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赤井英和さん、人生変えた三角公園 「外に出るな」隙間から見た暴動:朝日新聞
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聞き手・矢島大輔 市原研吾2024年9月7日 10時00分
三角公園(萩之茶屋南公園)で思い出話をする赤井英和さん(左)。右は赤井さんを「兄ちゃん」と慕うラッパーのSHINGO★西成さん=2024年7月29日、大阪市西成区、西田堅一撮影
大阪市西成区出身の赤井英和さん(65)は高校時代、地元にある通称「三角公園」で人生が変わったという。日雇い労働者らの憩いの場となってきた公園での、ある出来事がなければ、プロボクサーや俳優の道もなかったと振り返る。
―赤井さんが小中学生だった1960年代後半から70年代初め、西成では暴動が相次いでいました。
毎年のようにね。お父ちゃんから「外に出るなよ」と念を押されていた。家の2階の窓を少しだけ開けてその隙間から外をのぞくと、よく見かける日雇い労働者のおっちゃんたちが投石したり、機動隊ともみ合って血を流したりしていた。
―まさに日雇い労働者のまちだったと。
そうやね。あの頃よりだいぶ人数も少なくなったし、高齢化したんやろうけど。
一緒に住んでいた母方のおばあちゃんは90歳過ぎまで生きた。年齢がいってもニコニコしながらよく家の前の道をはいていた。80年に亡くなり、家で葬儀をした。おれが20歳のときやった。
「お宅のおばあちゃん、亡くなったんか。いっつもあいさつしてくれたんや」。ニッカボッカ姿の日雇い労働者たちも参列し、10円とか、50円とかの香典を置いてくれた。長く釜ケ崎で暮らし、色んな人に愛されていたんやなあ。そう感じたわ。
―地元の人たちが集まる三角公園はその頃どんな雰囲気でしたか。
たくさん日雇い労働者らが集まっていた。それで酒を飲みながらずっとしゃべっていて、騒いでもいた。
おれの人生を変えた場所でもある。浪速高校1年のとき留年した。「年下の連中と一緒なんてやってられるかい」。部活をやめるだけじゃなく、高校も中退しようとした。そうしたらボクシング部の顧問が家を訪ねてきた。
■裸足で逃げ、裸足で追いかけ…
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