18/09/21 19:02:34.69 tsRAxZn10.net
劇場版「ペルソナ3」にまつわる妄想
結城 理にとって劇場版「ペルソナ3」の全4章はデスをその身に封印され、心が虚ろになってしまった彼が、特別課外活動部の仲間達とのふれあいを経て、その中身を満たし直していくまでの過程をたどる物語でした。
理の記憶の甦りという物語構成の妙として、時間軸とそれが公開されるタイミングがズラされていたりしたので、ゲーム版に触れたことがない観客の皆さんは初登場時の理の立ち位置に一種の不気味さを感じたのではないかと思います。
そのうえ各章で起こる事件は、例えばゆかりの父親に対する誤解や順平とチドリの一件、荒垣先輩と天田くんの関係など暗くて重いものが多い印象です。
しかしそういった明るくてハッピーなものばかりではない、人が内側に抱え込んでいる傷の部分をきちんと描いたからこそ、彼らに出会ってそれを見つめることになる理も、
章が進むにつれて、本来、人として持っているべき大切なものを、欠けることなく獲得していけたのだと思います。
劇場版「ペルソナ3」の全4章が観客の皆さんに受け入れて頂けたのも、ゲームで体験したストーリーを映像で見てみたいという興味の他に、そんな理の見る景色に影響され同調することで、その先の展開が気になったからという部分もあったのではないでしょうか。
このように人の心を構成する様々な経験の起伏を描いた劇場版「ぺルソナ3」ですが、そもそもペルソナという単語は僕の理解では心理学周辺で出てくるものですよね。
一番初めのゲーム収録でこのタイトルと内容を知ったときに、バトルをするための自分の化身をペルソナと呼ぶなんて、何てシャレてるんだと思ったものでした。
人が対外的に自分を表すためにかぶる仮面。それが敵、自分に向かってくるモノと戦うための武器になる。これは日常のコミュニケーションそのものに見えます。
だから、そういうペルソナを本来の意味を考えると、理だけが一つのペルソナの進化という形ではなく、初めから複数のペルソナを使い分けられるというところにも自分なりに納得のいく理屈をつけることができそうです。
心の中が空っぽの理には端から対外的にどう見られたいという願望がありません。そんなことは彼にとってそれこそ「どうでもいい」ことであって、どう見られても構わないからこそ、かぶる仮面を一つに限定する理由がないのです。
どうでしょう。自分としてはこの理由付けの仕方、なかなか気に入っています。
理が空の器であったと捉えることで、映画の登場人物として物語を展開させていく大きな必然性を持たせることにもなるのです。
結城 理の物語はゲームの枠にとどまらず、映画化という展開にも充分耐えうるポテンシャルを持っていた、だから映画化されるのは必然だったというのはちょっと暴走し過ぎでしょうか。