、
16/06/25 20:59:25.36 T0bqVC40.net
韓曁 公至 カンキ コウシ (158年以前?~238年 80を過ぎて宰相となったとの記述から)
統率:42 武力:34 知力:62 政治:72
荊州南陽郡堵陽県の人。韓王信の子孫。父と兄の仇討によって名をあげた。
戦乱を避けるため、姓名を変え山中に隠れ住んだ。袁術や劉表から招聘されても
断っていたが、劉表からひどく恨まれたため宜城の長に就いた。
曹操が荊州を平定すると監冶謁者となり、鉱石製錬用の「ふいご」を改良し利益を三倍に増やす。
文帝が即位すると列侯に、黄初七年(226年)には太常に昇進した。
当時洛陽に遷都したばかりで、宗廟がギョウに残っていたため移動を請願し、
229年には使者に任命され位牌を移送する。韓曁は礼に正しく、淫祀を匡正することが多かった。

129:名無し曰く、
16/06/26 21:02:22.42 O8r06t+s.net
支謙 恭明 シケン キョウメイ (?~252年以降 享年59歳)
統率:5 武力:10 知力:71 政治:34
西域の月支国の人。一名に越。在家の訳経僧。霊帝期に漢に帰化した月支の末裔。
若くして漢書、胡書を学び六ヶ国語に精通。支婁迦讖の弟子・支亮に師事して経典の研究をきわめた。
支謙は長身の色黒痩躯、目は三白眼で瞳は黄色、
当時の人からは「支郎の眼中に黄あり、体は細くも知恵袋」と言われた。
後漢末の乱で呉に避難し、孫権に才能を認められ博士に任命されると、韋曜らと孫和の教導にあたった。
三十年にわたり『維摩詰経』『阿弥陀経』『法句経』『太子瑞応本起経』など四十九経を漢訳する。
孫亮即位後は穹隆山に隱居した。

130:名無し曰く、
16/06/27 21:03:47.46 QhV0OwEd.net
唐姫 トウキ(姫は官名) (生没年不詳 生年は少帝誕生の173年付近だろうか)
豫州潁川郡の人。父は会稽太守・唐瑁。少帝・劉弁の妻。
初平元年(190年)に反董卓連合が挙兵すると、董卓は廃位した弘農王の存在を危惧し、李儒を差し向けて謀殺を図った。
劉弁は李儒の態度から殺意を悟り官女たちと最期の宴を催すと、唐姫に別れの言葉を告げて自害した。
劉弁死後、故郷に戻った唐姫は父から再婚を勧められるも拒絶し続ける。
後の192年に李カクが関東を略奪すると捕えられ、李カクから妻に求められたが無言を通した。
賈クから事情を聴いた献帝は唐姫の境遇を悲しみ、詔によって迎え入れて園陵に置き、侍中を遣わし弘農王妃とした。

信憑性の低い『宰相世系表』によると祖父の兄は中常時・唐衡。

131:名無し曰く、
16/06/28 22:09:57.45 zjn8jZMb.net
伏寿 フクジュ (?~214年 生年は献帝誕生の181年付近だろうか)
徐州琅邪郡東武の人。父は伏完。初平元年(190年)に長安で献帝の貴人となり、興平二年(195年)に皇后に立てられた。
同年の献帝帰還時に持っていた絹を董承に奪われ、安邑県に着いた時には服は穴があき擦り切れていた。
その後は献帝と共に許都で暮らすが、董貴人の事件で父に曹操の残虐を訴える書状を密かに出す。
しかし、父の死の五年後の建安十九(214年)にこれが露見し、曹操の命により暴室へ幽閉され死去する。
王嘉の『拾遺記』には、興平二年の逃亡時に献帝を背負い急流を渡河する、兵禍から庇う、献帝の傷を癒すといった神秘的な逸話が残る。

132:名無し曰く、
16/06/29 22:45:59.55 cUOqveGt.net
趙直 チョウチョク (生没年不詳)
蜀漢に仕えた夢占い師。出身や身分は不明だが、蜀地方の夢占いでは第一人者のようで複数の人物から相談を受けている。
何祇の「井戸の中に桑が生えている夢」から没年を、
蒋エンの「一つの牛の頭が門前に転がり、血を流す夢」から宰相に就き「公」に昇ることを予言し的中させた。
また、建興十二年(234年)の五丈原の戦いに従軍していたようで、魏延の「頭に角が生える夢」についても質問を受けている。
ただし、夢の解釈が死を暗示する不吉なものであった為、魏延には「敵が自ずと敗れる」と説明した。『演義』での官爵は行軍司馬。

133:名無し曰く、
16/06/30 20:16:31.63 tmIKnV7n.net
毌丘興 カンキュウコウ (?~232年までに死去)
統率:70 武力:51 知力:66 政治:53
司隷河東郡聞喜県の人。毌丘倹の父。
建安十九年(214年)安定太守に任命された際に曹操の忠告を無視して羌族に使者を送り、使者の増長を招く。
黄初元年(220年)に武威太守に着任すると、長く続いた騒乱を鎮め羌族を懐柔し従属させた。
同年、黄華と張進が反乱を起こし各地を扇動すると、武威の反乱を未然に防ぎ、蘇則と共に精鋭を率いて張掖郡に進軍し太守の杜通らを救出する。
張掖郡の二県が降伏すると彼らを落ち着かせ農耕に従事させた。
張既の上奏により功績を認められ、高陽郷侯に取り立てられて後に中央に入って将作大匠となった。

134:名無し曰く、
16/07/01 20:12:24.13 2OsP6nYN.net
張昌蒲 チョウショウホ (昌蒲は字) (199年~257年) 
并州太原郡茲氏県の人。鍾ヨウの妾。鍾会の母。代々二千石の家柄で、若くして父母を失い鍾ヨウの嫁いだ。
鍾会著の伝記によれば、正妻の孫氏から疎まれ毒を盛られたが、妻同士の争いは家を滅ぼすとして黙って療養し、後に事が露見すると孫氏は離縁された。
平素より書物を好み『易』と『老子』を特に愛好した。また、鍾会の幼いころから学問を教授し、謙虚と慎重さの重要性を常に戒めていた。
249年の正始の変の際に鍾会は帝に随行していたが、司馬懿の挙兵は曹爽討伐だと判断し、動じる様子がなかったためその明察ぶりを称えられた。

135:名無し曰く、
16/07/03 22:56:32.67 QzwN4q6u.net
諸葛融 叔長 ショカツユウ シュクチョウ (?(204年以降)~253年)
統率:59 武力:47 知力:54 政治:41
徐州琅邪郡陽都県の人。諸葛瑾の三男。父や兄と違い贅沢を好み、寛容な性格でさまざまな技芸に通じた。
また、宴会好きで部下からよく慕われていた。赤烏年間、病死した陳表に替わって毗陵での屯田を引き継ぐ。
赤烏四年(241年)に父が死去すると、爵位持ちの兄にかわり父の位と部隊を継承、公安に駐屯する。
施績とは元から仲が悪かったが、250年の江陵攻撃から撤退する王昶に対して、約束を破って兵を出さなかったため関係がさらに悪化した。
253年の政変で兄・諸葛恪が孫峻に誅殺されると、施寛率いる施績、孫壱、全煕らによって居城を包囲され自害した。

136:名無し曰く、
16/07/04 22:04:02.50 fLIfUq50.net
杜夔 公良 トキ コウリョウ (生没年不詳 188年から220年までは活動が確認できる)
司州河南尹の人。優れた音楽感覚を持ち、八種の楽器を全て演奏できたが舞と歌だけは苦手だった。
雅楽郎に任命されたが中平五年(188年)に病のため官を去った。
その後、州や司徒から招聘があったが全て断り、戦乱を避け荊州に避難する。
劉表から孟曜とともに天子のための楽団作りを命じられこれを完成させる。
曹操が荊州を平定すると宮中の音楽制定に携わり、技芸の研究や芸能者を育成して古代の音楽を後世に伝えた。
後に曹丕の不興を買い獄に繋がれると、曹丕はその音楽を左願らに習わせようとしたが拒絶したため、官を免ぜられた。
※左願は正確には左〔馬眞〕(サテン)

137:名無し曰く、
16/07/06 20:09:49.76 j8hCYnrk.net
尉仇台 イキュウダイ (生没年不詳)
統率:58 武力:42 知力:43 政治:45
夫余族の王。父は夫台だろうか。公孫度が遼東を支配し、異民族に畏服されるようになると夫余族もこれに従った。
この当時(190年~204年ごろ)高句麗と鮮卑の勢いが強かったため、
公孫度はその二族の間にいる夫余を味方につけるべく一族の娘を尉仇台に娶らせた。
120年に夫余王子として尉仇台の名が出てくるが、年代から考えて別人であると推測される。
また、百済の王と同一視されることもあるが、年代や周辺国の記述があわないため関係性は薄いと考えられる。

138:名無し曰く、
16/07/07 21:11:25.08 IgjibCy3.net
弓遵 キュウジュン (生没年不詳)
統率:62 武力:57 知力:37 政治:48
魏の帯方太守。劉夏に代わって帯方太守となり、
240年に朝貢への返礼として梯儁らを倭に派遣して詔書、 印綬、宝物などを女王卑弥呼に下賜する。
245年、濊が高句麗の支配下に入ったことから楽浪太守・劉茂と共に濊を攻撃し降伏させた。
部従事の呉林は過去と同様に辰韓の八ヶ国を楽浪郡に組み入れようとしたが、
役人や通訳の間で話しがまとまらない間に 韓族の臣智(大酋長)が諸部族の怒りを煽って反乱を起こした。
これに対し弓遵と劉茂は討伐軍を起こしたが、弓遵はこの戦いで戦死する。しかし、劉茂と残った部隊によって韓は滅ぼされた。

139:名無し曰く、
16/07/10 22:22:42.41 220FLm7L.net
董扶 茂安 トウフ ボウアン (生没年不詳)
益州広漢郡綿竹県の人。若くして経書を学び、楊厚に師事し図識(天文による予言の一種)を極めた。
太学に遊学した後は故郷で教師をして暮らし、朝廷からの招聘を何度も断り続けていたが、
霊帝の時代に何進の招聘を受け侍中に任命される。
朝廷内では儒宗と仰がれていたが、都の混乱を予期し劉焉に「益州には天子の気がある」と進言した。
また自身も益州行きを希望して、蜀郡の属国都尉として益州へ赴任する。
益州では董扶と対等に議論できる者がいなかったため「至止(議論が止むの意)」と呼ばれた。
後に官を去って八十一歳で没した。

140:名無し曰く、
16/07/13 19:13:26.47 KnFecZ6O.net
司馬衷 正度 シバチュウ セイド (259年~306年)
統率:6 武力:18 知力:28 政治:13
司隷河内郡温県の人。司馬炎の次男で母は楊艶。西晋二代皇帝。兄の司馬軌が夭折したため皇太子に立てられた。
暗愚であることを疑われたが、聡明な子・司馬イツの存在や賈南風の策により廃嫡を免れ、
太熙元年(290年)に司馬炎の死によって皇帝に即位した。
しかし、即位しても外戚や皇后、または八王達が政治を壟断したため、主権を握ることはなかった。
また八王の乱の混乱によりギョウや長安に連行されたり、一時は廃立されたりと波乱の人生を送る。
光煕元年(306年)、長安から洛陽に帰還を果たし同年十一月に崩御した。

141:名無し曰く、
16/07/14 20:05:05.11 nNnkhPOJ.net
>>128
韓曁の子孫の韓寿が賈南風の妹の賈午とくっついてあの賈謐生んだんだよなぁ

142:名無し曰く、
16/08/26 22:15:54.61 /CxfFBQ6.net
鄭氏 姜氏 テイシ キョウシ (?~217以前)
後漢の女賊。あるとき劉楨が「四本足の蛇が門の中に住み着いている」という夢を見て、その内容を周宣に占わせた。
周宣は「この夢は国家に関わるものであり、おそらく女の反乱者が誅殺されるだろう」と解釈した。
その後、はたして女賊の鄭氏と姜氏がそろって撃ち滅ぼされた。

143:名無し曰く、
16/08/27 20:33:10.65 L95RdSPS.net
趙戩 叔茂 チョウセン シュクボウ (生没年不詳 享年59歳)
統率:12 武力:20 知力:62 政治:65
京兆郡長陵県の人。学問を好み、『詩経』『尚書』の言葉をよく用いた。また、人を労わり公平であった。
三公府に召されると、尚書選部郎として官吏の起用を担当する。董卓が気に入りの人間のみで尚書を満たそうとしたが、これを拒絶。
激怒した董卓から詰問を受けたが、厳しい態度で是非を述べたところ董卓から謝罪された。
王允が殺害されると危険を冒して遺体を収容し、その後は荊州に避難した。曹操が荊州を平定すると丞相掾に取り立てられる。
劉備の蜀侵攻は失敗すると予想した。その後は、曹丕の司馬、鍾繇の長史を勤めた。

144:名無し曰く、
16/08/28 23:25:24.95 mTgu6qGL.net
龐林 ホウリン (生没年不詳 生年は180年以降)
荊州襄陽郡の人。龐統の弟。妻は習氏。建安十三年(208年)、曹操の荊州侵攻の際に妻や娘と離ればなれになる。
章武二年(222年)の夷陵の戦いに参加し、荊州治中従事として鎮北将軍・黄権の元で江北の守備に当たった。
劉備の敗北後は黄権について魏に投降し、その際に生き別れになっていた妻子と再会することができた。
魏では列侯に封じられ、官位は鉅鹿太守まで登った。

145:名無し曰く、
16/08/29 22:24:47.06 2qhqBiry.net
習氏 シュウシ (生没年不詳)
荊州襄陽郡の人。習禎の妹。龐林に嫁ぎ娘を産んでいたが、
建安十三年(208年)に起こった曹操の荊州侵攻に際して夫と生き別れになる。
その後は魏で生活し一人で娘を養育していたが、222年に龐林が魏に投降してきたため再び夫婦で暮らせるようになった。
魏皇帝・曹丕はこの件を知ると、習氏を賢婦と称えて寝台、帳、衣服を下賜しその節義を顕彰した。

146:名無し曰く、
16/08/30 21:01:01.93 gtwceOdA.net
任安 定祖 ジンアン テイソ (124~202)
益州広漢郡緜竹県の人。若くして太学で学び、董扶らと楊厚に師事した。
図識を極め、時の人から「疑問があれば楊厚は任安に問う」と言われる。
後に故郷で学問を教え、名声は董扶と同等であった。
郡や州からの要請で官に就くも長くは在任せず、その後は推挙や招聘を断り隠棲する。
また、秦宓の推薦により劉焉が朝廷へ上奏したが、戦乱のため招聘の命は下らなかった。
弟子に杜微、杜瓊、何宗がおり、彼が死去すると碑銘が建てられた。
後年、諸葛亮が秦宓に任安の長所を聞くと「人の善行を記憶し、人の過失を忘れること」と答えた。

147:名無し曰く、
16/08/31 22:02:14.93 PsXc653q.net
左思 泰沖 サシ タイチュウ (生没年不詳 死去は303年の数年後)
青州斉国臨淄県の人。父は左熹、妹に左棻。妻は翟氏。寒門出身で容貌は醜く吃音だったが、学問に励み文章に優れた。
『斉都賦』の作成後、三国の賦の作成を決意。妹が宮中に入ると洛陽に移住し、各都の資料を得るため秘書郎に就く。
その後、構想から十年を経て『三都賦』を完成させるも、世間の評価は低かった。
しかし、皇甫謐など著名人から序文や注釈を得るにつれ評価が高まり、
多くの人々が筆写したために洛陽の紙価が高騰するほどの人気を博した。
後に賈謐の招きに応じ『漢書』を講じ、賈謐が誅殺されると隠棲して冀州で病没した。

※『晋書』では字が太沖、父が左雍、妹が左芬と表記されるが、同時代の墓碑である『晉左貴人棻墓誌』の記述を優先した。

148:名無し曰く、
16/09/01 23:14:54.03 7FzrFpCF.net
左棻 蘭芝 サフン ランシ (?~300)
青州斉国臨淄県の人。父は左熹、兄に左思。司馬炎の妃。若くして学を好み文章を良く綴った。
兄に次ぐ名声があったため司馬炎から宮中に迎えられる。
泰始八年(272年)に修儀(後宮の位)を拝し、後に妃の最高位・貴嬪に昇った。
容貌が醜いため寵愛はなかったが、その文才により厚遇される。
また、病弱で常に病室にいたため、司馬炎は華林園で遊ぶときは(気を使って)部屋を過ぎると車を返した。
帝からたびたび文章作成を命じられたが、完成するとその都度恩賜が下された。
書や賦、頌は数十篇におよび、代表作に『離思賦』などがある。

149:名無し曰く、
16/09/03 21:01:29.02 6RpZulfI.net
董恢 休緒 トウカイ キュウチョ (生没年不詳)
荊州襄陽郡の人。蜀漢の巴郡太守。
若い頃、董允が費イらと宴会に出ようとした所に折り悪く訪問したが、董允は予定を取りやめ、そのまま引き止められた。
その後、費イの副使として呉を訪問する。
ある日、泥酔した孫権が「楊儀、魏延の重用は後の災いを招く。これは良い計画かな?」と尋ねたところ、
費イは返答に詰まってしまう。そのとき董恢が「楊儀、魏延に反逆心はなく、統一事業に必要不可欠。
これを捨てることは良計とは言えません」と答えたため、孫権は大いに笑った。
帰国後、報告を聞いた諸葛亮は丞相府属とし、巴郡太守に任命した。

150:名無し曰く、
16/09/05 22:57:45.19 UCpK0/yf.net
盧毓 子家 ロイク シカ (183年~257年)
統率:31 武力:26 知力:72 政治:78
幽州涿郡涿県の人。盧植の四男。魏の政治家。九歳で父や兄を亡くし、嫂と甥を養いつつ生計を立てた。
曹丕から召し出され、崔琰の推挙で冀州の主簿となる。その後、各地の太守を歴任した。
明帝は諸葛誕らの虚名を嫌い名士の不採用を命じたが、「常人は品行により名声が立つので忌むべきではありません」と答える。
また、盧毓は長く人材登用に携わったが人格、品行を重んじ、才能はその次という方針を採った。
249年の司馬懿の政変では裁判を担当し、謀反の疑いで曹爽らを処刑。毌丘倹の乱では司馬師の代わりに留守を取り仕切った。

151:名無し曰く、
16/09/06 22:58:19.06 cv2Jw6d/.net
王連 文儀 オウレン ブンギ (生没年不詳 没年は225年以前)
統率:28 武力:27 知力:64 政治:80
荊州南陽郡の人。蜀漢の政治家。劉璋の時代に蜀に移り、梓潼の県令を務める。
建安十八年(213年)、劉備の蜀攻めでは城門を閉ざし降伏しなかった。
劉備はその義心を評価して無理に攻撃せず、益州平定後は各地の県令を任せた。
その後、司塩校尉に昇進すると塩と鉄の市場を管理して利益を増し、国の収益を大幅に増やした。このとき、呂乂、杜祺、劉幹などを抜擢。
建興元年(223年)に屯騎校尉、丞相長史(幕僚長)を兼務し平陽亭侯に封じられる。
当時、南征を志す諸葛亮に対して危険すぎると幾度も諫言し、彼の存命中は南征は行われなかった。

152:名無し曰く、
16/10/18 19:52:05.55 R+rWoX5O.net
公仇称 コウキュウショウ (生没年不詳)
後漢の零陵太守。孫堅の長史。初平元年(190年)、魯陽城を拠点とした孫堅から、兵糧の督促のため荊州に派遣されることとなった。
送別の宴が東門の外で行われたが、董卓の軽騎兵に襲撃される。
しかし、孫堅が落ち着いて行動したため、兵も混乱せず無事入城でき、また董卓軍も動きを警戒して撤退した。
『古今姓氏書辯證』によると晋の文侯・姫仇の後裔とされる。

153:名無し曰く、
16/10/20 21:00:02.02 RSNS3sxZ.net
程畿 季然 テイキ キゼン (?~222年)
統率:57 武力:79 知力:67 政治:58
益州巴西郡閬中県の人。初め劉璋に仕え、漢昌の県長を勤めた。
巴西太守・龐羲は県内の異民族を警戒して私兵を集めたが、これを劉璋に讒訴する者がいて両者の関係は険悪となる。
龐羲は子の程郁を遣り懐柔を図ったが、程畿は拒絶し逆に説得して事態を収束させたため、江陽太守に昇進した。
劉備が益州を治めると従事祭酒に任命される。後に呉征討の軍に従い、夷陵で劉備が敗れると船で撤退する。
呉の追撃を受けると、自ら戟を持って奮戦。敵船の中には転覆するものもあったが、衆寡敵せず戦死した。
『演義』では呉兵に包囲されると自刎した。

154:名無し曰く、
16/10/21 19:50:16.17 YbxvFgnp.net
楊琁 機平 ヨウセン キヘイ (生没年不詳)
統率:62 武力:10 知力:82 政治:78
揚州会稽郡烏傷県の人。父は楊扶、兄は楊喬。初め孝廉に推挙され、霊帝期に零陵太守となる。
光和三年(180年)、蒼梧や桂陽の住民が反乱を起こし郡県の役所を攻撃した。
楊琁は、馬車に石灰を積んで煙幕を張り、次に馬の尾を繋いだ布に火をつけることで馬車を敵陣に突撃させ、
最後に戦車に乗った弓弩兵の攻撃によって賊軍に大勝し首領を討った。
一時、荊州刺史・趙凱の誣告で投獄されるも、血で記した訴えにより無実を勝ち取る。
議郎から勃海太守に遷ると業績を上げた。後に尚書僕射を拝するが、病気で隠居を乞い家で没した。

※補足 
先祖の楊茂は元々河東郡の人で、光武帝に従い烏傷に封じられたが罪を経て国は除かれた
父は有能な交趾刺史として名が知られた
兄は容儀偉麗で桓帝から才能と風貌を愛された 公主を妻にと詔が下ったが拒否し断食で死亡
賊の攻撃あったとき、賊は数が多く、楊琁は「力が弱いため」役人は恐れおののいた、とあり、なめられてた様なので、統率、武力の評価は低くした
戦功偽装の罪で投獄され、牢屋は警備が厳しく自由に訴えもできなかったため、
肘(?)を噛んでその血を使って服に詳しい戦況や趙凱の誣告の罪を書き連ね、密かに親族に渡してお上に訴えた。
張温が尚書令であるとき(184年以前)に尚書僕射に推薦された

155:名無し曰く、
16/10/22 19:36:57.03 +d5+Paws.net
公沙廬 コウサロ (?~196年以前)
青州北海郡膠東県の人。後漢の方士・公沙穆の同族か。
公沙氏は県下で有力な豪族で、自ら防備を固め租税を払わなかった。
しかし、膠東令に就いた王脩は数騎で屋敷に突入すると公沙廬兄弟を斬り、他の一族を慰撫したため県内は落ち着いた。

156:名無し曰く、
16/10/23 20:32:05.25 qaxz+6DG.net
裴潜 文行 ハイセン ブンコウ (?~244)
統率:70 武力:32 知力:68 政治:77
司隷河東郡聞喜県の人。裴茂の子。裴秀の父。魏の政治家。戦乱を避け荊州に避難していたとき、王粲や司馬芝と親しく劉備とも交流があった。
劉表の失敗を予期し長沙まで下っていたが、曹操により参丞相軍事に取り立てられる。
いくつか県令を経た後、烏丸と接する代郡太守を務めて地域を安定させた。その後は兗州刺史を勤める。
219年、合肥への援軍を命じられたが、温恢の忠告から不意の召集に備えたため、徐晃の援軍として関羽追討の部隊に参加する。
その後は曹丕、曹叡の時代を通じて地方や中央で要職を務め、太尉軍師・大司農に昇進した。

157:名無し曰く、
16/10/24 19:32:29.76 8jTl+/j8.net
裴儁 奉先 ハイシュン ホウセン (生没年不詳)
司隷河東郡聞喜県の人。裴茂の子。裴潜の弟。蜀漢の政治家。
裴儁が十余歳のとき、姉の夫が蜀中長史になったため任地まで送っていった。
しかし、そのとき天下が乱れ治安が悪化したため、蜀にそのまま留まった。成長すると評判を上げ周囲から重んじられる。
劉備政権では光禄勲に就き、孟光が煙たがられていたこともあって、彼より若年であったが位は高かった。

158:名無し曰く、
16/10/25 19:06:57.64 GlLbIsd2.net
裴徽 文季 ハイキ ブンキ (生没年不詳)
司隷河東郡聞喜県の人。裴茂の末子。裴松之の六世祖。魏の政治家。
高い才能と遠大な見識を持ち、よく玄妙の理について語った。
傅嘏と親しく、太和初年(227年)に傅嘏と荀粲が互いに重視する理論の違いから口論することがあると、裴徽は両者の間を取り持ち和合させた。
正始(240~249年)の頃は吏部郎を勤め、年少の王弼が訪ねて来ると一目で高く評価し「無」について質問をした。
冀州刺史の頃(244年)、趙孔曜の推挙により管輅を文学従事の官に招聘する。
実際に彼と会ってみると意気投合して友誼を結んだ。傅嘏の伝によると早世したとある。

159:名無し曰く、
16/10/26 21:01:00.31 KrQJqqiY.net
皇甫謐 士安 コウホヒツ シアン (215年~282年)
涼州安定郡朝那県の人。皇甫嵩の曾孫。皇甫叔侯の子。西晋の学者。
叔父の家で二十歳まで放蕩三昧を尽くしていたが、叔母の説得で発奮し勉学を始める。農業の合間に経典を読み、また著述に励んだ。
仕官はせず寝食を忘れて典籍に取り組む様子から、当時の人から「書淫」と言われる。
嘉平六年(254年)、生母の喪に服するため帰郷。その後は司馬炎などから度々招聘されたが、風痺を患っていたため皆断った。
著作は多岐にわたり『帝王世紀』、『年暦』、『高士伝』、『列女伝』などの他、当時の鍼灸の書を整理した『鍼灸甲乙経』などがある。

160:名無し曰く、
16/10/27 20:46:23.89 N92Sawwz.net
許允 士宗 キョイン シソウ (?~254年)
統率:61 武力:20 知力:57 政治:67
冀州高陽郡の人。妻に阮氏。魏の官吏。名門出身で李豊や夏侯玄と親しく、印鑑の鑑定法に長けた。
明帝の頃、尚書選曹郎であったが罪を犯し袁侃と投獄される。刑期を終えた後は出世して侍中・尚書・中領軍となる。
正始十年(249年)、司馬懿の政変では陳泰と共に曹爽に投降を進言する。
251年に司馬師が政権を握ると王基は「許允らは正直の士で政治に参画させるべき」と文書で推薦し用いられた。
しかし、李豊逮捕の件で慌てた様子から司馬師に怪しまれ、
また劉靖の後任で鎮北将軍となった送別の席で横領罪が告訴され、流刑の途上で死去した。


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch