光秀の妻死去は「本能寺の変」前か ゆかりの寺に新史料、寄進文書に戒名 [ひよこ★]at EDITORIALPLUS
光秀の妻死去は「本能寺の変」前か ゆかりの寺に新史料、寄進文書に戒名 [ひよこ★] - 暇つぶし2ch1:ひよこ ★
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毎日新聞2020年8月7日 19時24分(最終更新 8月7日 19時58分)

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聖衆来迎寺所蔵の「仏涅槃図」の裏面に記された「寄進銘」。明智光秀の妻熙子の戒名「福月真祐大姉」が記される=大津市御陵町の市歴史博物館で2020年8月6日午後2時20分、礒野健一撮影

 大津市歴史博物館は7日、戦国武将・明智光秀の妻熙子(ひろこ)の死亡時期を推定させる新たな史料が、ゆかりの深い寺院で見つかったと発表した。光秀を支えた良妻とされるが、正確な事績を伝える史料は極めて少なく、死亡時期は「本能寺の変」(1582年)の前後両説があった。今回の発見で熙子が本能寺の変の前に亡くなったことが確実になったといい、謎の多い光秀一族の一端を解き明かす史料として期待される。
 熙子は、関ケ原の戦い(1600年)の際に非業の死を遂げた細川ガラシャの母で、子孫に当たる肥後細川家の家系図などで美濃国(岐阜県)の豪族・妻木氏の出身と記される。光秀の菩提(ぼだい)寺・西教寺(大津市坂本5)にある墓石や過去帳では天正4(1576)年死亡とし、戒名を「福月真祐大姉(ふくげつしんゆうだいし)」と伝える。一方、本能寺の変の直後に光秀の居城・坂本城が落城した際、妻子が死亡したと当時の宣教師などが記しており、死亡時期や光秀の妻が熙子だけだったのかなど異説や議論がある。
 同博物館は近年の関心の高まりを受けて光秀関連の史料を改めて調査。光秀が庇護(ひご)した古刹(こさつ)・聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)(同市比叡辻2)が所蔵する仏教画「仏涅槃(ねはん)図」の裏面に、寄進者と由来を示す「寄進銘」が記され、文中に熙子の戒名があることを確認した。寄進日は天正9(1581)年8月で、熙子はその時点で亡くなっている物故者として記されていた。同博物館は「76年に死亡した可能性が高まった。光秀一族を探る上で意義のある発見」としている。

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明智光秀の妻熙子の戒名が裏面に記された聖衆来迎寺所蔵の「仏涅槃図」=大津市御陵町の市歴史博物館で2020年8月6日午後2時44分、礒野健一撮影
 仏涅槃図は、同博物館で開催中の企画展「明智光秀と在地土豪」で10月4日まで展示された後、同10日から11月23日まで開かれる「聖衆来迎寺と盛安寺―明智光秀ゆかりの下阪本の社寺―」にも出展される。問い合わせは同博物館(077・521・xxxx)。
 熙子は、光秀が織田信長の家臣として名を表す前、自らの黒髪を切り売りして家計を支えたとの伝承があり、俳聖・松尾芭蕉も熙子をしのぶ句を詠んだ。NHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」でも主要キャストとして木村文乃さんが演じている。【礒野健一】


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