ウクライナ東部で砲撃 親ロ派と政府、互いに非難―「偽旗作戦」シナリオに懸念 [ひよこ★]at EDITORIALPLUS
ウクライナ東部で砲撃 親ロ派と政府、互いに非難―「偽旗作戦」シナリオに懸念 [ひよこ★] - 暇つぶし2ch24:名無しさん@お腹いっぱい。
22/03/12 01:39:53.28 suE+x92R0.net
グロズヌイ(Grozny、ロシア語: Грозный、チェチェン語: Соьлжа-Г?алаソールジャ・ガラ)は、ロシア連邦南部に位置するチェチェン共和国の首都。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
グロズヌイはロシア語で「恐怖を覚えさせる」「厳めしい」といった意味を持つ語で、イワン4世のあだ名(Иван Грозный / Ivan Groznyi, 日本では「雷帝」という訳が定着している)として知られる。
1818年、ロシアの前哨基地としてテレク川のコサックによってスンジャ川に面するこの地にグロズナヤ要塞が築かれ、カフカーズ戦争では主要な基地となった。
1850年代に油田が発見される。ロシアに併合される頃には、要塞都市としては旧式化して廃れる。1869年にグロズヌイという市名になる。
1922年にはチェチェン自治州に組みなおされ、その首都となる。 この当時、住民のほとんどがコサックだったため、ソ連政府はコサックの反政府行動を恐れて、山岳地帯のチェチェン人にグロズヌイへの移住を奨励、1936年、チェチェン・イングーシ自治共和国が生まれる。
第二次世界大戦中の1944年、チェチェン人とイングーシ人は、ナチス・ドイツに協力したという烙印を押され、グロズヌイを追放される。その際、10,000人が殺される。さらに市内のチェチェン人の居た痕跡は内務人民委員部によって徹底的に抹殺された。
その後、グロズヌイ州となる。住民はロシア人ばかりとなった。1957年、チェチェン・イングーシ自治共和国が復活し、チェチェン人の帰還が許される。今度はロシア人が市内を脱出、彼らの移住先は主にバルト三国であった。1960年代にはロシア人の人口は過半数を割り込み民族紛争が起きてくる。
ソ連崩壊で、グロズヌイにはジョハル・ドゥダエフの独立派の政権が誕生、市内に残っていたロシア人など、チェチェン人でない民族は、独立派の過激派によって強制的にグロズヌイから追放され、民族浄化も行われた。
第一次チェチェン紛争では、1994年12月から翌年の2月にかけてまず市内で激しい戦闘が行われた。
チェチェン独立派がグロズヌイを掌握した中で休戦となる。
1999年10月、ロシア軍はグロズヌイを包囲、市民で込み合う中央バザールに5発のSS-21を発射、140人が死亡した。その後、大量の火力を動員し砲撃に移行した。
2000年2月、ロシア軍はチェチェン軍に市内から隣村への安全な退却を約束、チェチェン軍を罠にかける。地雷原となっていた退却路に誘き出されたチェチェン軍は壊滅、市長や最高指揮官が戦死、シャミル・バサエフも負傷する。ロシア軍は無人のグロズヌイに凱旋する。市内を徹底的に爆破した後で、市民の帰還が許可された。


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