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韓曁 公至 カンキ コウシ (158年以前?~238年 80を過ぎて宰相となったとの記述から)
統率:42 武力:34 知力:62 政治:72
荊州南陽郡堵陽県の人。韓王信の子孫。父と兄の仇討によって名をあげた。
戦乱を避けるため、姓名を変え山中に隠れ住んだ。袁術や劉表から招聘されても
断っていたが、劉表からひどく恨まれたため宜城の長に就いた。
曹操が荊州を平定すると監冶謁者となり、鉱石製錬用の「ふいご」を改良し利益を三倍に増やす。
文帝が即位すると列侯に、黄初七年(226年)には太常に昇進した。
当時洛陽に遷都したばかりで、宗廟がギョウに残っていたため移動を請願し、
229年には使者に任命され位牌を移送する。韓曁は礼に正しく、淫祀を匡正することが多かった。